海軍大尉 小灘利春

 

回天と我がクラス

昭和40年 2月

  

一、回天慰霊祭のこと

菊水の旗印と非理法権天の幟を檣頭に翻した三隻の潜水艦の甲板で、回天の第一陣菊水隊の十二名の搭乗員が、

各々の魚雷の上に仁王立ちとなり、自刃を打ち振りつつ大津島基地を出撃して行ったのは、

昭和十九年十一月八日のことであった。

 

その二十周年記念日の前日たる三十九年十一月七日土曜日、靖国神社において回天戦没者の慰霊祭がとり行なわれた。

折しも境内に展覧中の菊花の放つ清純な香りのうちに、十三時六十名の遺族と百余名の生残り搭乗員ほか関係者が参集、

本殿においてしめやかに慰霊祭式典を施行の後、オリンピックと時を同じうして、神社宝物遺品館で開催中の

回天特別攻撃隊員遺品展を一同参観した。

続いて同館講堂で回天の映画を上映したのち、遺族生存者相互の懇談会にうつり、清水光美顕彰会長の挨拶に始まり、

回天頭彰事業、遺品蒐集についての報浩ののち、当時の追憶談に花が吹いた。

クラスの遺族は久住 宏の母堂、川久保輝夫の母堂および令弟、柿崎 実の令兄にご参列いただいた。

旧隊員は交々遺族がたに、その頃の状況、戦死者の印象などを語り耽って夜に入り一八時散会した。

 

二、わがクラスを中心として回天隊誕生と発展のこと

戦局の逼迫に伴ない遂に必死必殺の人間魚雷回天が生まれ、徳山沖合大津島の魚雷発射場設備を活かして

回天隊が開隊、特攻訓練が開始されたのは十九年九月五日であった。

当時の構成は基地指揮官として六艦隊水雷参謀板倉光馬少佐(六一期) のもと、

搭乗員七〇期樋口 孝大尉(以下それぞれ当時階級)上別府宜紀大尉、同コレス黒木博司大尉、

七一期仁科関夫、帖佐 裕、加賀谷武各中尉、七二期はコレスとも十四名であった。

予備士官中少尉二十名余、それに土浦航空隊十三期甲種飛行予科練習生百名であった。

その後七三期をはじめ各層の隊員が次々と参加し、わがクラスも別記のとおり相ついで加わり、

基地は光、平生、大神と四基地に増加、終戦のときには搭乗員の数は千を算えた。

 

十九年八月十五日付で潜水学校学生の発令を受け、開講を待っていた各期の連中のうちから、七二期の七名が

田辺弥八教官に呼び出され、直ちに第一特別基地隊に転ずるよう命ぜられた。

石川誠三、川久保輝夫、吉本健太郎、福島誠二、土井秀夫、柿崎 実、それに小生の七人は「また転勤か。特潜かな」

ぐらいに思って、呉港外大浦崎の基地についたところ、またもや、すぐ大津島に移れと指示された。

そのとき初めて、我々は必殺兵器「丸六金物」即ち回天の実現を知り、自らがその操縦者となることを知った。

その日の感動は永遠に忘れることは出来ぬであろう。

ころしも二月のトラック大空襲あり、五月のサイパン失陥をみて、戦局の我に利なくこのままでは行き詰りをみることは

明らかであった。

莫大なる艦艇、航空機を喪失したいま、何とか敵の進攻を喰い止める手段はないものか、どうにか出来ぬものかと、

日夜焦燥感に駆られていたときである。

この破天荒な、眼を持った魚雷があれば、一人一艦を屠り、もって傾かんとする天運を一挙に挽回できるぞと、

我々は快哉の叫びをあげた。

幾十の回天が、群なす敵艦隊のまっただ中に躍り込み、一挙にこれを全滅し、狂瀾を既到に回す場面を脳裏に画いて

血湧き肉躍り、我々ほ夜の更けるのも知らず語り合った。

 

大津島では、河合不死男と久住 宏、それにコレスの村上克巳、福田 斉、豊住和寿、都所静世、川崎順二と一緒になり、

開隊のその日から猛烈なる訓練が開始された。

しかしてその翌日、回天の一基が徳山湾内の海底に突込み、回天兵器を考案し実現させた一人、黒木大尉は

操縦者樋口大尉と共に殉職された。

その遺書は佐久間中佐のそれに匹敵する立派なものであったが、その屍を乗り越えて日夜をわかたぬ訓練が続けられ、

出来たばかりのこの兵器の駆走法、隠密露頂潜航、そのための各部機構の操作調整、突入方法等が研究された。

 

そもそも回天は九三魚雷の前半部を直径一米の円筒で包み、内に酸素気蓄器魚雷一本分を更に積んで、

頭部には一・六トンの炸薬を詰め(九三魚雷は五〇〇キロ、外国は二〜三〇〇キロ)全長一五米、重量八トン。

魚雷の針路、速力、深度の各調定装置を操縦者がハソドルで動かせば、そのとおり自動的に駆ってくれるが、

短時間の観測で射角や修正角を決定してこれ等諸元を調定し、浮力、トリムを調整するには稽古が要る。

走れば気蓄器の酸素を消費して軽くなるので、少しづつタンクに注水してゆかねはならぬ。

(軽くなりすぎると潜入時ダウソがかかり、尾端のプロペラで白い飛沫を噴き上げ、一遍に所在を知られてしまう)

浮上、潜入のたびに潜望鏡上げ下げのハンドルを力一杯回さねばならぬので径一米の窮屈な座席の内で結構忙しく

身体を動かしている。速力が最高三一ノット、巡航一二乃至二〇ノットなので、砂時計から目を離していると、

岩や目標艦に衝突しかねなかった。

初期は泊地内の碇泊艦襲撃を企図して地文航法が主体であったが、搭載潜水艦の損耗に伴ない洋上航行艦襲撃に移行し

隠密露頂潜航、観測秒時の短縮など一層の練度向上が求められた。

 

三、クラスの面々の戦いのこと

前記のとおり回天発足時のクラス、コレス十四名に加えて工廠よりの回天領収発射に従事していた渡辺収一、

続いて橋口 寛、中島健太郎が入隊して来た。

二〇年夏には上野三郎、足立喜次が参加している。

回天隊の中堅となったのはわが七十二期であった。

そして殆んどが搭乗員として出撃し、殉職し、あるいは自決して果てた。

 

クラスの先陣をつとめたのは菊水隊伊三六潜の先任搭乗員吉本健太郎であった。

湊川神社宮司の筆になる七生報国の鉢巻を締め連合艦隊長官署名の短刀を六艦隊長官より伝達を受け勇ましく出撃、

十一月二十日黎明を期しウルシー泊地の敵大艦隊に向い発進せんとしたが、不運にも回天が架台より離れず内地に帰投した。

第二次回天作戦たる金剛隊において彼は伊四八潜で再び出撃し二十年一月二十日ウルシー泊地に突入した。

しかし発進後母潜が沈められたため戦果は明らかでない。

 

川久保輝夫は同じく金剛隊伊四七潜で長駆ニューギニアのフンボルト湾ポーラソティア泊地を目指し一

月十二日の奇襲に成功した。

川久保家五男の彼は四人の兄と同じく戦死したのである。

 

久住 宏は金剛隊で伊五三潜より一月十二日〇四〇〇を期しパラオ島コスソル水道めがけて真先に発進したが、

その直後不幸にも気筒爆破を起こし自沈した模様である。

後続回天の攻撃を妨害せずまた母艦の位置を秘匿するため、動かぬ艇内に湛水し従容として自らを海中に沈めた

久住の胸中を想うと涙なきを禁じ得ない。 

 

金剛隊伊五八潜の石川誠三は、予備士官中尉一人と予科練初の出撃搭乗員二名を引き連れ、

一月十二日未明グァム島アプラ港に奇襲をかけた。

米軍によれは護衛空母とタンカーが沈み、乗員は殆んど助からなかったという。

 

柿崎 実はアドミラルティ諸島セアドラ泊地に同じく金剛隊として伊五六潜で行ったが、警戒厳重のため接近できず帰投、

次いで硫黄島の敵部隊上陸に対応し振武隊として出撃したものの、母艦伊三六は戦局判断により帰投を命ぜられた。

続いて同月、沖縄侵攻の敵を邀へ彼は多々良隊五名の部下搭乗員と共に赴いたが、

伊四七潜は種子島で敵駆潜艇、次いで飛行機の攻撃を受け損傷、

呉にて修復成り、更に天武隊として出撃、沖縄東方海面にて五月二日、航行中の護送船団に突入した。

部下もそれぞれ洋上襲撃に戦果を顕わし、駆逐艦をも沈めたので、以後敵対潜部隊の制圧が減り、潜水艦の本来の姿である

通商破壊戦に移行したこともあって、回天と魚雷とを持つ潜水艦は終戦前の一時期、威力を発揮した。

柿崎は初出撃以来半歳の決死行に、都度武運に恵まれなかったが、実に四回目にして遂に木望を遂げ玉砕したのである。

その間の精神的苦悩、疲労は測り知れぬものであったに違いない。

しかし無口で飾らぬ彼の表情、挙措は常と何等変りがなかった。

 

二月、硫黄島に来敵のとき、土井秀夫は伊四四潜で出たが、駆逐艦の追躡を受け発進の機なく帰還、

四月多々良隊として沖縄付近海面へ出撃した。

しかし母潜水艦が飛行機に沈められ戦闘の状況は不明である。

 

福島誠二。彼も多々良隊伊五六潜で三月三十一日出撃、沖縄に向ったが、潜水艦狩りで勇名を馳せた米駆逐隊と戦闘し

沈没した。

共に母艦より発進できたものか、如何なる敵を托したものか、さだかではない。

 

回天戦に振向けられた潜水艦は、我々の期待よりも遥かに少なかった。

上層部の思い切りの悪さもあったかも知れぬが、何よりも潜水艦のそれまでの積りつもった損耗が意外に大きく、

絶対数が既に少なかったためであろう。

回天の生産また捗らず、当初訓練用三基をもって出発したが、実戦用回天の整備は遅々として進まなかった。

軍機兵器としての制約はあったろうが、この必勝兵器の生産に工廠は何故、全能力を傾注しないのかと怒りを覚えた。

回天と潜水艦を、もっと早く大量に準備し、もって回天による大挙奇襲攻撃が実現していたならば、

あるいは戦局は多少とも違っていたと思う。

もっとも、その工業力の不足が、すべてを決定したのかも知れぬが。

 

そのうち、決戦場が本土に近づき、潜水艦不足を補うためにも、回天を陸上基地に配備して来敵を邁撃せんとし、そ

の第一陣として河合不死男が八基を率い、特別輸送艦で敵上陸直前の沖縄に向ったが、内地出発後、

杏として消息を絶った。

 

続いて、予科練の分隊長をやっていた小生(小灘利春)も、八基の回天と要員二一〇名と共に二〇年五月八丈島に進出、

洞窟に身を潜めて敵を待ったが来敵せず十一月復員した。

八丈には、重巡クインシーが駆逐艦四隻と共に武装解除に来たが、米軍は大発で交渉に赴いた警備隊司令を乗艦せしめず、

先ず「回天をどうしているか?」と聞いた。

「信管をはずし航行不能にしてある」と答えたところ「それならは上って来い」とはじめて交渉に入った。

武装解除は回天の爆破が真っ先だったが、米側の老艦長は破壊する前にいつまでも回天に見入っていた。

 

中島健太郎は二〇年一月、五回目の搭乗で大津島南の野島一周航法訓練中、急激に天候が悪化、

且つ、夜に入ったため訓練中止後、行方不明となり、翌朝潜水艦用水偵が発見したときは遅かった。

同乗者と共に、従容たる殉職であった。

そのときの追躡艇が構造脆弱で荒天の曳航に耐えず、呼んだ救助船が遅れそのうち不運にも標識灯が断線するなど

悪条件が偶然重なってしまった。

他に殉職者は、目標艦に衝突、触雷など計十五名におよんだが、朗らかだった彼を失なったときの痛恨は忘れ難い。

 

橋口 寛は主に光基地に居たが、至純至高、常に尊皇の大義を唱え、烈々の気魄をもって士官、予科練搭乗員の

指導訓練に当った。

回天の操縦技術にも新機軸を創り出していたが平生基地において終戦となるや、自らの搭乗出撃するはずであった

回天の前で、自決して果てた。

 

四、生死のこと

生物の持つ本能のうちで、何にもまして強烈なものは個体保存の本能である。

意識するにしろ、しないにしろ、誰だって命が一番惜しい。

一つしかないのだ。

莫然と考える死は易い。

しかし死の恐怖は死に直面したもののみぞ知る。

それを敢えて自ら死を選び、死ぬための技価を練磨し、静かに死んで行ったのは彼等に死に勝る明確な動機があったからである。

回天は脱出装置も通信装置もなく、機関は一度発動したら停止再起動が効かない。

母艦を離れたら、事の成否に拘らず、生きては還れない。

クラスの隊員は、奔放な石川のほかは一般に温厚寡黙であったが、同室に起居していても、ついぞ生死について語り合った

記憶はない。

死地に赴くとき平然、敵めがけて発進の直前故障し帰投するに至っても、常と変りなかった。

送り、また迎える者も平素どおりであった。

散る桜、残る桜も散る桜。

黙っていても、クラス同志ならは気持はよく通じていた。

 

二十九年頃新東宝が回天をはじめて映画化したときのテーマは予備士官の兵学校出に対する反感と、死への苦悩であり、

反戦が結論だったようだ。

よく構成されてはいだけれども、木村 功等の扮する予備士官が、苦しみ憎みながらも、

しかし死を避けずに出撃して行った点には何等説明がない映画であった。

 

当時を想起し、あるいは他の人と違っていたかも知れぬが、小生の心理的な経過を記してみる。

大津島に着圧し、これより一ヵ月後に総員敵艦隊に突入すると告げられたとき、改めて心身の粛然として引締まるのを覚え、

必ずや自らの死をもって最大の敵を斃さんと決意した。

そのために、この回天の性能を如何に生かすかを発見し、体得せればならぬとまず考えた。

そして心が落着いたとき、あたかも走馬灯の如く、過去のあらゆる事象がたえまなく、とりとめもなく脳裏を去来した。

そして自らの死の意義を間違いなく兄究め、体系づけようとした。死のときが決められたのは激烈なる戦闘場裡ではなく、

飛行機特攻の始まりのレイテ攻防戦よりも、かなり前の頃である。

大津島の丘に立って、薄霞に包まれて和やかに連なる本州の山々を遥かに望見したとき

「このうるわしき山河、そこに住むうるわしき民族を、滅亡から防ぐためならは死ねる。敵の進攻を喰い止めるのに

役立つならば、この身を弾丸に代えても惜しくはない」と納得した。

実感があった。

それからは、死はもう気にならなかった。

食事は一つ一つ味わって食べた。

飯とはこんなに旨いものだったのかと思った。

多数の兵士が″大皇陛下の御為に″死んだ。

しかしそれだけで、死の間際にも何の疑いもないであろうか。

陛下を通じて、それに連なる同胞への、父母への、弟妹への限りない愛情のために死ねたと小生は解釈する。

もとより小生は陛下を崇拝していたし、今も何物にもまして敬愛する一人である。

が、手のとどかぬ抽象的なものでは土壇場で自らを納得させる力は弱いと思う。

 

回天の映画は前記新東宝のあと、石原裕次郎デビューの頃の日活と、渡辺邦男監督の東映とで合計三回作られ、

内容は漸次明るくなってはいるが、前二作は予備士官の煩悶を主題としている。

事実、戦後公開された彼等の遺書にそれが窺えるし、戦後一部の予備士官搭乗員が我々に近づかなかったのは、

「物を考えない兵学校出と話が合うか」との気特があったための由である。

予科練の方は、年も若く純粋な雰囲気にあった故か、全く生死を問題にしていなかったが、出撃中ふと疑問を生じたとき、

日本の清らかな乙女達を護るためなら死ねると思ったそうである。

あの頃の日本人は良かった。

日本女性は真、善、美の象徴に見えた。

だが、戦後に気がついたが人口の半数か象徴であるはずはなかった

 

五、回天顕彰事業のこと

故国の共同の目的のために、危険の多い訓練を一丸となってやり抜いてきた回天部隊であったが、終戦で散ってゆき、

時勢もあって搭乗員同志の連絡も久しくなかった。

しかし徳山をはじめ山口県下の・各基地の地元の有志の方々の献心的な努力が続けられ、

三十四年には大津島の丘の上に回天碑が建設された。

三十七年回天顕彰会が発足、一般有志のほか当時の関係者が集まり、回天の英霊を慰め遺志を伝えることを趣旨として、

目下遺品の蒐集と保存の対策に着手しており、また近き日に大津島に回天遺品館を建設することを目指している。

大津島では毎年、菊水隊出撃記念日に慰霊奈か行なわれており、近年世の認識と共に延約四万の人が同島を訪れた由

であるが、特筆すべきこととは英、米、伊、タイ等の外国青年が交通不使な同島に渡り碑前に詣でていること、

米軍艦艇が参拝のために入港し将兵が花を手向けていることである。

都会では若人達が回天や神風に関心を示す話をあまり聞かないが、戦没者の心情を日本人が理解し、正当に評価する日の

来ることを待望する次第である。

 

昭和40年 2月 1日 なにわ会「バイパスニュース」所収

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/30