海軍大尉 小灘利春
舞台演劇『回天の夏−平和への旅立ち』記念パンフレット
ひとこと
平成17年 5月
国の歴史でも、個々の人生でも、道のりの途中にはいくつもの分岐点がある。
日本は戦前から開戦、そして終戦に至るまでの重要な分岐点で、選択が常に賢明であったとはいえない。
成功はあっても失敗が寧ろ大きく、結果として遂に敗戦まで行きついてしまった。
特に昭和19年6月のマリアナ沖海戦で日本の機動部隊が敗北し、戦力の質と量の隔絶を露呈した。
このまま我が艦隊と航空機が消耗を続ければ、やがては敵の大部隊が本土に侵攻し、地上の殺我戦に突入するであろう。
そうなれば国土、国民、文化など、民族の誇りを含めて、すべてが破滅することは明らかである。
わが国の前途はもはや絶望的と思われた。
どのようにしてその事態を防ぎ止めるか。
日本人、特に前面に立つ軍人の目前に否応なく突きつけられた課題であった。
戦い続けるかぎりはもはや、我が身を弾丸に代える特攻以外には、有効な手段はない。
そして終戦一年前の昭和19年9月、回天隊が発足した。
若人たちの親子、兄弟は日本国民全体と共通の運命であった。
国家、国民を護らなければ、愛する家族も護れない。
その使命感に加えて回天隊の若人は「必死」ではあるが「一発轟沈」ができる強力な武器を手にしたのである。
成瀬隊ほか、回天の各隊が19年11月からつぎつぎと出撃して、よく健闘を果たした。
終戦の時「日本軍で怖いのは回天だけだった」と米海軍に言わしめたように、制海権、制空権を失った洋上で、
終戦直前まで迎撃作戦活動を続けていたのは、回天を搭載した潜水艦だけだった。
故成瀬謙治少佐は識見、行動とも最も典型的な回天搭乗員の一人として、今なお仲間内から尊敬を集めている。
生命を捧げての奮闘は国家、民族の安泰を願って自ら選んだ、その時期には最善の道であった。
将来日本の国民が難事に行き会ったとき、特攻という形ではないにしても、
「大局に立って状況を判断し、自分は何を為すべきかを考え、行動を決定する」ことの前例となるであろう。
60年前の献身の事績とその名を歴史にとどめ、永く後世に伝えるべきものと思われる。
敗戦国は、50年間は元に戻らないと言われたが、再び立ち直れなかった国家は歴史上、少なくはない。
内憂外患に気づいて、昨今ようやく目覚めてきた観があるが、この国が立ち直るか、
それとも周囲の国家に蹴落とされて衰亡の道を辿るか、目先の何年かが境目となるように思われる。
平成17年 5月 舞台演劇「回天の夏平和への旅立ち」記念パンフレット
更新日:2007/09/30