海軍大尉 小灘利春

 

菊水隊 回天のウルシー泊地攻撃

平成16年 1月  8日

 

回天特攻の初陣、菊水隊の回天搭載潜水艦隻のうち伊号第三六潜水艦と伊号第四七潜水艦の艦は

米軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地を、

昭和十九年十一月二十日の黎明を期して攻撃した。

発進した回天は伊四七潜が搭載した基全部と伊三六潜の基中の基、計基であった。

日本側資料に加え、近年解禁された米国側秘密資料によって判明した各回天の状況は概要次のとおりである。

 

菊水隊がウルシー泊地を攻撃した日の未明、

環礁内北部泊地には戦艦ワシントン、ノースカロライナ、ペンシルバニアほか、

その南寄りには大型空母エセックス、レキシントン、バンカーヒル、タイコンデロガほか、

重巡洋艦ウイチタ、ペンサコラ、ソールトレイクシティ、チェスターなど。

泊地全体では大小200隻の艦船が停泊中であった。

伊号第四七潜水艦は前日ひそかにウルシー環礁に接近して泊地状況の偵察を終えていた。

20日0030浮上して佐藤章少尉、渡辺幸三少尉が甲板上の回天に乗艇、発進地点へ潜航進出し、

0300仁科関夫中尉、福田斉中尉が交通筒を通って乗艇した。

艦長は主要航路のムガイ水道を避け、南隣のマガヤン島とローラン島の間の狭い無名水道を通航して

泊地に入ったのち、それぞれ指示された方向の敵艦を攻撃するよう各艇に命令した。

以下、同艦々長折田善次少佐の戦後の著作によれば、0400伊四七潜は発進予定地点のマガヤン島

南東4浬に到着した。

0415 1号艇発進、分間隔で0430までに回天基が発進を終え、伊四七潜は直ちに急速浮上、

高速で南東へ避退した。

0507オレンジ色の大火柱が上がるのを望見、0511 同一方向に再度閃光と火柱を見た。

なおも水上航走中、前方右5度、距離六千米に敵駆逐艦を発見し急速潜航した、と記述してある。

私はこの艦長戦記を見たとき奇怪しいと思った。

伊四七潜が回天を発進させた直後に浮上、第三戦速20ノットで高速避退し、艦長の「予測どおり」の

発進後約50分の「0507艦尾方向の暗い視界のなかで爆発の閃光」を艦橋にいた全員が目撃したという。

そのあとも、正面から接近する敵駆逐艦を距離六千米でようやく発見するほど、また敵艦のほうも

大型潜水艦が浮上して白波を蹴立てて高速航行していても気付かなかったほどに、辺りが未だ暗かったのである。

船乗りは自分の進む先、即ち艦首方向には常に気を配っている。

特に戦闘艦艇は前方を警戒するのに、双方ともが判らなかった。

各関係者の記述、発言はこの暗さについて一致している。

 

問題は「回天の敵艦命中にしては周囲が暗過ぎる」ことである。

泊地攻撃に向かう回天にとって唯一、最大の難関は、環礁の切れ目である狭水道を発見し、通航することである。

この大火柱が敵艦命中であるならば、その前の更に暗い時刻に観測地点に辿り着いて浮上し、

水道を見つけ出して、通航していなければならないことになる。

 

大津島基地で指揮官の板倉光馬少佐は

「南洋諸島は低いリーフの上に椰子が生えている。水路はその林の切れ目にあるから其処を捜せ。

椰子の木の高さは略一定であって、西カロリン諸島では25米。これで海岸からの距離を算出できる」

と説明された。

尤も《平たく連なる林の隙間に水道がある》のは基本の型であって、場所によっては砂浜だけの、

或いは干潮時だけ水面上に出るか、水面下に横たわったままの珊瑚礁もある。

それらの中から通航可能な水路を見つけなければならない。

ウルシーに向かった菊水隊の場合は、太陽が昇る方向とは反対の、真っ暗な西側を見て水路を捜すことになる。

当日は月齢4.1。三日月ほどのその月も、黎明時はまだ出ていない。

少々の夜間訓練を積んでいても、真っ暗闇では無理である。

 

米国の秘密書類が先年解禁になって、米側各種艦船の航海日誌、戦闘詳報を調べたところ、

米海軍のウルシーでの使用時刻は日本側と同一であった。

菊水隊の戦果は油送艦ミシシネワ隻の撃沈であったが、この唯一の命中爆発の時刻は、

米側の公式記録によると0547である。

日出は0538であるから、そのあとの十分に明るくなったこの時刻に発生した爆発は、

伊四七潜が見たものとは明らかに別な爆発である。

「潜水艦長が0507の時刻に見て、戦果と報告した爆発は何か」が大きな疑問となった。

 

第六艦隊司令部は菊水隊戦闘詳報を、伊47潜が内地帰着直後に提出した報告に基づいて作成した。

これには「0328−−0342伊47潜回天基発進。発進地点はマガヤン島の154度12浬」となっていた。

発進時刻と地点ともに艦長戦記とは相当な食い違いがある。

そして「火柱の昇騰を認め、更に大火災を確認した」のは0416,0422となっていた。

艦長戦記の0507よりもずっと早い時刻である。

一方、米海軍の海洋観測艦サムナーは南部の泊地に碇泊していて、同日「0418に巨大な閃光を伴った

大爆発を視認した。

プグリュー島の浬半南の珊瑚礁で起こったものと見られる」と報告している。

この爆発こそ第六艦隊文書に記載された、伊四七潜が火柱を望見した時刻0416と略一致する。

ウルシーで0547のミシシネワ命中より前にあった爆発はサムナーが報告した0418の大爆発以外にはない。

もし他に大きな爆発があれば当然何らかの記録がある筈であるが、少なくとも、0507頃には何事もなかった。

即ち、伊四七潜艦長の著書には詳細な状況説明があるものの、その時刻には客観的根拠はない。

その後、同日正午に近い1132プグリュー島南外側の同じ様な場所で回天の自爆としか思えない大爆発が

起こっており、二つの爆発とも、ウルシー泊地を統括する第十補給部隊司令官が戦闘詳報に記載している。

プグリュー島はウルシー環礁でもかなり南に位置する小島である。

その島の、さらに南の同じような場所で、同じ性質の爆発が起こったことは、

回天が基、此処で自爆したことを意味する。後にこの場所で回天の残骸が発見された。

これら二つの爆発は、伊四七潜が艦長戦記に記載された「ホドライ島の南東浬」といった、湾口近くまで接近して

回天を発進させたのではなく、戦闘詳報の方にあるとおり、同島より遥か南から発進させたことの証拠である。

 

伊四七潜の艦長および航海長の著書を見ると、浮上して基の回天に搭乗員を乗艇させたのち潜航して

予定発進地点に進出しているが、推測航法により低速で水中を進むだけで、途中で位置を確認した様子がない。

何分にも、途中で珊瑚礁に近寄る危険な航路を潜水艦長が指定したのであるから、発進地点の左への

偏位回避が航海者としては最も大切である。

進出方向にある筈のホドライ島の紅色航空標識灯を発進開始前に確認していれば、「左右の偏位」は少なくとも

検知できた。

 

ここで重要な問題として、同艦は北赤道海流の影響を顧慮した様子がない。

この海流は時にノットの西流になる。

−方、潜水艦の進出速力はせいぜい2乃至3ノットの低速なので、横からの海流の流速がノット以下としても、

長時間の潜航をすれば当然、艦自体がかなり西へ流されてゆく。

それなのに左右偏位の確認がなく、発進地点が西へ狂っていたと見るほかない。

そして、航海長は搭乗員に「そのまま直進すれば、水道入り口です。成功を祈ります。頑張って下さい」と電話で

決別の言葉をかけた、と著書に記述してある。

このような推測航法だけの発進地点から回天が指示された針路と速力、深度米で水中進撃すれば、

プグリュー島の南側で回天が相次いで珊瑚礁に衝突、座礁するのは当然である。

回天の電動縦舵機(ジャイロコンパス)は信頼性が高く作動が狂うことは滅多になかった。

重大な使命を帯びた搭乗員の、任務と生命を虚しく捨てさせた杜撰な航法ではなかったか。

 

回天は潜水艦に搭載される魚雷であり、搭乗員は艦長の命令を受けて発進する。

「針路○○度、速力十二ノットで〇分間走れ」の指示通りに航走し、浮上したのちは搭乗員が

周囲を観測して自身の判断で行動する。

無事に北進した回天は、珊瑚礁を擦りながら幸運にも通り抜けたか、或いは指示された珊瑚礁の縁すれすれ

の航路に不安を感じて指定時刻よりもかなり前に浮上し観測、針路を修正したものか、どちらかであろう。

 

一方、伊号第36潜水艦のほうは、伊47潜と同−の攻撃計画に従い、20日 0030搭乗員今西太一少尉と

工藤義彦少尉が回天に乗艇した。

潜航進出して0300吉本健太郎中尉と豊住和寿中封が交通筒を通って乗艇、0415発進予定地点の

マーシュ島105°9.5浬に到着し、発進を開始した。

しかし交通筒に両艇とも固着し、機械を発動しても離れず、工藤艇も操縦室に大量に浸水した。

基までもが発進不能となって、遂に今西艇だけが0454発進してウルシー北部泊地を目指した。

今西艇は12ノットで水中航走すれば湾口到達は0540前後になる。

この時刻ならば日出後であり視界は明るく、水道通航は格段に易しくなっていたであろう。

尤も、発進が遅れたことを強く意識して、規定速力の、訓練にも常用した12ノットを越えて多少増速した

可能性が無いとはいえない。

 

)東口湾外で米国巡洋艦隊を攻撃しようとした回天

ウルシー泊地の東口ムガイ水道は大型艦船が出入する主要水路である。

同日早朝、米第五巡洋艦戦隊の重巡チェスター、ペンサコラ、ソルトレークシティ、第七駆逐隊のカミングス、

ファニング、ケース、ダンラップの出撃部隊が錨地を出てムガイ水道を通りサイパンに向かった。

湾口の東水域を分担して警戒中の掃海艇ビジランスが0523小型潜航艇の潜望鏡と波を近くに発見、通報した。

その針路約060°速力7〜10ノットと報告している。

位置は防潜網入口の東1,800米であった。

巡洋艦戦隊は湾口を通過して之字運動を開始、右側を警戒航行していた駆逐艦ケースが0532南下する

潜望鏡を発見した。

二番艦ペンサコラの前方を潜航通過して隊列の南側に浮上した潜航艇は先頭の旗艦チェスターを攻撃する

態勢を取るように、浮上のまま左に大きく旋回して同艦の右正横に来た。

潜航艇が魚雷発射のために占位運動中と判断したケースは、潜望鏡がチェスターを向いたままであるのを見て

潜航艇に体当たりを決意、面舵一杯、右舷機後進全速、左舷機前進一杯で急速回頭し、浮上航走中の

潜航艇に艦首を向け、0538その左側から乗り切って中央部を切断。

続いて旋回しながら爆雷を投下した。

まさしく基の回天が湾口の東海面を東北東に向かって浮上航走しているところを先ず発見されたものである。

恐らくリーフに沿って北進してきたこの回天は、遂に水道を発見できないまま正面の北側島影に行き当たって反転、

針路真南で逆行を始めたものと思われる。

その航跡から見て、伊四七潜から発進した回天である可能性が高い。

当日の天候は半晴で積雲があり、日出は0538であった。

回天にとっては運悪く、丁度太陽が昇る方向に位置しており、西から見れば海面が明るく見える。

且つ艦隊が進む正面でもあるため、僅かな波を立てて進む小さな潜望鏡でも、米艦隊には容易に発見

できたと思われる。

この回天は巡洋艦だけに気を取られていたかも知れないが、恐らくは警戒艦艇を見ながら無視したと思われる。

 

もともと、回天は泊地内に碇泊中の敵艦を奇襲攻撃する構想のもとに生まれた潜航艇である。

突然姿を現す新兵器に、敵の艦艇は直ぐに対応できる筈はないであろう。

我々は構わず悠々と、最高の目標を一方的に選んで突撃すればよい、と確信していた。

従って目標以外の敵艦への警戒とか敵弾回避、ましてや爆雷攻撃に配慮することなど、

当時は誰も考えなかったし、その注意も受けなかった。

それが裏目に出て、体当たりする筈の回天が逆に体当たりを受けたのである。

それにしても敵前のターンを含めて、浮上航走が些か長すぎたように思われる。

回天を命中と同時に自動的に爆発させる慣性信管も、手動電気スイッチも、安全装置は狭水道を通過した後に

解除することになっていた。

既に解除していたならば、駆逐艦は衝撃と同時に轟沈したかも知れない。

菊水隊の段階では我々は航行艦襲撃についての研究、訓練を未だ行っていなかった。

この搭乗員は相手が航行中であることを認識したと思われるが、見敵必殺、目の前に現れた大型艦を

ともかく攻撃しようと身構えたのか?

この搭乗員が航行艦攻撃が出来る人物であった可能性はある。

疑問は残るが、0330頃の発進から既に時間余りも経っている。

闇のなかで狭水道模索を続けたために、搭乗員がかなり疲れていたことは充分に推察できる。

 

2)ミシシネワに命中した回天

大型油送艦ミシシネワが0547突如爆発し、炎上した。

ムガイ水道の南北両端のマーシュ島とマガヤン島の中間の奥にある131号錨地で錨泊中であった。

艦首方位は120°で、丁度湾口を向いていた。

就寝中のミシシネワ艦長は跳び起きて、艦の左側に噴き上がる火炎を見た。

「魚雷が前部の左舷に命中した」と判断、各種報告書には全てそのように記されている。

しかし最近、米海軍の潜水チームが調査したところ、右舷側に大きな破孔が開いていた。

回天が同艦の南側から突入したことになる。

命中箇所で起こった大爆発の衝撃が周囲の隔壁を破り、航空ガソリンを積んでいたタンクに引火して、

最初に猛烈な火炎を左側へ噴き上げたのであろう。

洋上出撃のため基準量の積荷を満載していた。

積荷のガソリン1,530キロリットルと重油15,740キロリットルが激しく燃えつづけ、黒煙は高く天に昇った。

重油は周囲の海面にも流れ出して燃え、弾薬庫と砲側に準備していた砲弾の爆発が相継いだ後、

同艦は転覆し0928沈没した。

航洋曳船ほか多数の船艇が救難に出動、消火と乗員救助に努めた。

乗員二九八名のうち、艦と運命を共にしたのは六十名であった。

この爆発音は日本の潜水艦側でも海中で感知した。

36潜はウルシ一環礁東方で回天が発進した後、制圧を受けて潜航退避中の0545大爆発音を聴取した。

47潜も潜航中、爆雷音とは異なる大爆発音と誘爆音を0550−0600の間に数発聴取したと報告している。

また第六艦隊も0558ウルシーの空襲警報を傍受した。

 

回天が指示された「空母、戦艦」ではなく、タンカーを攻撃したのは、平たく長い艦型が似ているため、

後方に数隻いた空母群の一隻と、搭乗員がたまたま見誤ったのではないかと想像される。

この回天は、仮に伊47潜からとすれば、無名水道と表示されたザウ水道を指示どおり通過したのか、

主要航路のムガイ水道を突破したのか、経路を立証する記録はないが、0330頃の発進から既に

2時間15分前後も経過していることでもあり、これまた闇夜の狭水道模索に苦しみ、疲れていたと推察される。

勿論、命中した回天が伊47潜から発進したとの断定はできない。

ミシシネワは米国海軍でも最新、且つ最大型の艦隊随伴型油送艦であって、積荷の燃料を満載していた。

軽微な損害ではないが、やはり正規空母轟沈のほうが米軍に与える衝撃は明らかに大きく、

その後の戦局に影響を与えたことであろう。

このタンカーが時間近く燃えて後に沈んだことから「轟沈していない。回天の威力も大したことはない」と

言った人がいるが、船を知らない発想である。

船が沈むのは、水が入って浮力が無くなるためである。

この大型タンカーの場合、水よりも軽い油を艦一杯に積んでいるから、それが流出するか、燃えた後に、

海水が代わりに入って来て沈む。

同艦は中央、左右の縦列、横列に、多数の隔壁て仕切られた船倉構成になっている。

大穴が開いても積荷が一度に流れ出すものではない。

また艦体に受けた爆発の衝撃を分散、吸収する。

爆発力が如何に強大であろうと、満載排水量25,425トンの大型艦全体が飛散することはない。

寧ろ、大きな弾火薬庫を持つ戦艦のほうが、艦底命中で回天が一発轟沈を果たすことが出来るであろう。

 

3)泊地内で米国巡洋艦を攻撃した回天

タンカーが爆発炎上中の0600、マーシュ島北西の十五番錨地に碇泊していた軽巡洋艦モービルは防潜網に

近い海面に白い水煙を見た。

防潜網はベゲフ島とマーシュ島、さらにマガヤン島を結んで展張されており、同艦はその西側2,300米にいた。

そのあと潜望鏡が2−4ノットの速力で真っ直ぐに接近してくるのを発見して、五吋砲と機銃で射撃を開始。

40ミリ機銃の集中射撃がよく命中したが、潜航艇は潜入し、あと水面直下を走る潜水艦が起こすような小さな波が

同艦左舷正横に近づき、50米でそれも見えなくなった。

司令官は同艦から「魚雷が艦首の下を通り抜けた」との通報を受けて、出動可能な駆逐艦に出航、警戒を命令、

護衛駆逐艦群が付近の捜索を開始した。

0608頃、モービルは南隣に碇泊中の僚艦ビロックシーとの間の海面に、変わった渦を発見した。

護衛駆逐艦ロールが礁湖を横切ってモービルに近づき、両軽巡の間に発生している渦に向けて0647爆雷を投下、

他の艦も渦の上を航過して浅深度爆雷を投下した。

0653ロールが回目の爆雷を投下したあと海面に泳ぐ二人の日本人を発見、波の中に顔が見えたが

長くは浮かんでいなかったと言う。

現場を捜索した米軍の短艇は枕と日本文字が書かれた木片を拾い上げた。

枕とは操縦席の座布団のことであろう。

三日後、日本人の一遺体がこの爆雷投下地点の付近で揚収された。

 

あと駆逐艦群は泊地全部の捜索を続行し、0805から夕刻に至るまで、次々と潜水艦?を探知しては

爆雷攻撃を続けた。

1105ソワクブ水道の内側を調査中の上陸用舟艇が付近で起こった爆発で損傷した。

この小さな水道に敷設した磁気機雷に米軍自身がかかったのである。

「変わった渦」は「直径7−8米の滑らかな水面が出来、中心部分で海水が旋回運動をしているように見えた」

と報告している。

この渦は、モービルの真横から全速突撃に入った回天が、前部に受けた40粍機銃弾の炸裂で出来た破孔から

浸水し前が重くなっていたためか、或いは横舵系統を破壊されたか、そのまま水深42米の海底に真っ逆様に

突入したものであろう。

しかしプロペラは燃料の続くかぎり全速回転を続け、海水を攪拌して海面まで渦が届いていたもの、

と私は推定する。

搭乗員が海面に浮んだのは、連続投下された爆雷の衝撃でハッチの掛け金が外れて開き、中の空気とともに

艇外に流れ出て、浮上したものと推察される。

一人は泳いでいたと言うが、このとき生存していたか、本当のところは分からない。

集まった各駆逐艦は爆発のあと「海面に浮かんだ二人の日本人を見た」と、一様に報告している。

しかし、回天の搭乗員が一か所から二人浮かぶ筈はない。

第一、回天基の個々の終未場所が分かっているから、若し此処に二人いたとすると人数が合わない。

0600最初に発見された「白煙」とは、回天が防潜網を突破したあと潜入する際に、

尾端のプロペラが吹き上げた飛沫であろう。

 

4)リーフで自爆した二基の回天

0418海洋観測艦サムナーが見たプグリュー島の南1浬半の珊瑚礁で起こった大爆発と略同じ場所で、

時間以上あとの1132に大爆発が起こった。

同じサムナーが「閃光と、高く昇る水柱を視認した」と報告しており、巡洋艦レノも同様報告している。

合わせて基の回天が此処で自爆したものに間違いない。

ウルシー泊地の司令官カーター准将も

「リーフの上で起こった二つの爆発は、他の潜航艇の存在を示しているが、これはおそらく環礁の縁で

自爆したものであろう。その一つが発見された」

と、戦闘詳報および戦後の自著に記している。

 

リーフに座礁した回天の搭乗員はどのように判断したか。考えたと思われる要素は、

@先ず、奇襲の秘匿である。攻撃開始予定時刻の前に自爆してはならない。

敵軍に警報を出すことになるからである。

また、A兵器の秘匿である。

この新兵器を知られることは今後の作戦継続に大きな障害となる。

兵器を敵手にわたしてはならない。

この二点は充分、念頭にあったであろう。

 

進出航走中は慣性信管、電気信管とも安全装置を掛けており、解除するのは狭水道通過の後であるから、

座礁即爆発ではない。

また座礁して直ぐに自爆を決断するとも思えない。

47潜は回天発進の際、位置が約2.5浬(4.6km)西にずれていたと見られる。

その場合、回天は発進後僅か約15分で珊瑚礁に衝突する。

0418より前、おそらく 0340−0400頃に衝突、座礁した上、0418に自爆した回天の搭乗員は、

座礁時に破孔を生じて艇内に浸水し「満水した後では自爆の操作が出来なくなる」と判断する事態になったか、

或いは搭乗員が「負傷して、猶予できない」などの状況となって、止むなく早い自爆の道を選び、

安全装置を解除、電気信管のスイッチを押したものと推察される。

次いで1132に爆発した回天は、座礁したのち「生ある限り戦うため、敵が現れたら一緒に爆発しよう」と

機会を待っていたところ、体力的に限度に達し、遂に自決と兵器破壊を兼ね併せて自爆したものと想像される。

搭乗員は拳銃を携行しているが、海中に擱座して艇外へ出ることが出来なかったか、「出て戦えば自爆できない。

兵器を敵の眼に曝すことになる。」と判断したのであろう。

 

米艦サムナーは後日プグリュー島の南側の珊瑚礁を調査し、後ろ半分の残骸となって水深60センチの

砂浜に少し埋まった回天基を発見した。

これは航走中に砂の上にのし揚げたとは限らず、深度米で航走中に座礁し、航走不能となったのち自爆。

後日の波浪によって砂浜の浅いところまで打ち上げられた可能性もある。

回天は尾端に四翅の二重反転プロペラを持つが、その羽根がほとんど欠落していた。

サムナーの艦長自身が爆発があった場所を短艇で捜索して発見、検分した。

その時期は昭和十九年の十二月下旬という。

この回天が自爆した基のうちの早いほうか、遅いほうかは分からない。

あとの基は珊瑚礁の深みに落ち込んでいるのではないかと想像される。

この調査までは、米軍は一人乗りの人間魚雷による攻撃とは思いが及ばず、開戦時に真珠湾を攻撃した

二人乗りの特殊潜航艇と信じていた模様である。

ムガイ水道前面で回天に体当たりした駆逐艦ケースも

「艇の前端に魚雷発射管が本、上下に付いているのをハッキリと見た」と報告した。

駆逐艦ロールほかが爆雷攻撃を行い「日本人二人が浮かんできた」というのもこの強い先入観のためであろう。

また、米軍側は当初、ミシシネワの爆発を日本の潜水艦が湾外から発射した魚雷の命中と見て、

防潜網入口の正面には停泊しないよう指令を出した。

1132の爆発も「潜水艦がこの時刻に魚雷をリーフに射ち込んだ」と解釈している。

 

菊水隊作戦に於いて計基の回天が発進、内基はリーフに座礁、自爆。

基は湾外で横合いから思わぬ衝突攻撃を受けて沈没した。

しかし残る基は見事、泊地進入に成功している。

だがその1基は猛烈な近距離射撃を受けて、決定的な突撃に転じながらも海底に突入する不運に見舞われ、

あとの基のみが敵艦命中を果たすことが出来た。

暗闇の悪条件で手探りの泊地進入を果たした、そして命中した搭乗員に対しては、よく健闘したものと、

同じ仲間として深く尊敬する。

一方、発進後間もなく、思いもかけないリーフ衝突、座礁に至った搭乗員の無念の形相が目に浮かぶ。

基それぞれの終末が略明らかになったが、各回天の搭乗員の名前は判らない。

永久に特定できないであろうし、遺骨もないのが特攻隊員の通例である。

「菊水隊の人が挙げた戦果」、それで良いのではあるまいか。

 

「人間魚雷・回天」は役に立たない兵器では断じてなかった。

窮迫した戦局のもと、人命を代償とするに足る、戦略的価値のある優れた兵器であったと考える。

狭水道を通過し、敵泊地に進入して巨艦群を一撃のもとに葬り、その名のとおり戦局を一挙に挽回することが

出来る兵器は、他にはなかったであろう。

しかし、古今「万能の兵器」なるものは存在しない。

戦争でも、スポーツでも何でも、相手がある勝負事は、自分の強いところを発揮し、弱点は庇うことで争う。

回天も特性を熟知し、それに応じた使い方をしなければ成功しない。

考えのない用法では、折角の威力も活きないのである。

 

「眼のある魚雷・回天」はその故に、遠距離から母潜水艦を離れて湾口を捜し、進入して狭く屈曲した水道でも

通航し、停泊している空母、戦艦の艦底を正確に狙うことが出来た。

383任務部隊の司令官であったフレデリック・C・シャーマン海軍大将は戦後、彼の著作で

「その一日中、そして次の夜、我々は何時爆発するか分からない火薬の樽の上に座っているように感じた。

休養の期間も楽しむどころではなく、広い洋上にいるほうがよほど安全であろうと思った」と述懐している。

 

回天の群れが予定通りの地点から、適切な時刻に発進していたら、更にまた、多数の回天搭載潜水艦が

初陣のこのとき、一斉攻撃をかけていたら、その程度の感慨では到底納まらなかったであろう。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/09