海軍大尉 小灘利春

 

第一回天隊の戦闘

平成17年 3月10日

基地回天隊の創設

人間魚雷「回天」はもともと、潜水艦から出てゆく兵器である。

母潜水艦が回天を四基乃至六基、甲板の上に並べて搭載し、敵の前進根拠地にひそかに近づくと、

搭乗員が潜水艦の中から回天に乗艇する。

最適の地点から最良の時刻に、発進して泊地の奥深くまで進んでゆく。

碇泊中の敵主力艦を、一艇で一艦を撃沈し、多数の回天が同時集中攻撃を敢行して、一挙に天運を挽回しようとする構想であった。

開発者たちはその大目的のもとに効果的で無駄がなく、且つ急速生産が可能な機能と構造を考案して、請願を重ね、

遂に昭和十九年八月一日、兵器採用が実現したものである。

しかし、大型潜水艦全体が急速に消耗を続け、回天を搭載できる艦の隻数が僅かになった。

そのため輪送用の潜水艦までを回天搭載艦に改装し、数少ない潜水艦が繰り返し回天を搭載しては出撃した。

その傍ら、戦場が本土周辺にまで迫る趨勢となったので、本土防衛にも効果的であると判断された回天を沿岸に配備する

「基地回天隊」が次々と編成された。

予め、敵軍の上陸が予想される地点に近い海岸に基地を設け、回天を格納壕に収めて秘匿して、その中で整備しながら

待機を続け、侵攻部隊の艦船が接近してくると発進して、撃減する回天隊である。

基地回天隊は先ず第一回天隊が沖縄に進出した。

本土決戦の気運が急迫するに伴って、次々と増設された訓練基地で回天搭乗員の練成が急速に進んだ。

第二回天隊が伊豆諸島の八丈島へ進出、第三、第五回天隊は宮崎県南部へ、第四、第六、第七回天隊は高知県海岸へと、

南九州、四国南部の沿岸を中心に、編成ができた順に番号が付けられて次々と展開していった。

 

最初の「第一回天隊」は昭和十九年十二月頃に編成された。回天の数は、当初の計画では先ず八基が進出し、

後に追加配備して計三隊、十八基とする予定であった。

隊長は海軍兵学校七二期の河合不死男中尉であった。

第一次の菊水隊の際、河合中尉は「第一特別基地隊附」の職名から、昭和十九年十月一日「兼補・第六艦隊司令部附」の形で

出撃搭乗員を発令され、海軍省の辞令公報にも掲載された。

しかし回天の作戦計画は規模が次々と縮小され(このときは参加潜水艦六隻、回天二四基の規模であった。

それが出撃前になって、参加潜水艦の数がさらに削減され、潜水艦僅かに三隻、回天十二基になってしまい、

そのため河合中尉の出撃は取り消された。

あと基地回天隊の第一陣の隊長に河合中尉が任命され、ほかの外された搭乗員たちは第二陣の金剛隊に廻った。

 

隊員の回天の操縦訓練は大津島と光の両基地を使用して、頻繁に往来しながら急速練成が行われた。

基地から外洋に出る水道通過と航行艦襲撃の両方の訓練である。

回天を陸上から発進させる作業のほうは、徳山湾内の大津島と黒髪島の間にある小さな無人島の「樺島」が使われた。

狭くて急な砂浜があるので、回天の発進作業に好適であった。

基地員はここで操り返し研究、訓練をした。

砂浜の上に厚い板を水際と並行に並べ、その上に道板を二筋、縦に置き、さらにその上を頑丈な丸木のコロを挿んで、

回天を乗せた架台を神楽桟(カグラサン)でワイヤーを捲き、海中から引き揚げ、また海へ引き下ろす。

神楽桟は船の揚錨機のような構造であり、周囲に数本の柄を差し込んで、大勢の人員が人力で廻すのであるが、

なかなかの重労働であった。

この揚げ下ろし訓練に使った回天は旧くなった六金物試作艇であった。

寸法、重量は回天一型と同じである。

河合隊は「第一回天隊」と命名された。

非公式であるが「白龍隊」と、仲間内では呼んだ。

回天八基の搭乗員八名が一緒に訓練を重ねていたが、うち佐藤旭二等兵曹は出撃前の搭乗訓練中に負傷したために

急遽参加が取り止めとなり、搭乗員は七名で出撃した。

 

出撃搭乗員は

海軍中尉        河合不死男 海軍兵学校第七二期                愛知県

海軍少尉        堀田耕之祐 海軍兵科四期予備士官              大阪府

海軍二等兵曹     田中金之助 水雷科下士官                大阪府

海軍二等兵曹     新野守夫  同                         徳島県

海軍二等飛行兵曹  猪熊房蔵  第十三期甲種飛行予科練習生出身   東京都

海軍二等飛行兵曹  赤近忠三  同                        鹿児島県

海軍二等飛行兵曹  伊東祐之  同                        岩手県

 

佐藤兵曹は整備員に戻り、後宮崎県に進出する基地回天隊の整備員になった。

搭乗員七名のほか、回天整備、発進作業の要員、また砲術科員、通信科、医務科など各部門の業務を分担する基地員を併せ、

総勢一二七名の人員構成であった。

八丈島に進出した第二回天隊の場合は陣地防備のため二五ミリ機銃も装備していたので、第一回天隊も同じであったと思われる。

沖縄に進出した回天は予定どおり八基であるが、その一基は訓練用として扱われている。

恐らく実用頭部ではなく、訓練用の頭部を装着したものと思われる。

 

白龍隊出撃

三月一日、第一特別基地隊が機構改革によって「第二特攻戦隊」となり、規模が大きくなった。

本部も倉橋島の大浦崎から光に移転し、第四部隊と呼ばれていた光基地は「光突撃隊」と名称が変わった。

三月十三日、光突撃隊本部の広場に基地全員が整列して、第一回天隊の壮行式が潜水艦で出撃する場合と

全く同じ様式で執り行われた。

ただ出撃を命令したのは、これまでの潜水艦作戦では第六艦隊司令長官の三輪茂義中将であったが、

基地回天隊では第二特攻戦隊司令官の長井満少将であった。

あと本部前での出撃記念写真ほか各種の記念撮影ののち、光基地の沖合で待機している第十八号一等輸送艦に乗り込んだ。

 

同輸送艦は昭和二十年三月十日、呉海軍工廠で竣工し、直ぐに光に回航して、既に回天八基ほか備品、機具資材の

積み込みを終えていた。

この艦型は排水量一五〇〇トン。口径一二.七糎の二連装高角砲一基を艦橋の前に装備し、速力二二ノット。

部隊や兵器、弾薬、食料などを前線へ急速輸送する目的で、昭和十九年以降建造が開始され、

一号から二一号まで同型艦が計二一隻建造されている。

貨物の荷役や交通のため、前扉が開く方式の大型発動艇(大発)四隻と中型発動艇(中発)一隻を搭載することが出来、

上甲板の再舷にはレールが敷かれ、艦尾は斜めのスリップになっていて、発動艇に貨物や人員を載せたまま海面へ

滑り降ろす構造で、戦場が近い水域であっても強行進入して、急速荷役が出来る高速艦であった。

回天を積載する場合は大型発動艇を全部降ろし、代わりに回天を六基、最大限八基までを、両舷に分けて積載した。

特殊潜航艇(甲標的、蛟龍)ならば二隻を積む。

 

十八号輸送艦は第一回天隊の搭乗員、整備員、基地員の全員一二七名を乗せて三月十三日1300、光突撃隊全員の

歓呼の声に送られて沖縄に向け出撃した。

途中、佐世保に寄港して、沖縄特別根拠地隊あての資材を積み増し、十六日正午に出港、沖縄本島の那覇に向かった。

那覇の北西三十浬にある粟国島の西を廻って、十八日朝、0800に入港する航海計画であった。

敷設艇「怒和島」「済州」の二隻が同行し、護衛についた。排水量七二トン、備砲八糎一門、速力二〇ノットである。

機雷一二〇個を積載できた。

十七日2400、北緯二七度〇〇分、東経一二七度一五分の地点で二隻の敷設艇は護衛任務を終え、別れて西に向かい、

石垣島周辺に機雷を敷設する作業に就いた。

 

十八号輸送艦は那覇に到着しなかった。

佐世保鎮守府は三月二五日、電報で「怒和島、済州護衛、沖縄(三.一八 0800那覇着の予定)に向かいたるところ

三.一七 2400 護衛艦と分離後、消息不明。

分離後沖縄付近、または海上護衛隊の警報により退避中、敵潜水艦の攻撃を受けたるものと推定せらる」と連絡があり、

以後「行方不明」として処理された。

一部の公式文書に「六連島(関門海峡西口)付近で沈没」と記されているが、これは明らかな誤りである。

 

米潜との交戦
米軍は沖縄侵攻に先立ち、南西諸島周辺に数多くの潜水艦に分担区域を割り振って配備し、海上補給と人員の往来

を遮断していた。

米国潜水艦「スプリンガー」一八七トンはグアム島の「アプラ」基地を二月十七日に出港し、沖縄本島北西の粟国島周辺の

担当哨戒区域に二六日に到着、日本艦船を攻撃する任務に就いていた。

三月十七日夜間、同艦は浮上して移動哨戒中、2355粟国島に向かって南下してくる三目標をレーダーで探知し、

航跡を記録して解析を開始した。

その一隻は波長一〇糎の対水上レーダーを一定間隔で使用していた。

他の二隻が十八日に入って0037、分離して西に向かったので、同潜水艦はこの二集を追って水上航走で追跡を始めた。

しかし探知不能となり見失って、あと一隻の目標のほうへ戻ってきた。

0215、再び探知した「スプリンガー」は、駆逐艦または中型輸送艦と見られる目標が、元のままの針路、速力で航行している

ことを知って夜間浮上襲撃を決意し、魚雷発射点に占位する行動をとった。

海況四の、荒天の闇夜であった。

 

目標は針路一八〇度で南下していた。

0303、目標の速力一一・五ノット、方位角右九〇度、距離二七〇〇米と測定、魚雷の深度を一・八米に設定して、

潜水艦は針路九〇度、速力十二ノットで浮上航走のまま、魚雷四本を八秒間隔で発射した。

二本が命中。目標が艦砲で射撃を開始したので0317、潜航した。

0346、目標の針路一九五度であまり変わらず、海面上に浮いていたが、速力は〇・七ノットにまで落ちていた。

潜水艦は魚雷一本を、方位角右七五度、距離八〇〇米で潜航発射した。聴音では正常に魚雷は走って行ったが、

艦底の下を通過したらしく、命中しなかった。

「スプリンガー」は針路を反転し、後部発射管から電地魚雷三本を0353、方位角右一〇〇度、距離七〇〇米で、

深度を米にして発射した。

停止状態で、なお浮いていた目標は、魚雷一本がさらに命中して、七分後の0400、遂に沈没した。

位置を粟国島の北西五〇〇〇米の北緯二六度三九分、東経一二七度一二分と報告しているが、

この地点は潜水艦自身の位置であって、沈没地点はこれより七〇〇米東に沈没していると見られる。

水深約千米。

 

輪送艦は沈む前、探照灯で粟国島を照射した。

米潜のほうではそれを、粟国島の日本軍の砲台に援護、救助を求めていると判新したが、輸送艦は近くに島があることを

乗員や便乗者に示すために、敢えて照射したのかも知れない。

しかし乗員は配置に就いたまま、最後まで戦ったであろう。

沈没後、若し海上に泳ぎ出したとしても、荒天の暗夜であり、且つ島の西から北西にかけての海岸は険しい崖になっていて、

人家も灯火もない。

たとえ輸送艦の乗員や便乗者たちが泳ぎ着いても、陸に上がることはできなかったであろう。

島に収容された人員は皆無であった。

粟国島には日本の陸海軍とも配備がなかった。

潜望鏡を発見して通報した記述があるなど、詳細に観察し、記録する島人もいたが、深夜且つ荒天なので、

砲声も爆発音も聞こえず、島の住民は近くの海面で発生したこの出来事を全く知らなかったという。

 

回天基地の所在

第一回天隊が便乗した第十八号輸送艦は那覇港に向かっていたが、積載した回天の行先、即ち回天隊の基地は何処に

設営されていたのか、これが今なお不明である。

配備地点の選択は、回天を効果的に運用するために大事な要素であるが、兵器が現実に到着しなかった上、

沖縄本島が陸上戦闘の場になって破壊され、資料も散逸して、現地ほか関係者の多年の努力にもかかわらず、

未だに解明されていない。

本島北西岸の運天港にいた特殊潜航艇の沖縄第二蛟龍隊も、第二七魚雷艇隊も、回天隊が来ることは全く聞かなかったと

生存者は語る。

沖縄に展開した第二二震洋隊の場合、兵器、人員を積載した輸送船が一旦那覇港に入港して、打合せの上、

配備地区の沖縄本島東岸の金武湾に回航して揚陸している。

第十八号輸送艦が沖縄特別根拠地隊向けの資材も併せ積んでいたこともあって、一旦那覇港に入港した上で、

司令部の指示を受けて回天隊の基地に回航する予定であったと考えられる。

 

沖縄で小祿の「海軍壕」をはじめ海軍の各種陣地を構築した山根部隊(第三二一〇設営隊)の記録には

「二十年二月二八日より、一部で中頭村の漁港にて回天基地を建設」との記事がある。

「中頭村」という地名は戦中、戦後には存在しなかったようであり、「中頭郡」は当時、中城湾から本島西岸にかけての

広大な郡であった。

「中頭村の漁港」が現在のどの地区を指すのかは判定できない。

沖縄周辺には遠浅の珊瑚礁が多く、回天の発進に適した海岸は範囲が限られているが、その点からは那覇港の内部が

かなり好適といえる。

ともかく、基地の所在を特定する決定的な判断材料が今なお見当たらない実情である。

 

第十八号輸送艦と乗員の喪失月日、場所

艦長大槻勝大尉以下乗員二二五名は全員が戦死した。

第十八号輸送艦の喪失認定は「南西諸島方面に於いて昭和二十年四月二日沈没」とされ、乗員も全員その日をもって戦死と

認定された。

しかし竣工直後の沈没でもあったため、乗員名簿が存在していなかった。

第十八号輸送艦は舞鶴鎮守府の所属であって、在籍下士官兵の全戦死者の名簿がたまたま舞鶴市内の某寺に、

慰霊祭用に保管されていた。

全国回天会が調査中のところ、近年その事実が判明して回天搭乗員ほかが現地で調査し、膨大な名簿のなかから

乗員全員の氏名と当時住所ほかを拾い上げて、名簿を作成することができた。

その名簿は現在、靖国神社と回天記念館には提出済みである。

厚生省にある乗員各自の経歴書に記録された戦没状況も、三月十八日の戦没と記載されているとは限らない。

 

第一回天隊隊員の戦死の日時、場所

全員一二七名のうち、氏名その他が判っているのは、士官及び搭乗員のほかは整備員、基地員のごく一部、

併せて十四名だけであり、それ以外は未だ名前すら判明していない。

隊員の名簿がなく、光突撃隊の資料もなく、われわれが以前から厚生省、防衛庁などに何度となく赴いたほか、

種々の手段を講じてきたが、長年の調査にもかかわらず、殆ど進展を見ていない。

第一回天隊の全員が集まった出撃記念写真が先年、発見されたが、それからも氏名を新たに判定できたものはない。

さらに、氏名が判っている隊員十四名についても、公表された戦死の場所は、輸送艦で戦死とされるもの六名、

のこり八名は沖縄の陸上戦闘での戦死とされ、その戦死の期日もまちまちになっている。

隊長河合中尉が「三月三十日、慶良間基地付近にて戦死(推定)」とされるほか、搭乗員の新野二曹と赤近二飛曹、

それに整備士の吉田洸中尉、軍医長の島田昌軍医少尉など整備員、基地員の准士官以上五名を含む七名が、

六月の沖縄の陸上での、敵との交戦、戦死とされているのである。

厚生省によれば

「それぞれ確かな資料の根拠があって処理した。その資料が何であるか、今では不明」との回答にとどまっている。

それぞれに疑問があるが、一部の隊員が陸上戦闘に移行したことを否定する材料もまたない。

場所と月日の不統一は、単に戦場になった混乱の結果だけではないかも知れない。

慶良間諸島の或る港に、交戦があった三月十八日頃の早朝、大型発動艇(大発)が入ってきて、負傷者を上陸させ、

燃料を補給して那覇に向かうのを目撃したとの情報が、二人の島民から十年ほど前にあったという。

最近になって確認のため照会したところ、二人とも既に死亡していて、目下のところ入港の事実を証言する人に行き当たらない。

第十八号輸送艦は救命艇を持たず、荷役用の大発四隻も出撃前に陸揚げしたが、長さ三米の「中発」を連絡用に一隻、

艦の中央線上に積載していた。

沈没した時の艦内の状況は想像の域を出ないが、デリックを動かす電力または蒸気の動力が無くなっても、

中発は固縛したワイヤーを切断すれば、艦が沈むときに浮上して、便乗者たちが脱出できた可能性はある。

魚雷三発命中の損傷を被り、脱出はかなり困難であったとは想像されるものの、あり得ないこととは言えない。

大発も中発も、形と大ささはあまり変わりがない。

中発入港の事実は、否定意見をいう地元の人もあるので、事実関係が隊員たちの最後の状況を知るために重要な

ポイントであって、今なお残る課題である。

それを含めて第一回天隊の隊員の陸上戦闘が事実かどうか、今後可能なかぎり調査を進めたいと考えている。

 

平和の礎

沖縄県が沖縄本島の南端に近い摩文仁の丘に建立した「平和の礎(イシジ)」に並んでいる石碑に、

沖縄戦に関連して戦没した回天搭乗員および回天搭載潜水艦乗員の氏名が刻銘されている。

第一回天隊の氏名が判明している隊員、および第十八号一等輸送艦の乗員全員の氏名も追加手続きをして、

出身県別に刻銘された。

 

第一回天隊 出撃記念写真

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/10/21