硫黄島玉砕

 

米軍は昭和19年8月の時点でサイパン、グアム、テニアン島などを制圧、B29爆撃機による日本本土への

長距離爆撃を開始した。

一方、大本営は硫黄島の戦略的重要性を認識し、小笠原兵団第109師団(栗林忠道陸軍中将)、混成第二

旅団(千田貞季陸軍少将)、第27航空戦隊(市丸利之助海軍少将)、軍属、特年兵(少年兵)を含む総数約

21,000名を配置した。

栗林中将は持久戦にそなえ、島内各所に全長18Kmにも及ぶ地下壕を作りこの戦いに備えた。

 

    

栗林忠道陸軍中将                    市丸利之助海軍少将

 

米軍の兵力は、艦船800隻の、航空機4,000機、総数25万人。昭和20年2月16日、硫黄島に対して熾烈

な艦砲射撃と空爆が開始された。19日にはB−29による空爆と硫黄島沖に集結した艦隊による砲撃が全島

を襲い、硫黄島の南海岸には約130隻の上陸用船艇第一波が上陸した。

 

硫黄島に押し寄せる連合軍艦艇

 

神風特別攻撃隊第二御楯隊

米軍の上陸三日目(2月21日)、八丈島経由で飛来した第二御楯隊は、空母「サラトガ」「ビスマルク・シー」

に体当り攻撃を敢行。

「サラトガ」は搭載機36機が炎上し約30人が戦死、その後修理の為に本国へ回航されたが再び戦場には

戻れなかった。

「ビスマルク・シー」では大火災が発生し約200人が戦死、三時間後に沈没した。

 

  

出撃前の第二御楯隊/香取基地                           空母「サラトガ」の飛行甲板

 

一式陸攻

米軍の上陸六日目(2月24日)、21:00頃になって海軍航空隊の一式陸上攻撃機が硫黄島上空に飛来した。

敵高射砲の弾幕をかいくぐり、米軍占領地域に六〇瓩陸用爆弾12発を連続して投下した。地上部隊はこの攻撃

に感奮して夜襲を敢行、栗林中将は第三航空艦隊・寺岡謹平中将に対して感謝の電報を打電した。

 

本日の爆撃を深謝す。爆撃の開始されるや敵は周章狼狽し、飛行場に煙幕を張り攻撃は頓挫す。為に我方士気

極めて上がれり。今後の続行を期待す。

 

回天特別攻撃隊千早隊

米軍の上陸開始後、急遽潜水艦伊368、伊370、伊44の三隻をもって回天特別攻撃隊千早隊が編成され、

2月20日から22日にかけ、順次基地を出撃し戦場に急行したが、そのまま消息を絶った。 公報では2月26日

沈没とされているが、戦後の米軍記録では2月27日未明、同潜水艦は護衛空母「アンジオ」の搭載機に捕捉さ

れ、潜航したものの執拗な追跡・攻撃が続き、遂に硫黄島西方24浬の地点で沈んだ、とされている。

米軍の偵察記録によれば、この交戦の際に甲板上に回天の姿はなかったと聞く。即ち、既に回天が発進した後

であった可能性があり、硫黄島守備隊からも洋上に火柱多数を見たとの報告が来ていた。

 

伊370潜  昭和20年 2月20日出撃(光)

 

米軍の降伏勧告

3月16日、米軍は日本軍に降伏勧告状を送った。

日本軍が硫黄島で示した恐れを知らぬ不撓不屈の精神は、全戦闘員の賞賛に値する。貴下は類まれな戦法で

部隊を指揮してきた。われわれは、絶体絶命の状態に追い込まれた勇猛な部隊を完膚なきまでに壊滅するつも

りはない。それ故に私は貴下に対し直ちに部下の抵抗を中止させ我軍の防禦戦を通って安全地帯へ行進してく

るよう勧告する。貴下並びに貴下の将兵は、戦争規程に従って人道的に処遇されるであろう。

 

翌日の総攻撃の時点で一万人前後の将兵が生存していたと思われるが、敗戦後も大部分の将兵はゲリラとなっ

て戦い、進んで降伏したものは僅かであった。最終的な捕虜人数、1,033名。

 

硫黄島守備隊は持久戦を展開し、圧倒的な兵力を有する米軍上陸部隊に多大な損害を与えた。しかし米軍上

陸約一ヵ月後の3月17日、壮絶な戦闘を続けてきた日本軍は、栗林中将から大本営に訣別の電文を打電し、

総攻撃を最後に日本軍の組織的な戦闘は終わるが、その後6月末まで日本軍による奮戦は続いた。

 

栗林中将の訣別電

 

戦局遂に最期の関頭に直面せり、十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員

壮烈なる攻撃を敢行する。敵来攻以来想像に余る物量的優勢をもって陸海空より将兵の勇戦は真に鬼神をも

なかしむるものがあり。しかれども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで倒れたためにご期待に反しこの要地を敵

手にゆだねるやむなきに至れるは、まことに恐懼に堪えず幾重にもお詫び申しあぐ。

今や弾丸尽き水枯れ、戦い残るもの全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、つくづく皇恩のかたじけ

なさを思い粉骨砕身また悔ゆるところにあらず。

ここに将兵とともに謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ、永久のお別れを申しあぐ。防備上に問題があるとすれば、

それは米国との物量の絶対的な差で、結局、戦術も対策も施す余地なかりしことなり。

なお、父島、母島等に就いては同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも断こ破砕しうるを確信するもなにとぞよろ

しくお願い申し上げます。

終わりに駄作を御笑覧に供す。なにとぞ玉斧をこう。

 

国のために重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺に朽ちじ吾は又 七たび生まれて矛を報らむぞ  

醜草の島にはびこるその時の 国の行く手一途に思う  

 

戦死

昭和19年3月22日 組織的戦闘終結

戦死者20,129名(島民から徴用された軍属82名)。生還者 1,033名。

 

米軍の戦死者 6,821名、負傷者 21,865名。合計28,686名という人的損害は、日本軍守備隊

の総員を大きく上回っている。

 

バロン西

  西 竹一陸軍大佐、陸軍戦車第26連隊長

  ロス五輪の障害馬術で優勝、「バロン西」の愛称で世界的に有名

  昭和19年6月20日 戦車第26連隊牡丹江より硫黄島へ動員下令。

  昭和19年7月18日 輸送船「日秀丸」で硫黄島に向かう、途中敵潜の雷撃で沈没

  硫黄島に上陸後、補充戦車等の現地再編を図るが、米軍戦車との性能・物量差に

  苦戦。その後歩兵戦闘に移行。

 

  昭和20年 3月17日、戦死(自決したと伝えられている)。

 

 

 

 

硫黄島

東京都小笠原村

写真提供:海軍倶楽部代表 参謀長 中村信博様

  

硫黄島南海岸(米海兵隊上陸海岸)                             激戦地 スリバチ山(パイプ山)

 

  

米海兵隊が上陸した海岸へ下りる途中のトーチカの機銃陣地 …トーチカ内部は火炎放射の跡が見て取れ熱で銃身が垂れている

 

  

日米硫黄島戦没者合同慰霊顕彰式 …平成21年 3月18日

 

明徳寺

長野県長野市

陸軍大将栗林忠道之墓

 

青山霊園

東京都港区

西 竹一陸軍大佐 墓碑

 

高尾山薬王院

東京都八王子市

硫黄島戦没者慰霊碑

碑文

硫黄島は此処から南六百里の洋上に浮かぶ孤島であるが 大東亜戦争の末期 太平洋に於ける日米

攻防戦の天王山であった

されば昭和二十年二月十九日から展開された戦闘は凄惨熾烈を極め 日本軍は約二万名が玉砕した

のに対し 米軍も亦戦死約七千名 負傷二万千名を算した

米軍の上陸した同島南海岸正面の防衛戦闘に 独立歩兵第三〇九大隊の機関銃中隊長として奮戦し

た阿部武雄氏は死闘の末遂に捕らえられて 米軍野戦病院に収容され奇しくも生還した

阿部氏は当協会常任理事 組織部長として 協会の事業目的達成の為献身奔走する一方 戦没者の

供養と平和を祈念する為 この慰霊碑及び平和観音を建立の上 碑下に戦没者舎利を納める事を発

願し今茲に結願す 功徳実に大である

仏舎利塔に隣接した聖域を 薬王院当局の好意に依り卜する事が出来たが 硫黄島への渡島が困難

である事情に鑑み 此処に詣でて遥かに南溟の空を仰げば 必ずや平和観音の妙智が作用して現地

供養を彷彿たらしめる効を顕わすものと信ずる次第である

讃に曰く

丘上新碑影 尊像馥郁香

佇立望南溟 滂沱憶硫黄

硫黄島協会 会長 和智恒蔵 謹撰   副会長 森本一善 謹書

 

  

             平和観音                         副碑/小泉純一郎(当時厚生大臣)揮毫「永代供養」

副碑碑文

平和への もといとなりし み霊よび 高尾の森に 小鳥とあそべと

 

山梨縣護國神社

山梨県甲府市

硫黄島戦没者慰霊碑

 

備後護國神社

広島県福山市

硫黄島戦没将兵慰霊碑

 

石手寺

愛媛県松山市

硫黄島平和の碑

 

高知縣護國神社

高知県高知市

硫黄島   高知県戦没者慰霊之碑

 

戦後の状況

硫黄島の遺骨収集

日本軍の戦死者 約20,000柱。

厚生省による遺骨収集は昭和52年度に始まり、平成 6年度までに祖国に帰った遺骨は約8,600柱

にすぎない。

戦後62年が過ぎてなお、10,000柱以上の遺骨が取り残されている。

 

硫黄島の呼称

戦前、硫黄島の呼称は島民と陸軍では「いおうとう」、海軍の一部と明治時代作成の海図では「いおうじま」

としていた。

米国では海図の呼称を取り入れ「いおうじま」と呼び、終戦後も米軍の統治下にあったことから「いおうじま」

と呼称されていた。

平成19年 3月に小笠原村議会では第一回議会定例会の最終日に、同島の呼称を「いおうとう」に統一す

る「硫黄島の呼称に関する決議案」を提出し採択された。

小笠原村では国土地理院へ地名の修正を申請。同院では海図を作成する海上保安庁海洋情報部と「地名

等の統一に関する連絡協議会」において協議の結果、平成19年 6月18日以降の硫黄島の呼称を「いお

うじま」から「いおうとう」へ変更することとした。

 

玉砕の島    本土決戦

更新日:2011/02/13