海軍大尉 小灘利春
回天生産の遅延
大津島で19年9月5日、搭乗訓練に入った時、到着していた兵器は「回天一型の試作基だけの、
僅かに3基」であった。
試作品であるから当然性能は低く、潜望鏡も内部設備もまちまちであった。
翌6日の訓練で殉職者2名の事故を起こした試作基1号艇は浸水しておらず、訓練基が足りないので調査の上、
間もなく復帰した。
暫く経って9月も半ばをすぎてから量産型の「回天一型」が少しづつ送られて来るようになり、改めて1号から
番号がつけられたが、その数はなかなか増えなかった。
訓練が始まって間もなく、指揮官板倉光馬少佐は搭乗員全員を士官室に集め「ここにいる者は総員、1か月後に、
敵艦隊めがけ突入する」と腹の底に響く大音声で申し渡された。
以来、我々はそのつもりになっていた。
しかし、肝心の兵器、回天がさっぱり来ない。
1カ月後に全員が出撃しようにも、充当する艇がない。
出撃どころか、訓練さえも碌にできないのである。
「回天の事業」すなわち、戦局逆転のきっかけを作るためには、極力早く、しかも可能なかぎり数多くの回天が、
揃って突入しなければならない。
敵の進攻は常に早い。
我々が急がねば、戦局は次々と悪化を辿ることは明らかである。
日本の艦艇、航空機の消耗が続き、やがては総反攻する戦力も、機会も失われて行くであろう。
猶予はできない筈である。
「呉の工廠は、何をしているか!」 腸の底から煮えくり返り、私は海の上を睨んで叫んだ。
その後の私の人生でも腹の立つことは多々あったが、このときほどの激しい怒りを経験したことはなかい。
感情が烈しくもなっていたのであろうが、国と民族の運命がかかった総力戦に、すべての者があらん限りの
力をつくさねば、との思いが誰しも強烈であった頃である。
戦艦大和を建造した、東洋一の建造能力を誇る呉海軍工廠が多数の艦艇の建造、修理を続けているのである。
九三式魚雷を改造した小艇に過ぎない回天を100基でも150基でも揃えることぐらい、1カ月もあれば
何でもない筈ではないか。
記録によれば、回天の有人航走テストに成功し、兵器採用が決定した8月1日、軍令部は艦政本部に対し
「8月末までに回天100基を生産せよ」との至上命令を発し、艦政本部は呉工廠に同じ内容の急速生産命令を
出している。
しかし現実は、8月末になって100基どころか、呆れたことに何と〔ゼロ!〕だったのである。
9月の終に近づいてもなお、生産数は微々たるものに過ぎなかった。
何故出来なかったか? 何故作らなかったのか?
戦後聞くところでは、
1)製作を担当する呉工廠水雷部は、8月一杯の100基生産を命令されながら、
. 「何ら問題はない」 ---- とする工廠関係者がいる一方、担当者は
. 「不可能とは思ったが、努力目標」 ---- として受け取り、しかも
. 「一型はあくまで過渡的な、試作基に過ぎない」 ---- と思い込んでいた。
2)関心は寧ろ回天二型の方に向いていた。
. 軍務局は「殉国の勇士に報いるために性能的に十分満足しうる兵器」の開発を企図し、艦政本部に対して
. 「最高速力50ノット、最大射程70キロの性能を備える回天二型の、優先的な研究開発」を
. 同時に要求した。
. 艦政本部はこれに応えて「回天委員会」を19年9月に設置した。
. しかし、この回天二型、次の四型とも結局は実戦参加に至らなかった。
. 開発が順調に進まなかったこと、またロケット燃料の生産と備蓄に問題があること、そして何よりも根本的に
. 大型すぎて潜水艦搭載用には不適当であるために、20年2−3月に中止されてしまった。
. 工場の周囲には先行生産された回天二型、四型の胴体ばかりが多数、空しく転がっていたのである。
. これに投入された大量の労力、時間、資材の浪費が、一型の生産をさらに大きく阻害する結果となった。
3)生産が進んでいないと黒木、仁科の両搭乗員から指摘されて遅延が表面化し、対策会議が
. 8月21日呉で開かれたとき「工員に握り飯1日3個の特配」を工廠は要請した。
. 特配があれば、9月半ばまでに20基、以後、毎日3基生産出来ると言う。
. その頃すでに国民一般の生活が悪化していたことは事実ではあろう。
. これらより考察すれば、まず
. @人間魚雷構想の採用が遅れ、また
. A19年2月の試作下令以後の開発にも、月日が掛かりすぎた。
. それぞれに状況があり、今ここには問わないまでも、いよいよ
. B8月1日兵器採用が決定し、回天100基の至急生産命令が出されたのち、関係各部門の対応は妥当であったか?
. という重大な問題がある。
回天が戦局を一挙に転換する救国の戦略兵器であり、その急速整備が至上、緊急の課題との認識があれば、
中央はその生産体系をチエックし、ボトルネックがあれば海軍としては可能な限りのエネルギ−を投入して
解決すべきではなかったのか。
命令の出しっぱなしでなく、要すれば責任者が生産現場にも赴き、また詳細報告を求めていれば、
回天生産部門との意思疎通が出来た筈である。
安易な判断、思い込みのまま、取り返しのつかぬ月日を空費することは避けられたであろう。
また呉工廠は、命令通り実行できないのであれば、障害について連絡、協議し、解決策を見出すべきではないか。
回天製造を担当した技術士官に戦後この点を尋ねたところ、夜は回天の横に寝て、昼夜兼行で奮闘したという。
一部の要員の非常な努力は多とするが、なぜ本格的な生産ラインを構成し、全工廠を挙げての集中生産体制の
確立を何故採らなかったのか。
「切羽詰まってからの、握り飯の特配要請」では遅すぎるのである。
握り飯で解決出来るものなら、その処置を工廠自体でそれまで取らなかったのは問題意識の欠如であり、
無責任の限りである。
回天二型、四型の開発に心を奪われたことは、軍務局から二重の指示があり、且つ優先順位が不明確であったことも
原因のひとつではあろう。
技術者としての良心、善意が無意識のうちに本格兵器開発に向かわせたことは理解できる。
しかしこれに時間を掛け過ぎた上、結果的に一型の生産を阻害しただけに終わってしまった。
そもそも事を始めるに当たって「潜水艦搭載にはあまりに大きく、重すぎる二型、四型の使用法、実戦的価値」に
ついての用兵側の検討と相互の意見交換は、果してなされたのであろうか。
第六艦隊、第一特別基地隊も、回天を知り、関与しながら、ただ一型が出来上がるのを、漫然と待つばかりであったのか。
同時にまた、二型、四型の用法を検討し、駄目なものなら初期の段階から計画、試作、生産を抑止すべきであるのに、
その動きさえも執らなかった。
このことは責務を果たしているとは言えないのではないか。
回天一型の、決定に応えた時期と数の生産が出来なかった筈はない。
その怠慢を指摘されることは今に至ってもないが、ここに極めて重大な問題があると考える。
10月17日、米軍はレイテに上陸して来た。
わが潜水艦の可動戦力は殆どをこれに割かれ、マリアナ沖海戦に次いで、いたずらに大量喪失を重ねた。
回天作戦第一陣の菊水隊は、そのためもあって僅か潜水艦3隻、回天12基の小出しに終わった。
一気に大量投入という奇襲兵器本来の戦法を活かす機会を、回天急速生産への無為、無策が失わせてしまったのである。
黒木、仁科の戦局判断と熱意は、作戦と製造の担当部門には無かったのか。
戦争指導層は、条件を良くして戦争を終結に持ち込むため、例え一時的にでも大きな戦果を挙げることを期待していた。
その目的を実現するのに、回天の適時、大量使用は最も効果的であったと考えられるのである。
しかして、回天一挙投入の最大の好機、目標は比島進攻前に集結した敵艦隊であり、その泊地であったと思われるが如何。
その見地からは、第六艦隊が回天生産、準備の遅れから菊水隊の出撃延期を願うに至ったこと自体、戦略的には既に、
第一段階で失敗していたのである。
「十分に訓練を積んだ上で、纏めて投入」と、漫然と延ばして待つことでは間に合わない。
能動的に「生産と訓練を整える体制作り」にこそ至急に、全力を投入すべきであった。
われわれ搭乗員は大いなるものの為に命を捧げる覚悟をしていた。
今もそれをひそかな誇りとしても、悔いるところはない。
だが「絶対の死」に捧げる多くの生命を「後手にまわって追いまくられるばかり」のような消耗戦に投入する
だけでは、その献身が活きないのである。
捨てる生命は早いほど価値が高くなり、時機を失すれば浪費に終わる。
犬死の特攻になる。
それぞれには只一つの人の命であるがゆえに、最も効果的な、捨てる甲斐のある最良の使い方をしてほしかったと
思うのである。
菊水隊の故仁科関夫少佐が敵泊地への発進を前に認められた遺書に
「ウルシ−の在泊艦無慮百数十、僅か3隻の潜水艦なりしは遺憾の極み。--- 只々憾むは回天数の少なきを!」
の言葉は限りなく痛切である。少佐の無念は今なお我々の胸を撃つ。
最大の戦略的価値を発揮する可能性を持っていた「人間魚雷回天」の生産と運用の責任は関係者それぞれに
あった筈である。
しかし誰もがそれを認識していなかったのではないか。
さらにそれらを統括し、強力に推進する責務は一体誰にあったのか。
「曖昧な管理組織、無責任体制」は、今の日本においても相変わらずではないか。
「過ぎた苦い経験を忘れ去って、将来に活かせぬ国民性」の根本的改革を急がぬかぎり、政治にも国防にも
進歩と異変に対応できず、相変わらずの破滅をこれからも繰り返すことになるであろう。
更新日:2008/08/17