海軍大尉 小灘利春

 

神州隊 伊三十六潜の出撃

平成17年10月20日

 

轟隊で出撃した伊号第三六潜水艦は甚大な損傷を被った。

昭和二十年七月十日呉に帰り着いて工廠に入渠したが、修理に長い期間がかかり、多聞隊作戦には出撃

できなかった。

ようやく工事が終わって八月一日、工廠の潜水艦桟橋を離れて回天特別攻撃隊「神洲隊」の一艦として

平生基地に向かった。

途中、江田島と倉橋島のあいだの「早瀬の瀬戸」に差しかかったとき、米軍戦闘機の急襲を受け機銃掃射

を浴びた。

その頃、呉軍港に米第三八機動部隊の艦載機がしきりに空襲をかけており、

航空戦艦「日向」、巡洋艦「利根」は七月二四日に沈没、

特に七月二八日の空襲では航空戦艦「伊勢」、戦艦「榛名」、巡洋艦「青葉」「大淀」に多数の爆弾が命中して

大破着底し、空母「葛城」はか大小の艦船多数が損傷した。

第三八機動部隊は八月十一日、本州北部を空襲中であった。

この日は沖縄から米極東空軍所属の多数のB−24、B−25など各種爆撃機が戦闘機を伴って飛来し、

九州から瀬戸内海にかけての各地を攻撃した。

呉軍港を急襲したのは十四機のP−51戦闘機であった。

呉の桟橋にいた伊四〇二潜は二五粍の三連装機銃で応戦してP−51一機を撃墜したが至近弾で小破し、

横に係留していた神洲隊の伊一五九潜も損傷して片舷主機械が使用不能になった。

 

早瀬の瀬戸は普通は駆逐艦以下の小型艦艇しか通らない。

狭くて潮流の速い水道なので潜没できない。

変針、回避もできない。

艦長菅昌徹昭少佐は乗員を艦内に退避させてハッチ閉鎖を命じ、艦長と航海長松下太郎大尉の二人だけが

艦橋に残って操艦、何回となく繰り返される銃撃のなかを、ひたすらに通峡を続けた。

伊三六着は二五粍の連装機銃を装備しているが、場所が艦橋の後部であり、左右から来る敵機なら射撃できるが、

艦橋の構造上、低空で前方、後方から来る敵機は撃てない。

一方、銃撃してくる敵戦闘機は、両岸に山が迫った狭い海峡という地形から、前方または後方から低空で銃撃

してくることになり、折角の対空機銃も役に立たないのである。

艦長は十三粍機銃弾に左肩を撃ち抜かれて重傷、航海長も負傷。

艦体や電探にも損傷を受けた同艦はやむなく呉工廠に引き返した。

伊三六潜は工廠から出発したものの、直後に交戦、損傷を受け、その日のうちに引き返して再び工事に入ったので、

今になると「あれは出撃のためではなく、連続した工事期間中に、たまたま試運転に出て銃撃を受けた」と

言う乗員がいる。

しかし当日の出港は、七月十四日に着任した航海長の松下太郎大尉にとっては、他の多くの乗員とは異なり

自身が初めて体験する出撃であった。

そのとき、艦が轍を翻し、呉工廠の工員、女子挺身隊たちの熱狂的な見送りを受けたことが鮮烈な印象となって

脳裏に残っているので「出撃」であったことは明らかである。

修理は到底終戦までに間に合わず、平生基地の橋口 寛大尉たち六人の回天搭乗員が待ち望んだ出撃は

遂に叶わぬこととなった。

平生基地出撃の予定は八月二〇日頃であったといわれる。

 

艦長は神武隊作戦以来の菅昌徹昭少佐。回天搭乗員(予定)六名。(当時階級)

大尉  橋口 寛  兵学校第七二期            鹿児島県 @号艇

少尉  藤田 協  兵科四期予備士官 対潜学校      東京都  A号艇

一飛曹 中川荘治  第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官 大阪府  B号艇

 〃  今藤美佳       〃             奈良県  C号艇

 〃  小森(末次)弘    〃             鳥取県  D号艇

 〃  青木久幸       〃             長野県  E号艇

 

橋口 寛大尉は重巡洋艦「摩耶」乗組のとき、後の回天と同様の人間魚雷に着想して血書嘆願し、

昭和十九年八月二十日という早い時期に単独で搭乗員の発令を受けた。

倉橋島の大迫基地で多数の予備士官、飛行予科練習生出身の搭乗員たちと共に待機したのち大津島、光、

次いで平生の基地に移り、特攻隊長兼搭乗員分隊長として先頭に立って烈しく精進し、

自らの操縦技術の錬磨に努めるとともに他を強力に指導し、平生基地の搭乗員全員の技量向上をはかった。

「水中二〇ノットで敵艦に接近し、間近で浮上したあと、潜望鏡で観測しながら敵艦の動きに応じて舵を取り、

最大速力三〇ノットで海面上を突撃する」という新機軸の襲撃法を開発していた。

特眼鏡の対物鏡の下に楕円形の小鉄片を取り付け、波浪や飛沫が観測を邪慶しないように工夫したのである。

この仕掛は他の各艇にも装備された。浮上突撃が可能になれば、回天の航行艦攻撃の成功率は飛躍的に

高まったであろう。 

 

橋口大尉は強く願って神洲隊伊三六潜で出撃を命ぜられたが、終戦という事態を迎え、

十八日未明の午前三時二〇分、正装して自分の回天の操縦席に座り、拳銃で胸を撃って自決を遂げた。

運命の狭水道で敵機との遭遇がなければ、橋口隊は勇躍出撃した筈である。

仮に戦場で潜水艦から発進していれば、橋口隊は鍛え上げたその能力を最大限に発揮して志のままに散華し、

大きな戦果を挙げたことであろう。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2008/02/17