海上封鎖

 

昭和19年7月以降、サイパン島の陥落により戦局は急速に悪化し、日本本土への空襲が激しくなった。

日本に対する海上封鎖の一環として、日本沿岸に機雷が敷設され、敵艦見張りの役目も担っていた灯台ま

でもが空襲の標的とされた。

 

航路標識

昭和19年3月20日、足摺岬灯台が敵艦載機の機銃掃射をうけ、レンズ・回転機械などが損傷して、

一時休灯となった。以後、米軍機の空襲は熾烈を極め、各地の灯台は全焼あるいは崩壊した。その中に

は霧信号所、無線方位信号所などの施設も含まれていた。

 

航路標識の被害状況

  大破 中破 小破
灯台 51 10 30 91
霧信号所 11
無線方位信号所 10 18
気象観測 10 18
通航潮流信号所

74 26 40 140

 

灯台職員は、軍人とは違って家族と同居している。敵の空襲に対する家族の恐怖が思いやられるが、

「海上交通の安全確保」という職務に精励し、灯台守としての魂を遺憾無く発揮し

た。

 

昭和天皇御製

荒波をくだかむほどの雄心を やしなひながら守れともしび

 

機雷敷設

昭和20年3月27、30の両日、B−29の大編隊は北支・満州・朝鮮からの物資が集結する

関門海峡を狙って、1、800個もの感応機雷を投下し、海峡を完全に封鎖した。

5月には瀬戸内海、阪神海域にも680個の感応機雷を投下した。続いて日本海、北海道、東京

湾から名古屋にかけた海域にも投下された。

 

  磁気機雷 音響機雷 水圧機雷

B−29

太平洋沿岸 94 14 117
瀬戸内海 2、363 2、825 2、056 7、244
九州沿岸 274 116 69 459
日本海沿岸 1、890 961 419 3、270

4、621 3、911 2、558 11、090
潜水艦       77
合  計       11、167

 

この他に、日本が周辺に敷設した防御機雷 55、347個

これらの機雷は、戦後になってんほんの掃海部隊によって処理することになる。

 

当時の国力から見れば、日本の戦争能力は原子爆弾の投下される以前に、既に無くなっていたと

見るべきであった。

 

和歌山県忠霊塔

和歌山県和歌山市

  

米軍MK25型機雷

説明板

この機雷は終戦前 我が国沿岸航路を封鎖するため米海軍が空中投下した約6,000個の中の1個で

昭和40年に大阪湾で引き揚げたものである。特に紀伊水道、大阪湾、関門海峡にはMK25が大量に

投下され船舶に多くの被害を受けた。

@使用法 …沈底機雷(海底に沈んでいる)                  

A感応手段 …磁気音響機雷(磁気、音響を感知して爆発)           

B重量約1屯、爆薬THN約500kg                    

 

水戸教公園

新潟県新潟市

平和祈念碑

碑文

新潟市においては、第二次世界大戦末期の昭和二十年新潟港を中心として、艦載機による銃爆撃や触雷により

連絡船「鉄工丸」、軍用船「宇品丸」、佐渡連絡船「おけさ丸」などの多数の船舶や工場民家などに大きな被

害を受け勤労動員の生徒をはじめ、工員・乗客・船員など多くの尊い生命や貴重な財産が失われました。

さらに、新潟市出身の軍人軍属並びに市民の多くがひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ戦争の犠牲と

なり尊い命を亡くされました。また当時、市内の捕虜収容所に収容され、あるいは強制連行されて来ていた外

国の人々の多くも異国である新潟の地で亡くなっております。

あれから五十年余りが経過し、新潟市は今市民のたゆみない熱意と粘り強さによって中核市として目覚ましい

発展を続けております。しかし、私たちは、今日の発展が多くの尊い犠牲の上に築かれていることを忘れず戦

争の悲惨さと平和の尊さを後世に語り継いでいかなければなりません。

市域で最も激しい戦禍にあった新潟港を望む水戸教公園の丘に、平和の祈念碑を建立し戦争の犠牲となられた

方々のご冥福をお祈りするとともに世界の恒久平和を願うものであります。

平成十年八月十日  新潟市長 長谷川 義明

 

青井一本松

福井県小浜市

駆逐艦榎慰霊碑

碑文

第十一水雷船体駆逐艦榎 此地に於て終焉す

太平洋戦争の戦局急を告ぐる昭和二十年六月二十六日米軍機の投下せる機雷に触雷 艦後部を大破浸水

戦闘機能を喪失しあまた尊き殉國の友を失う 痛恨極まりなし

爾来三十有余年 我々元乗組員一同相諮り慰霊碑の建設を企画せり

願わくば此小碑が 駆逐艦榎 最後の地を記念し更には散華せる戦友の鎮魂の礎石として又我国の平和

と繁栄を希求し萬世に亘り風光明媚な此地小浜湾の波静かならん事を願って此碑を建立す

昭和五十六年六月二十六日

 

駆逐艦榎慰霊碑

 

駆逐艦榎慰霊碑

 

海洋深層水研究所

高知県室戸市

機雷爆発事故殉難者供養塔

碑文

昭和二十二年十月十五日 三津海浜に於て機雷解体作業中 突然爆発し英進駐軍警察部署員町消防団員 

其他部落民等 計三十八名殉職遭難す

昭和二十二年十月十五日  供養塔建設委員建立

 

三津海岸

 

関門海峡

山口県下関市

関門海峡

経緯

下関の戦争被害は、中国地方では広島に次ぐ大きなものであったとされる。

昭和20年3月27日夜、B29爆撃機99機が来襲、関門海峡に機雷1,000個を投下して海上封鎖を行い、

以後終戦前日の8月14日まで、ほぼ連日昼夜の別なく投下した。

 

4月1日、彦島塩浜海岸で第二雁川丸が触雷して沈没、以後、大型船157隻(約100万屯)、小型船を合 わせ

ると350隻以上が触雷して沈没座礁。海峡は船舶のマストが林立する「船の墓場」と化した。

日明地点では病院船「ばいかる丸」が触雷、少年航空兵の死体が海峡に流れ六連島に200体が漂着、荼毘に臥さ

れた。

終戦後も12月にかけて関門海峡で触雷による沈没船は12隻を数え、その後も多くの民間船舶が触雷による被害

を受けた。

関門海域には、今なお2,000個の米軍機雷が未処理のまま海底に沈んでいると云う。

 

戦禍を受けた関釜連絡船

和 18年10月 5日 崑崙丸

釜山港に向け航行中、敵潜水艦の雷撃を受け沈没(死亡582名)

 

和20年 4月 1日 興安丸

釜山港に向け航行中、蓋井島付近で触雷し航行不能

 

昭和20年 4月 5日 壱岐丸

.釜山港に向け航行中、六連島付近で触雷し航行不能

 

昭和20年 5月25日 新羅丸

下関港に向け航行中、関門海峡東口の部崎沖で触雷し沈没(負傷者多数)

 

昭和20年 5月27日 金剛丸

博多湾に入港中、触雷し沈没(死亡1名、負傷4名)

 

昭和20年 6月12日 下関丸(関門連絡船)

博多港で旅客の送迎中、触雷し沈没(行方不明3名、重傷2名)

 

昭和20年 8月 7日 対馬丸

城津から清津港に向け航行中、清津港外で敵機の攻撃を受け交戦中に触雷し航行不能

 

日和山公園

山口県下関市

崑崙丸慰霊碑

碑文

関釜連絡線崑崙丸七千八百総屯は 太平洋戦争の最中 昭和十八年十月四日 二十二時五分下関鉄道桟橋

を出港し釜山に向け航行中 翌五日 一時二十分 沖島北東十海里の地点にて敵潜水艦の魚雷攻撃を受

け一瞬にして沈没 乗組員百二十四名 船内警察官三名 税官吏二名 海軍警備兵二名 乗客四百五十一

名は船と運命を共にし 悲壮な最期を遂ぐ ここに有志一同の芳志によりかつての関釜航路の基地 下関

港を見下す日和山公園に碑を建て 尊いこれら犠牲者の冥福を衷心より祈り 併せて永遠の平和を希う

昭和三十五年十月建立  有志一同

 

本土決戦

更新日:2013/09/01