布哇 カネオヘ基地

写真提供:零戦搭乗員会 高橋希輔様

 

飯田房太

第二次攻撃隊 「蒼龍」制空隊 第三中隊 第一小隊 一番機

大正 2年 2月11日生れ、山口県都濃郡富田町出身、海兵62期出身、海軍中佐

飯田房太海軍中佐

 

昭和16年12月 8日(日本時間)、午前七時四五分、飯田房太大尉は、零戦に搭乗して航空母艦

「蒼龍」を発艦、列機を率いハワイ・オアフ島に向かった。オアフ島上空は第一次攻撃隊の攻撃によ

り猛煙におおわれ、加えて米軍の対空砲火は激烈を極めた。

同島中部の飛行場を攻撃後、飯田機は翼を振り機首を転じて上昇、列機もこれに続き編隊を組

んだ。飯田機はカネオエ飛行場銃撃時、敵の対空砲火で燃料タンクに被弾し、ガソリンが尾を引

いていた。編隊を組むと飯田大尉は列機の藤田怡与蔵中尉に対して、手信号で「ワレ燃料ナシ」

と伝え地上を指した。「燃料がない、自爆する」の意味だった。

飯田大尉や藤田中尉ら「蒼竜」を母艦とする零戦パイロット達は、ハワイまでの途上で毎日のよう

にミーティングを行い、飯田大尉は「軍人は最後の決心が必要だ。もし燃料タンクをやられた時は、

万一助かるかもしれないなどと考えず、適当な目標に自爆する」ことを申し合わせていた。

そのまま母艦への帰投方向に向ってしばらく飛び、列機にその方向を示した後、飯田大尉は手を

振って別れを告げ、反転してカネオヘ飛行場の格納庫めがけ真一文字に突入していった。

温和な性格から「お嬢さん」と渾名された飯田大尉の凄絶な最後だった。享年29才。

飯田大尉の最期に感銘を受けた米軍は、四散した飯田大尉の遺体を拾い集め基地内に埋葬し

ている。

この時に回収された飯田大尉の飛行帽は、58年後の平成11年にご遺族へ返還された。

 

  

米軍による飯田中佐の埋葬             米軍が飯田中佐の埋葬地に築いた慰霊碑

 

   

 

     

平成13年12月 4日 零戦搭乗員会による飯田中佐慰霊祭

 

布哇真珠湾

更新日:2002/12/04