海軍大尉 小灘利春

 

忘れ難い人たち 小林富三雄

平成13年 8月

 

三重県。海軍機関学校第54期。回天 搭乗員。中尉。

轟隊で沖縄東方洋上へ出撃、戦死。 没後少佐。

 

海軍機関学校を優秀な成績で卒業し、戦艦伊勢乗組を経て昭和19年9月回天の訓練基地大津島に着任、

搭乗員を命ぜられた。

9月21日に最初に到着した第13期甲種飛行予科練習生出身の下士官搭乗員たちの分隊士を

小林富三雄少尉がつとめ、20年5月の彼自身の出撃まで続けた。

土浦航空隊出身百名(のちに半数が新設の光基地に移動)と奈良航空隊出身の百名にとって最も身近な存在であった。

分隊長は最初、「同期の桜」の歌を作ったことで知られる兵学校71期の帖佐裕中尉であったが、

搭乗訓練の計画、運用、指導で忙しいため、暫くして私が引き継いだ。

毎日の訓練が我々にとっては最優先であるが、そのかたわら小林分隊士と私は緊密に話し合いながらつとめた。

下士官搭乗員の誰から回天の操縦訓練に入るか、大津島基地の指揮官板倉光馬少佐の指示があり、

二人で真剣に協議して候補者リストを作成したこともある。

兵器の数が少なく訓練の順番が回ってこないために下士官搭乗員たちが元気を持て余すので、

発散できるような作業計画を日々作成するのも結構苦労であった。

また分隊員が出す手紙は分隊長が捺印して発送する規定であるが、私自身が検閲したことは一度もない。

目的は機密の漏洩防止であるからすべて小林分隊士が一人でチェックし、私の印鑑を押して発送していた。

やや小柄であり、女性と見まがうほどの色白で唇紅い美少年であったが、

機関学校の激烈な鍛錬を経てきただけに肝が据わっていた。

下士官搭乗員たちも小林分隊士に随分と親近感を抱いているようであった。

 

回天特別攻撃隊轟隊の伊号第三六一潜水艦は五基の回天を搭載して5月24日光基地から出撃した。

搭乗員は隊長小林富三雄中尉と甲飛13期出身の下士官搭乗員金井行雄(群馬県)斉藤達雄(茨城県)

田辺晋(千葉県)岩崎静也(北海道) の各一飛曹であった。

沖縄東方洋上の敵輸送船団攻撃に向かったのであるが、その後同潜水艦より一切連絡がなく、

6月15日戦没と認定された。

 

同艦の行動について内外に数多い戦記が殆ど触れていない。

欠落、乃至は「5月30日、護衛空母アンジオ搭載機の爆撃を受けて沈没」と僅か一、二行の記述にとどまり、

我々も長年調査に努めたが事実を探る手掛かりがなかった。

このほどようやく同艦の戦闘状況と不明の理由が判明した。

入手できた米軍資料には何と「最高機密」と表記されており、つい何年か前まで公開を停められていたのである。

交戦の地点と日付も作為か錯誤か、これまでの記事は違っていた。

対潜水艦掃討作戦で名高い護衛空母アンジオの搭載機が5月31日南レーダーで潜水艦を発見し、

低い雲の中で旋回を繰り返しながら偵察し率いたが、突如降下して浮上潜水艦の真横からロケット弾四発を発射した。

至近弾であったが命中せず、潜水艦は急速潜航した。

その跡の渦へ艦載機は超低空から「二四型機雷」を投下、四分経過後水中爆発が起こった、と報告書は述べている。

問題はこの二四型機雷にあった。

米海軍の最新秘密兵器「聴音魚雷」すなわち、潜水艦の推進機音を聴きながら追尾する魚雷だったのである。

ドイツに派遣された伊五二潜が大西洋で沈んだのもこの魚雷のためであるが、

米国は最近まで「爆弾」とだけ発表していた。

当時の日本潜水艦は夜間、必要な充電と移動のため浮上して航走していた。この宿命のために

伊三六一潜はレーダーに捕捉され、さらに思いがけない新兵器の奇襲を受けて無念にも南漠に沈んだのである。

しかし搭載回天はどうであったか。

 

敵艦載機はロケット攻撃以後潜水艦の真上を低空で通過し、照明弾を投下して三人の乗員が詳細に観察していた。

護衛駆逐艦はどの大きさ、黒色塗装、大砲を持っていない、艦橋が前に伸びた艦型、などと実に綿密な報告をしている。

しかし、発進前ならば前後の甲板上に並んでいる筈の回天を見ていない。

潜水艦の備砲は艦橋の前とは限らず後甲板に配置する例が日米とも少なくないので、

砲がどこにもないことに気付くほどの観察力があれば、回天が若し甲板上にあれば当然わかったであろう。

従ってこの交戦前に回天は既に発進し、敵艦船を攻撃していたものと判断される。

私はその攻撃状況を小林分隊士のためにも今後さらに調査、確認を続ける責務を覚える。

 

没後海軍少佐。御墓は三重県三重郡の菰野町にある。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17