海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 久家 稔

平成11年 7月

 

大阪府 大阪商大 兵科四期予備士官

金剛隊伊五三潜にてパラオ攻撃に向かったが悪ガス発生の為発進出来ず帰投

轟隊で出撃し母船伊三六潜が敵駆逐艦の攻撃を受け危機に瀕した時、故障した艇で海中深くから

発進して反撃、母艦を救った

 

久家 稔少尉は大阪商大在学中に学徒動員で海軍に入り、水雷学校から志願して回天隊に加わり

昭和十九年九月に着任した。兵科四期予備学生出身の搭乗員である。

回天特別攻撃隊の第二陣、金剛隊の伊号第五三潜水艦に乗って昭和十九年十二月三十日大津島を出撃、

パラオ諸島コッソル水道の敵艦隊攻撃に向かった。

当時は回天と母艦とを結ぶ交通筒は二基しか装備されておらず、艇内で長時間待機していた間に毒ガスが発生、

久家少尉は人事不省となった。

母潜は払暁時であるのに危機を冒して敵前浮上、彼を救出して艦内に収容し生還した。

続いて天武隊の伊三六潜で出撃したが、故障で発進出来ず再び帰投、

三度目に轟隊の伊三六潜で、久家少尉は三期予備士官の池淵信夫中尉とともにマリアナ東方海域に向かった。

六月二十八日、池淵中尉が発進して米軍の攻撃型輸送艦「アンタレス」と交戦中、救援に駆けつけた

大型駆逐艦「スプロストン」が伊三六潜の望遠鏡を発見、突進してきた。

池淵艇の攻撃状況を夢中で見守っていた潜水艦長は紙一重のところで辛うじて潜没したものの、

執拗な爆雷攻撃が絶え間なく続いた。

浸水しはじめた潜水艦は大きな仰角がかかったまま沈降を続け、絶体絶命の境地に追い込まれた。

この時久家少尉は、自分の艇が電動縦舵機と電話機の故障の為使用不能らなっていたにもかかわらず、

艦長に繰り返して発進を要請し、容れられて深々度の母艦から離れ、海面に浮かび上がった後機械を発動した。

敵駆逐艦へ人力縦舵を手で操作しながらの突撃である。

柳谷秀正一飛曹も同じく、故障的を駆って海中深くから発進した。

我が身を捨てて断末魔の母艦を護ろうとした二人の反撃が功を奏し、伊三六潜は傷つきながらも生還して、

次の作戦に備える事が出来た。

 

久家少尉は回天に身を投じた頃の昭和十九年八月の日記に、

「俺達は俺達の親を兄弟を姉妹を愛し、友人を愛し、同胞を愛するが故に、彼等を安泰に置かんが為には

自己を犠牲にせねばならぬ。祖国敗るれば、親も同胞も安らかに生きて行く事は出来ぬのだ。

我等の屍によって祖国が勝てるなら満足ではないか」

と、書き記しててる。

この思いこそ、数多い特攻隊員たちが心の基盤に抱き夫々が生命を捧げる共通の動機になったと考える。

四期の予備士官では最も早く訓練に入った組であるから、私どもとも付き合いが長く、思い出は一段と深い。

優れた運動神経を思わせるスマートな体付きの、清冽な感じを湛える若人であったが、

私にとっても最も強く印象に残るのは、最初の出撃から大津島の基地に帰ってきた時の事である。

心身の疲労に重ねて深い苦悩、思索があったであろう。

私は荘厳とも言うべき迫力を覚えた。

その久家 稔少尉の姿は終生、脳裏から消えることはないであろう。

二階級特進の栄にふさわしい故・久家 稔大尉の純粋な献身は、この国の今後のため永く語り継がれる事を

望んでやまない。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/12