海軍大尉 小灘利春

 

鉄拳制裁考

平成11年 4月 4日 日本経済新聞「春秋」

 

「回天隊で兵学校出の士官が予備士官たちをよく殴った」と言い立てる向きがある。

「特攻隊だから当然、殺気立っていたのだろう」と妙な納得性があるだけに悪質な誇張である。

戦時中の軍隊であり、ましてや最も気迫に満ちた部隊であるから、鉄拳制裁が時にはあったが、それも初めのうちは

殆どなかった。

 

大津島の搭乗員たちは優秀であった。

予備士官たちは必死の特攻兵器の部隊を敢えて志願し、選ばれて入隊した人々であり、戦後は見られなくなった「気品」と

いうべき高貴な雰囲気が備わっていた。

予科練出身の下士官搭乗員たちは元気溌剌として陰りがなく、皆が模範的な若人たちであった。

「日本海軍大なりといえども、ここほど優れた部隊はあるまい。私は思いもかけない幸運に恵まれた」と、

この部隊に配属されたことに感謝を覚えていた。

当然、鉄拳を振るう理由はなく、私は制裁など考えたこともない。

 

大津島の士官宿舎の二階に、われわれ兵学校七二期搭乗員の自習室のような事務所があった。

十月か十一月の或る日、同期生のひそひそ話が耳に入った。

「川崎が予科練を殴ったらしい」というのである。

聞いた私は、思わず「なにィ?」と声をあげた。

私は予科練出身の搭乗員たちの分隊長をつとめていた。

下士官の搭乗員は彼等の一個分隊だけで他にはいないから、士官搭乗員たちは前任分隊長の帖佐裕中尉をはじめ誰でも、

話したいことがあるとき、気が向いたときは彼等がいる丘の上の宿舎まで足を運んで講話や雑談をしていた。

「分隊長」とはいっても、一般の艦船とは違って大津島基地の場合、独占的な縄張りの意味合いがない。

だが、分隊員は可愛いし、不当なことがあれば私が対処しなければならない。

機関科同期の川崎順二中尉が部屋に入ってきたので、私は「おい! 予科練を殴るな!」と、いきなり文句を浴びせた。

彼は目を丸くして、ひどく驚いた顔をしたが、黙ったままであった。

分かってくれたな、と思っていたが、かなり経ってからまた「殴った」という噂を聞き、重ねて文句を言った記憶がある。

 

戦後44年経った平成元年、或る元搭乗員が回天全般を紹介した本を出した。

光基地にいた学徒動員の兵科四期予備士官が書いたものであるが、そのなかで著者自身が僅か二、三カ月の期間に

「何千発か、数えきれないほど兵学校出身の士官に殴られた」と、はっきり記述している。

到底あり得ない、あまりにも大袈裟な数字である。

原稿の段階でそれが分かったので、私は

「兵学校出の士官が殴った殴ったというが、一体誰が殴ったというのか。名前をあげてくれ」と質した。

すると彼は

「兵学校出は殴っていません。殴ったのは機関学校出身者です。どうして機関学校は殴るんでしょうねえ」との返事であった。

兵学校出は殴らないと、事実を承知の上である。

「機関学校は兵学校と同じではない。気風が違うのだから区別してくれ」と私は言ったが、訂正されなかった。

因みに「回天隊のなかでは、殴った側として彼は有名」なのである。

 

しかし活字になれば、本当と思い込む人が出てくる。

或る脚本家がこの本を読んで大いに憤慨し

「これほど残虐な部隊が、かって日本に存在した事実を放っておいてはならない。映画にして日本中に広く知らせる」と、

正義感に駆られて回天を主題にした映画の制作を企画した。

取材を受けた私が、当時光基地にいた兵学校機関学校出身者の数と個々の性格、対する予備士官各期の人数、

それに下士官搭乗員の人数を具体的なデ−タをあげて説明したところ

『何千発とは、ゼロが三つ余計』と納得し、今度は『何のために彼等は生命を捧げたか』と、本物の回天を描く内容に転換して、

自らの生涯を懸けた制作として取り組んだ。

「まともな回天の映画がようやく出現するか」と期待されていたが、バブル崩壊に遭遇して映画化の実現が延びるあいだに、

この情熱の脚本家は急逝された。

まことに残念なことである(注:小田義士氏)。

 

「地獄の大津島」とも書かれている。

通称「地獄坂」という、駆け足で通る坂道があったので、そのことかと私は思っていた。

「地獄の大浦崎」とか「地獄」はあちこちにあるが、どうも違う意味で使っているようである。

それで兵科三期、水雷学校出身の数少ない生き残りの搭乗員に「大津島では兵学校出に殴られたのですか?」と訊ねたところ

「同じ仲間から殴られるわけがない!」と、愚問を叱られてしまった。

同じ質問を、学徒出陣組の兵科四期予備士官では古参の搭乗員にしたら

「大津島で兵学校出の士官に殴られたことはありません。しかし一期上の予備士官からはよく殴られました。

それがどうにも不愉快でした」と語った。

そういえば、大津島にいた三期予備士官のうち、三人ほどが盛んに鉄拳を振るっていたと、私は戦後になって聞いた。

(注:出撃戦没者の中にその三人はいない)

 

大津島で鉄拳制裁を受け、丈夫であった歯が悪くなったという、同じ兵科四期でも後から来た搭乗員がいる。

その話を戦後になって聞いたので「いつ、どんな理由で殴られたのですか」と訊ねたら

「研究会が終わって自室に戻ったところ、呼び出されて鉄拳制裁を受けた」とのことであった。

どうも隊員の訓練・指導の責任者である先任搭乗員に殴られたようである。

研究会の直後とのことなので、何か操縦上の問題があったのではないかと想像される。

別の話であるが、時には「信ぜられないほど下手な操縦をする搭乗員」がいたことは事実である。

精神だけでは回天の搭乗員はつとまらない。

拙劣な操縦は、時に自分自身を生命の危険に曝す。

 

回天隊では、殴るとしても大部分が機関学校の出身者であり、その中でも「川崎順二」の名前が出ることが

大津島でも光でも多かった。

機関学校は元来気性の激しいところであるが、その歴史上、最も殴ったクラスというのが彼の五三期との定評があり、

その中でも川崎はトップクラスである。

それにもかかわらず、殴られた機関学校の下級生の間には彼を怨む声がない。

意外に思えるが、烈しく叱咤し殴っても、良くしようとの誠意からの制裁であって一切の私心がなく、それが下の者に

よく分かるからだと言う。

個人的な感情はないから、すぐあとはカラッとして残らない。

「殴った」との伝聞だけでは嫌悪感が先に立ち、彼の真意、流儀を理解できないであろう。

同期生の間でも

「誠心誠意、憂国の熱血漢。性格は明るく朗らかで、時には茶目っ気さえあった」と好意的な評価を受けている。

大津島では古参の予備士官にも「親しみやすい友達で、猛烈人間との印象はかった」と回顧する人がいる。

 

私は知らなかったが、大津島基地でも昭和二十年に入って後の一時期、鉄拳制裁が増えたと聞く。

誰の仕業か分からないが、或る程度は事実と思われる。

殴ることは悪口の種にしやすい。

勿論、鉄拳制裁は奨励できないが、物事はその時の状況に身を置いて考えるべきであろう。

当時の軍隊であり、ましてや急を要する戦時中である。

今どきの小中学校ではあるまいし、鉄拳制裁はそれほどの「悪」であろうか。

軍人の評価を殴った、殴らなかった、で決めてはならない。

 

そんな問題よりもはるかに大事な要素がある。

一隻の艦、一個の艦隊を指揮して立派に任務を達成し、しかも艦も人も出来るかぎり傷つけることなく帰る指揮官が

良いのである。

みすみす撃沈されて部下を道連れに死んでゆくのが讃えられるのではない。

人当たりがよくても、敵を知らず味方も知らないまま判断ミスを重ね、拙劣な戦術で艦や艦隊を徒に死地に追い込んだ

司令官、参謀、艦長たちこそが職を汚した存在として糾弾されるべきであろう。

回天の場合もそれが言える。

 

禅の修行では今でも板で背中を叩く。

自動車教習所でも「或る程度のストレスを与えたほうが運転技術の上達が早くなる」という。

優しい言葉ではなかなか巧くならない。

本田技研についての日本経済新聞の記事によれば

「現役時代の本田宗一郎さんの鍛え方は半端ではなかった。

口より先にスパナが飛んできたり、鉄拳制裁も日常茶飯事だった。

頭にきて会社を辞め、四国のお遍路さんになった若者もいた。」

そして、この若者はまた会社に復帰し、その後本田の社長になるという落ちがつく。

元社長さんは苦笑しながら語る。

「間違っていても絶対認めない頑固オヤジ。それでも仕事への情熱に私心がない。痛さを我慢し続けるしかなかった」。

愛のムチかどうかは私心の有無だともいう」

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2008/08/17