甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第36号/平成20年

久保 吉輝

奈良空−回天(光)−轟隊(伊363)−回天多聞隊(伊363)

「天地の恵みは広大無辺D 回天基地隊うらばなしB」

 

年も改まって昭和二十年、相変わらず回天の構造や操縦の座学とマル四艇や内火艇にゆられ、寒風に浪しぶきを

かぶって訓練的の追躡・監視に明け暮れた一月中旬、数日来やけに冷え込むと思っていたら昨夜から予想外の

大雪になり、朝には二十センチも積もっていた。

「午後から手明き総員で雪合戦をする」と分隊士の命令で練兵場に整列、士官も下士官も紅白に別れて始まったが、

何時の間にか敵見方に関係なく日頃「修正や気合を入れる」とか言って鉄拳をくれる分隊士への集中攻撃、

雪だるまになって退散していった。

以後、棒倒しや騎馬戦などもやらなくなった様である。

 

初同乗

それから数日後の夕方、部屋で雑談していると「久保、明日同乗だぞ」同室の者に言われ、担がれたのかも、

と思いながら本部の黒板を見ると、明日の最終発射で河村兵曹の的に同乗となっている。

ついぞ今までは、他人事のように思っていたのに「えらいこっちゃ」と、改めて黒板を何回も見直した。

間違いなく名前が書いてある。

早速ご挨拶をと彼の部屋に行き「河村兵曹、明日の訓練に同乗をお願いします」と丁重にお願いすると、

「お前が同乗か、黙って俺にまかしとけ」と鷹揚に言われ、「何分宜しくお願いします」と自分の部屋に帰ってきた。

選りによって奈良空四兵舎で有名な十五分隊の暴れん坊の河村の哲とは、同室の者は気の毒がってくれた。

書き写した「回天操縦操式」を改めて見ながら、発進準備・発進用意の手順を復習し、寝床に潜り込んだが、

なかなか寝付かれない、うとうとしている内に朝になった。

「サー今日は大変だ」と河村兵曹の部屋で打ち合わせ、使用的の確認と整備科へ挨拶など、

何回も調整場を往復している内に、不安や心配が膨れてきたが

「今日から搭乗員になったんだバタバタせずに落ち着け」と、自身の気持ちの整理に自身で戦っていながら

「お前は同乗で、オマケじゃないか」と気を取り直せば案外楽になって来た。

本部庁舎の先任将校に搭乗と同乗の申告をして発射場に行くと、すでに調整場から引き出された訓練的がクレーン下の

架台上にある。

指揮所の指導官に報告、三谷大尉は「日没が近い、気を付けて行け」と髭を捻りながら言われて、

河村に続き小生も筒(的)内に入る。

一人乗りの的に大男の河村と小さい体を小さくして差し向かいに座る。

上部ハッチから覗いている指導官の下で電動縦舵機起動から十数個のバルブの開閉や計器の点検をし、

最後に主空の起動弁を開き、確認したところで上部ハッチが閉鎖された。

暫くしてクレーンで吊り上げられたのか少し揺られながら海面に下ろされ、横抱き艇にくくられ発射点に運ばれて行く。

秒時計を見ると予定より遅れて五時前になっていた。

停止してしばらくすると、コンコンとハッチをたたく発進の合図、河村はすぐに応答し操縦席後ろの発動桿を押すと、

二・三秒後グワーと熱走の音と共に回天は発進していった。

快調な機関音を聞きながら彼の操縦手順を操縦操式と見比べた。二回浮上観測をしている。

縦舵器の目盛は一八〇を指している。

海図の計画航路を見ると変針点の室積半島は大分前に通過しているのに、五キロ南の祝島を尾島と誤認しているのでは

なかろうかと思い「もう取舵三〇度の変針するのと違うか」と秒時計を見て云うと

「黙って俺のするのを見とけ」と浮上観測して直進している。

夕闇が迫って判断に迷っているようにも思える。尾島と牛島の間を半周通過して帰る事になっているのにと思い

「ちょっと変だぞ」と注意すると今度は「そうかな」と自信のない返事をする。

ふと主空のゲージを見ると針が可なり下がっている。

「オィ、これでは帰れなくなるぞ、追躡艇は見えるか」と言うと、「暗くて何も見えない」と、小さい声で言う。

燃料は乏しくなるし追跡の舟艇をまいて迷子になり、しかも大分沖に出てしまった様だ。

「兎に角帰ろう、斜針をゼロ、人力縦舵を面舵一杯にして回れ右しよう」と一決、帰途についた。

彼は帰りを急ぐつもりか、圧(速度)を上げだしたので

「低速で走らんと少ない酸素を浪費するで、今更あわてても仕方ないで」と、二人は無言のままソロノロと

〇度ヨウソロで走った。

とうとう恐れていた事になってしまった。

エンスト(燃料酸素切れ)で停止し浮上した。

手分けして発動桿を引き、起動弁、燃料中間弁閉鎖など停止作業をして「此処はどの辺やろう」と特眼鏡で観測

してもらうと、「大水無瀬島が近いぞ」と言う。

ああ助かった、光基地の近くだ、見つけてくれるだろうと安心していたが、中々救援が来ない、

夕闇の所為かもしれないと思っている内に、寒くなって来た。

「オレにも見せてくれ」と体を捻って眼鏡を覗くと、島が向こうの工廠の光で浮き上がって見える。

島の見張り所が見つけてくれると思って、倍率のケッチを等倍にすると島は小さく遥か遠くなってしまった。

千米以上はある。

何の事は無い、今まで河村は倍率を上げたまま観測していたのだ、迷子になったのもこの所為だったのだ。

これでは明朝まで辛抱せねばならないと、残念に思うと急に寒さが応えてきた。

 

遭難・漂流

幸い海は凪いでいるが煙突の中に入って冬の海上で波間に揺られているのだ、

ローリングで彼は船酔いになったのかグッタリしている。

冷えの為か「小便がしたい」と言い出した、処が回天には便所はない。

巳む無く彼の半長靴を脱がせ尿瓶の代用にし、自分もついでに用をたした。

男二人向かい合わせに座って小便しているザマなんかは、見られた格好じゃない。

時計の針はもう七時を過ぎて二時間以上も経っている。

基地では大騒ぎになっているだろうな、と思いながら少々息苦しくなってきた。

しかも酸欠と彼のゲロの所為で臭気が気になる。

上部ハッチの小さい空気抜きを開けたが効果が無い。

自分まで気分が悪くなってきた。色々対策を考えたが、方法が無い。

ハッチを開けて換気するしか妙案が浮かばない。

昨年暮れの上山中尉的の脱出沈没の例もあるので、躊躇していたが少々の浸水を覚悟して思い切ってハッチを開けた。

少ししずくを浴びたが浸水の心配は無い。

海が凪いでいたのと主空を使い切り、しかもツリム調整のタンクに注水するのを忘れていた為、吃水が浅く

ハッチからの浸水の危険が少ない状態であった。

汚物の入った半長靴を海にデッコして、清々した。

それから時々開閉し換気したお蔭で、海風を吸って気分も良くなった。

しかし、回天には外部との連絡手段が全く無く、暗夜の海上ではどうしようもない。

何か連絡方法がないかと思案の末、懐中電灯を特眼鏡の先端にぶら下げ一杯上に揚げた。

蛍火みたいなものだが気休めになると思った。

もうこの後は見つけてくれるのを気長に待つしか仕方ないなあ、と諦めたら空腹になってきた。

以前応急食糧が積んであると聞いていたので、探すと手箱の半分程の一センチ厚の杉板の箱が出てきた。

ご丁寧に周囲を釘付にしてある、起動弁のスバナーで叩いても中々割れない、

狭い的の中でガンガン叩くので大きな音が反響する。

「やかましい」とのぴていた河村がどなったが、「辛抱せえー、お前のお蔭で苦労しているのに」と言い返すと、

黙ってしまった。

普通なら殴り殺される処だが、満州渡り柔道三段の無法者もとんだ泣き所を見せてノビているのが、

少し可哀想にも思えた。

やっと弁当箱程の缶詰を取出し開けると、ビスケット・チョコレート・コンビーフ・サントリーのポケット瓶などが

出てきた。

天下の珍味と食べながら「貴様も食うか」と聞いたが「いらない」と云うので、

全部頂いたら気のせいか眠くなってきた。

それからふと気がつくと、機関音が近ずいて来た。

待ちに待った救援が来たのだ。コンコンコンと外板を叩く合図音を聞き、ハッチを開けて艇指揮の士官に筒単に

状況を報告し、頭部フックにロープを結び曳航されて基地の岸壁に到着、クレーンで吊り上げられ、

やっと地上に立つことが出来た。

のびていた河村兵曹は担架で運ばれて行ったので、代わりに事故の状況を指揮官の三谷大尉に報告すると、

難しい顔をして「詳細は明晩の研究会で報告せよ」と言われ、心配して集まっていた基地隊員に何編もお礼を

云いながらやっと開放された。

初同乗がとんだ大騒動の一日になり、自室に帰ったら疲れが一度に出て、朝食時まで寝てしまった。

翌日河村の室に見舞いに行くと、大分焼きを入れられたのか顔が腫れている、今夜の研究会が思いやられる。

夕食後重い足取りで本部庁舎二階の講堂での研究会に参加、

他の発言者の話は上の空で、何をどう云おうか等思案している内に順番が回って来た。

案の定、河村は指導官以下数人に吊るし上げられ立ち往生、何だか気の毒になり、鬼の哲ちゃんも形無しである。

続いて事故後の処理について小生に多数の質問が浴びせられたが、下手な細工は止めて有りのまま返答して難を逃れた。

そして発見された原因を聞くと、換気の為に時々開けたハッチからの室内灯が白く塗装されたハッチの内面に

反射したのを大水無瀬島の見張所が発見したとの事であった。

兎に角これでこの一件は落着したが、河村兵曹は搭乗止メになり、俺は数日後から単独訓練に入った。

 

単独訓練

あれ以来毎夕本部の搭乗割りの黒板を見に行くのが日課になっていたが、二月の初め俺の名前が出ている。

指導官室で注意を聞き航走経路の書いた海図をもらい、当日同訓練の者と予習をして明日に備えた。

翌日は、同期の経験者に話を聞き、発進準備や観測・航走の手順等を検討したり、調整場の搭乗的の調子を

整備の先任下士に聞いたりしている内に発射時刻になったので、

指揮官に「訓練項目・潜入露頂法、体勢観測法・訓練海面…」等を報告し、一人で筒内に入り発進準備を

操式通り復唱しながら行った。

やがてクレーンで海面へ、発射点に運ばれ、発進合図で発動桿を押すと快調に発進した。

調深4調庄12を確認、2回潜航、浮上して特眼鏡を左九十度で観測すると、海図に書いた通り室積半島の

先端が見え、縦舵機の斜針を〇度にし、人力縦舵機を面舵に回すと縦舵機(ジャイロ)の目盛りが回り出した。

これは回天が回っているので比較する景色が見えない密室である為、自分が回転しているという実感がない。

人力舵を中央に戻し浮上観測すると基地が正面に見えた。

海図に書かれた通りに潜航、浮上し発動桿を引き停止、惰力で四百米位走ってほぼ出発点に停止した。

「ヤレヤレ」と思い、気がつくと寒中に冷や汗をベットリかいていた。

真っ直ぐ南に走り、岬を真横に見た所で回れ右、スタート点まで、と言う実に簡単な作業で、

海図に書いたマニアル通りにやれば問題ないが、殆ど外界が見えない海中の密室での為か、

孤独と疑心妄想の重圧で、信じられない様な結末になってしまうのであろう。

当日の他の二人は、クルクル回って途中停止と岩場に座礁してしまって、以後搭乗止メになってしまった。

この第一関門の単独訓練(潜入露頂、対勢観測)を無事に通過する者は、半数もなかったようである。

 

初事故

数日後から単独訓練を二・三回なんとか無事に終り、本日は同期を同乗させて近くの大水無瀬島を隠密潜入・

変針を繰り返し、島を一周、最後に先端の小水無瀬と海岸の五百米位の狭水道をU字に通過する難所を

なんとか済ませ、ヤレヤレと思った途端、突然機関が停止、浮上してしまった。

特眼鏡を回して後部を見ると、機関部のあたりから煙が上がっている。

追躡艇に引かれて基地に帰り、指導官に状況と原因不明を報告、あれこれ操作手順等の質問をされたが

思い当たる事も無く、「徹底的に調査せよ」とのことで半日調整場で立会い、分解したところ、

海水ポンプ吸い込み口のパイプに海藻やごみが詰まり冷却不良で、気筒が加熱溶融したものと解った。

心配した研究会でも「不可抗力」としてお咎めがなかった。

なお、この時同乗していた沢村兵曹は、宝塚−川棚−光と転勤してきた2分隊で最初の搭乗経験者で、

同郷の大阪・住吉中学出身でもあり、彼の同室の八人と記念写真を撮ったものが見つかった。

 

回天戦法の変更

狭水道通過の訓練が終了すれば次に碇泊艦襲撃に入るのであるが、初期の菊水隊、金剛隊以後は敵の警戒が

厳重になり、敵艦泊地攻撃を強行すれば母艦である虎の子の潜水艦の被害が増大するので、

洋上で航行する敵艦を攻撃する航行艦攻撃、即ち固定目標から移動目標へと戦法が変更された。

一応五・六回の航行訓練をして、大した事故もなく終了したら八重桜の高等科マークが授与された。

そして三月上旬から襲撃訓練に入った。本来なら停泊艦攻撃を二、三回終ってからだが、すぐ航行艦襲撃が始まった。

尾島と笠戸島の火振岬を結ぶ約十キロの直線を往復する長い竹竿に吹流しを着けたダイハツ艇を標的として攻撃し、

反転してもう一撃し基地に帰るのである。

射点から深度5、雷速(回天速度)二〇節で潜航、浮上して距離・方位角を観測し針路を修正、潜航し、

迫撃Aの態勢であれば迎撃Aの態勢になるよう大きく変針しながらもう一度潜航、浮上して観測、

目標の敵針、距離、方位角と回天の照準角を測定、潜航しながら斜進角を決め、突入雷速三〇節に増速、

斜角を射角表で修正、目標との衝突を避けるよう深度を二米程深くして突入、

目標の艦底通過予想時刻に減速し距離観測の誤差を見越して二分程潜航、

その間に燃料主空気(酸素)の消費によるツリム(浮力調整)のため注水して浮力をゼロにし、

且つ第二撃に備え大きく反転すべく、敵針を予想して目標の前程に位置するよう縦舵機を一八〇程設定を変え、

人力縦舵機を併用し旋回径の縮小を図り浮上して観測し、二撃目の訓練を終り基地に帰投することになる。

この航行艦攻撃で難問が出た。

突入に不可欠な射角Aの算出には三角関数が必要であるが、予科練入試時の問題の程度から不必要と思っていたが、

こんな処で勉強せねばならぬとはと頭を抱えたが、

幸いにも予備学の士官数人が射角の簡易早見表を計算してくれたので、

敵速や距離別のカードを作り「ダンゴ表」と称して愛用した。

そして回天を操縦し、特眼鏡で敵針・敵速・距離・方位角を観測し、射角・雷速を決め、目標に突入する。

通常潜水艦では艦長以下十数人で観測・計算し、殆ど艦全員で操艦し敵艦を魚雷攻撃する作業を、回天では

一人でやらねばならず、体力・神経を極端に削る苛酷な訓練である。

こんな猛訓練が、大津島・光の基地で連日行はれ、「総員起こし」三四号「回天選抜奇談」続2で岡田 純君の

寄稿されたように十数名の殉職者を出す惨事となった。

 

あわや陸軍潜水艦と衝突

二回目の航行艦襲撃も二撃目を終り浮上しようとした時、突然危険を知らせる発音弾の音を聞き、浮上観測すると

針路上に小型潜水艦を発見、蚊龍かとも思ったが、

中央の司令塔に「ゆ」と平カナの文字と日の丸の小旗をかげている。

イ・ロ・ハの片カナなら解るが、もう一度目をこすりながら見直したが甲板にカーキ色のつなぎ服の者が立っている。

やっぱり「ゆ」である。

「何じゃ、これ」不思議に思いながら、噂を思い出した。

笠戸島の北の日立造船で陸軍が輸送用の潜水艦を造っている噂は聞いたが、どうもそれらしい、

そんな資材があるのなら海軍に廻せ、折角造った輸送用潜水艦三〇〇型を回天作戦用に改装しているのに、

海軍も舐められたものだなあ。

「貧すりや・ドンする」とは、縄張り争いに、ムカムカしてきた。

また、この海域は回天訓練用の立ち入り禁止の筈である。

一月末に下松に行った時に巡邏ならぬ憲兵がいたのも思い出した。

そう云えば、笠戸島は下松のすぐ前だ。

にわかに腹が立ってきた、特眼鏡を回して後方を見ると、私を迫躡して来た内火艇が手旗でゆ号に信号を送って

いるようだが、二度と陸軍がウロウロせぬように、これを標的にして怒りをこめて襲撃訓練のオマケを始めた。

攻撃された陸サンは、白緑色の雷跡を残して鑑底を通過され、さぞやビックリしただろう。

多少溜飲を下げ反転して、小水無瀬の狭水道を通過し、無事基地に帰った。

夜の研究会では、事の詳細を報告し事故防止のため、陸軍に厳重に申し入れるよう、お願いした。

間もなく出撃の編成が発表された。

隊長が分隊長でもある海兵七一期の三谷大尉、副隊長は東大の秀才・和田少尉、下士官は土浦の小林(西澤)、

奈良の片岡、小生の三名であった。ただし片岡が事故で入院、土浦の石橋と交替した。

五月中旬に出撃と決まった。

 

謹告

この原稿は、逝去された筆者のパソコンに入っていたもので、総員起こし編集に備え、昨年の随分早い時期に

書かれたものとみられ、文字通り遺稿となりました。

 

久保 吉輝

更新日:2008/04/20