甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会
関西甲飛十三期会 公認ホームページ
会報「總員起こし」 第 34号/平成18年
岡田 純
奈良空−回天振武隊(伊367)−回天多聞隊(伊367)
「回天選抜奇談 続編1」
平成12年発行の「総員起こし」28号で「その一」を寄稿し、15年の31号「その三」で選抜奇談を脱稿して
から三年を経過しました。
その間は関西甲飛十三期会と殉国之碑保存顕彰会の会長の任に専念しておりましたので、寄稿を中止し
ておりましたが漸く会長の任期も終わりに近ずきましたので、回天隊発祥の地であり現在も重厚な慰霊碑
と遺影遺品を展示した立派な記念館が建立され、戦死者の銘碑が参道にならぶ聖地、大津島での戦中九
ヶ月のあれこれを私なりの体験談を主体として皆様にお伝えしたいと存じます。
然しながら82歳を超えた私が何号まで書けるのか、将又「総員起こし」が何号まで発行出来るのか、根競
べをして見たいと思いますので、何卒お付き合い下さいます様、お願い申し上げます。
『いざ大津島(別称・鬼ヶ島)』
奈良空から回天隊に配属された250名の中から選ばれたのか、放り出されたのか判然としないながら転 任
を命ぜられた100名は、残留者総員に見送られ二隻の大発に分乗して光基地に別れを告げた。
『回天との出会い』
時速八節(ノット)の大発で二時間程の航海中、行き交う大小船舶の方位角、距離の測定等をしながら航行
するうちに下松の沖合いに懸かり徳山の湾口が見えて来た頃、前方を何やら信号旗を掲げた魚雷艇が走
って行った。
引率の指導官が「信号旗は付近に潜水艦ありの注意信号だから、魚雷艇の前方を回天が航走している筈
だ」 と教えてくれたので、全員目を皿にして見張ったが発見出来ず残念であったが、目の当たりに訓練の実
況を 見た興奮と期待を乗せて大発は愈々徳山湾に入り、回天隊のメッカ大津島に第一歩を踏み出した。
指導官が崖上の本部(士官室)に届けに行く間、整列して待機していると間もなく正面の急階段を一人の少
佐が下りて来て先任者の着任報告を受けた。ガッシリした体躯、眼光炯々たる風貌、噂に聞いた大津島基
地指揮官兼一特基参謀の板倉光馬少佐その人である。
短い訓示ではあったが、その中でも「当隊は出撃基地である。邪魔になる者は即刻原隊に帰す」と言う一言
は 62年後の今でも忘れられない。この時の100名の仲間から一人も落伍者を出さなかったのも、全員が
此の一言を肝に銘じた賜物であったと思う。
訓示が終わって「整列を解いて後方に集まれ」と言う指示で後ろを振り返ると大きな建物(回天調整場)の手
前 に上部を白く塗った大きな魚雷らしきものが架台に乗せられて横たわっていた。近ずくと中央に短い潜望
鏡が付いていた。
「これか」「これだったのか」座学で聞き、覚悟は出来ている筈の我々も、目の前で自らの棺桶を見てドキンと
すると共に、こんな兵器を上手く操れるだろうかと云う不安とが交錯して暫く声なく凝視するのみであった。
「みな聞け」という声で夢から覚めた様に指揮官に正対すると「見た通りだ、これが貴様達の乗る兵器、即ち
回天だ。訓練用回天はまだ少ないが、順次揃い次第貴様達の訓練が始まるから肝に銘じて置け。なおこの
的 (回天の部隊内呼称)は当隊開隊怱々(十九年九月六日)訓練中に殉職した黒木大尉、樋口大尉の乗艇
であ る。後で艇内の壁面を良く見て置く様に」と言って指揮官は調整場に入って行った。
100名が順次艇内に入ったのでは到底時間が足りないので、今日はハッチに近い者が代表して潜り込んで
数 分、出て来た彼の顔は紅潮していた。「どうだった」彼の声「壁に遺書がある」の一言。その一言だけでよか
った。その一言で回天乗りの真髄を悟った思いだった。
『大津島基地のあれこれ』
大津島は徳山湾の南を扼する位置にあり、大発なら徳山から一時間であり、以前から酸素魚雷の試験発射
場 があり酸素発生装置も魚雷調整場も完備されており湾外の海面も広く、九三式酸素魚雷を原動力とする
回天の訓練には最適であった。
又、当初の攻撃目標であった停泊艦攻撃に当たっての狭水道通過の訓練にも最適の湾内侵入訓練用の水
道 も三ヶ所にあり、正に絶好の回天用の基地であった。
然し天は二物を与えずで、施設は整備関係を除いては全くの新設であり且つ急造である為に、本部(士官室)
もバラック二階建で二人部屋の間仕切りはベニヤ一枚と云うひどさであった。我々下士官搭乗員の兵舎は本
部 から急坂(これを地獄坂と呼んでいた)を上がった台地(現在の慰霊碑広場)にあり、本部に輪を掛けたお
粗末 さであった。周囲は板張りで天井なしのバラックで、中央に2米位の土間の通路があり、50センチ程の
高さの 両側のデッキに畳が敷いてあるだけで、両デッキを合わせて二百畳位はあっただろうか。
此処が土浦出身の残留者約50名と我々奈良空出身者100名の合計150名が寝食を共にする居住区だが、
それ以外に、夜には当日の訓練結果に対する研究会が開かれ、全搭乗員は勿論のこと整備長と当日の使用
的の整備士、更に潜水艦発射のあった日には当該艦長と幹部士官も出席すると云う大研究会の会場になる。
従って食後の一服など、ゆっくりしている訳にはいかない。大講堂で椅子に座って研究会をやる光基地との差
は 大きかった。此の状態は終戦まで改善されなかった。
そんな環境の中にあっても我々の志気は衰えるどころか益々昂揚して行った。
それは、十二月三十日の金剛隊(同期の森 稔・三枝 直の両君が先陣を切って、イ五十八潜水艦で出撃、二
十 年一月十二日グアム島アプラ港内の敵船団を攻撃、戦死)から相次いで出撃者を見送り、殉職者を弔い、そ
して 次の出撃を目指す半年の命の我々にとっては、訓練の充実のみが願いであって、居住区の良否などはどう
でも良かったからである。
当時の大津島には、そう思わせる緊迫感が満ち溢れて居た。
平成18年 4月 9日 橿原神宮・甲飛十三期慰霊例祭にて(右)
更新日:2007/10/12