海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 工藤義彦

平成12年 2月

 

 

大分県、大分高商、兵科三期予備士官、第一特別基地隊大津島分遣隊。

回天特攻第一陣の菊水隊で出撃したが発進できず、次の金剛隊伊58潜で再度出撃

グアム鳥アプラ港に突入、戦死。没後少佐。

 

兵科第三期予備学生を志顔して海軍に入り、水雷学校魚雷艇学生となって長崎県の川棚臨時訓練所で艇長訓練を

重ねたのち、更に必死必中の新兵器要員の募集に応えた一群の士官たちがいた。

その中から一四名が運ばれて最初の予備士官搭乗員となった。

彼らは昭和19年9月1日、山口県大津鳥基地に着任、回天の搭乗訓練に入った。

その一人、工藤義彦少尉は遺影から偲ばれるように凛然たる若武者の風貌と、がっちりした体格の持ち主であった。

秘密部隊の我々には出撃者を送る壮行会以外、上陸の機会が滅多になかったが、或るとき徳山市内の旅館「松政」で

一夕の宴があって、工藤少尉が舞台に上がり尺八を演奏した。

羽織袴の正装を態え、端然と座った姿は風格と威厳があり、流石は九州男児、なかなか立派なものであった。

ひそかな会合なのに、品のよい和服姿の若い女性が傍らで伴奏の琴を弾いた。

旅館からお願いした人か、或いは彼自身の知り合いだったのか。

出撃を控えた我々特攻隊員には味わうことのない落ちついた雰囲気であり、日本の伝統美に浸るひとときであった。

 

工藤少尉は回天隊最初の出撃、菊水隊に選ばれて伊号第36潜水艦搭載の回天搭乗員となり

昭和19年11月8日大津鳥を出撃、カロリン諸島の米艦隊集結地ウルシー環礁へ向かった。

その前短い休暇を許されたが、遠く大分県に帰る工藤少尉のため往復の時間を短縮してやりたいとの配慮から、

大津島分遣隊指揮官板倉光馬少佐は隊の水上機を出して自宅に近い海岸まで送った。

工藤少尉には許嫁がいた。

基地へ戻るとき別府の海岸に「振袖姿もあでやかな、目のさめるように美しい許嫁が、母親とともに見送りに来ていた」と

出迎えの水上機操縦員は記している。

 

伊36潜は11月20日未明、ウルシー泊地に接近した。

発進を前にして工藤艇は浸水が起こり中止。少尉は艦長に発進命令を迫って嘆願し、絶叫したが許されず、帰還した。

続いて編成された金剛隊に、中尉に進級して伊号第58潜水艦に乗り、隊長石川誠二中尉、森 稔、三枝 直両一飛曹とともに

12月30日大津烏を出撃、1月12日グアム烏アプラ軍港の在泊艦船を攻撃して散華した。

 

戦没した回天搭乗員のなかに妻帯者が二人いた。

婚約者や恋人がいた搭乗員は少なくないであろう。

工藤少尉は「死ぬことがわかっている特攻隊を志願した身で、結婚してはあの人に申し訳がない」と、仲間うちに語っていた。

戦局苛烈のおり、少尉の身で飛行機に一人で乗せて貰い往復する帰省が何を意味するのか、

工藤少尉は一切告げなかったようである。

明るく振る舞う別れの挙手の礼のなかに、最愛の人と今生の別れを告げる心の奥底の、叫びたいほどの激しい切なさが

あったであろう。

水雷学校出身の三期兵科予備士官搭乗員は一四名のうち一〇名が戦死した。

回天戦の最初から次々と出撃してゆき、散華した勇士たちであるのに、回天について記す出版物は多々あっても、

彼等が語られることは少ない。

初期の搭乗員の殆どが戦死してしまったためもあろうが、埋もれるに忍びない事柄が多いように思われる。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/30