海軍大尉 小灘利春
敵艦に突入し氏名が判明した神風特攻隊員
平成14年10月 8日
(1)ミズーリ突入
昭和20年四月11日喜界島南方で戦艦ミズーリ(USS Missouri BB-63)の右舷後部に突入した特攻機は
機体の型式および突入時刻から下記石野少尉、または石井少尉と判定される。
神風特別攻撃隊神雷部隊第五建武隊(隊長矢口重寿中尉)の零戦五二丙型16機が同日1215鹿屋基地より
発進し13機が突入した。
その第四班より「1439敵見ユ」「1441敵機発見」と打電。
(突入発信はない)ミズーリの日誌には「1446二機目接近」と記録されている。
他の同日出撃した各隊各機は1334-1410の間に別の海域で突入を終えていた。
@石野節雄 二等飛行兵曹(当時) 乙(特)飛 19歳 岡山県和気町 没後少尉 四班第4番機
A石井兼吉 二等飛行兵曹(当時) 乙(特)飛 22歳 千葉県松戸市 没後少尉 四班第3番機
ミズーリ艦長ウイリアム・キャラハン大佐は翌日、乗員大半の反対を押切り、ただ1人の遺体に対して水葬礼をおこなった。
その五六年後の平成13年4月12日、真珠湾ミズーリ艦上の神風機突入の損傷が残る後甲板で、第五建武隊遺族および
米海軍軍人のキャラバン艦長長男ほか日米双方が参列し、儀仗兵が弔銃を発射して追悼式が施行された。
調査者
@エドウィン・カワハラ氏 (ハワイ在住二世)
A佐藤健輔氏 (ハワイ在住、元・戦艦武蔵乗組水兵)
B可知 晃氏 (藤沢市在住)
ミズーリに特攻機が超低空で接近し命中、白煙次いで爆発の黒煙があがる光景を撮影した16ミリフィルムが残っている。
この経緯をNHKが「神風特攻隊・ミズーリ突入の軌跡」として平成13年8月3日衛星第一放送で放映した。
(2)駆逐艦キッド突入
上記と同じ日「1410突入す」と打電した第五建武隊隊長矢口重寿中尉であることは米側記録と合致することから
略確実。
第13期飛行予備士官。没後少佐。
500キロ爆弾を携行して米国駆逐艦キッド(USS Kidd DD−661)の右舷に突入し、艦内で爆発したために損害甚大。
修理不可能。
乗員38名戦死、57名負傷。
調査者 平義克己氏 (在加州サンディエゴ)
(3)空母バンカーヒル突入
昭和20年5月21日、沖縄周辺で第五八機動部隊旗艦の空母バンカーヒル(USS Bunkerhill CV−17)を攻撃した
零戦五二型の1機目は飛行甲板に突入、次いで2機目が爆弾を飛行甲板に投下したのち艦橋の搭乗員待機室に突入、
航空機乗員45名が即死した。
同艦ではこの二機の突入により司令部幕僚はか392名が戦死行方不明、負傷294名。搭載機は殆どが破壊された。
同艦は終戦後まで修復できなかった。
二機目の操縦者の氏名が種々の遺品、特に救命胴衣背中の名札から第七昭和隊小川清少尉と判明した。
海軍第14期飛行予備学生出身、没後大尉。
同艦はこれほどの大損害を被りながら、日本の操縦者の遺体を多数の戦没乗員とともに水葬礼をもって送った。
調査者 グレース・美幸氏 (在サンフランシスコ)
小川少尉の遺品は平成13年3月遺族に返還され、この件が5月24日日本テレビにより放映された。
(4)空母バンカーヒル突入A
上記と同じ日、空母「バンカーヒル」に突入した第1機目は陸上爆撃機「銀河」であった。
飛行機の残骸から発見された手紙は同日朝に書かれたもので、「宮崎にて」とあり「勲」と署名があった。
米国海軍研究所のアナポリス史料館でこの手紙を別人の松尾勲少尉と看做して展示していたが、
同少尉はその前年10月27日レイテ湾で既に特攻戦死している。
沖縄周辺が5月11日突入した「勲」の名前は、同日0525宮崎基地から発進した
第9銀河隊の伊東勲1飛曹(乙飛18期、大分県)だけが該当する。
この銀河に同乗した搭乗員は操縦の松本学一飛曹(甲飛12期、愛媛県)と偵察の山根三男一飛曹(甲飛12期、広島県)
であった。
没後それぞれ少尉。
この件の調査もやはり上記と同じグ レース・美幸さんから始まった。
(5)空母マニラベイ突入
昭和20年1月5日ルソン島西方で零戦三機が250キロ爆弾を抱いて護衛空母「マニラベイ」(USS Manila Bay CCVE−61)に
超低空で突進した。
一機は対空砲火の弾幕で墜落したが、残る二機は肉薄して急上昇、一転急降下して飛行甲板に一機が突入した。
後続の一機は突入直前に命中弾を受けたが、機首が上がってマストに当たり海面に落下した。
突入した零戦は飛行甲板を貫いて爆発、格納庫の飛行機と多数の人員が死傷した。
遺品の財布のなかにあった名刺から、その搭乗員の氏名を多くの人が協力して関係者を辿り、兵学校第72期の
丸山隆中尉と判明した。
遺された日の丸の国旗にも薄く「隆」の字が残っていた。没後少佐。
マバラカット基地を同日1557発進した零戦17機の第18金剛隊の一編隊であった。
戦後五十年の終戦の目、これらの遺品が遺族のもとに帰った。
マニラベイの応急作業指揮官バートレット大尉(のち大佐)の子息である大学教授が来日して石川県能登単線の
七尾に住む遺族に手渡し、墓参した。その教授の子息も来日し、日本女性と結婚している。
恩讐を超えたドラマと言えるであろう。
更新日:2007/09/17