諏訪護國神社
長野県諏訪市
. 拝殿の両脇に立つ諏訪の御柱 長野県軍恩連盟諏訪郡市協議会 鎮魂慰霊碑
永田鉄山中将胸像
碑文
永田鉄山中将は明治十七年一月十四日上諏訪町本町に生まる 郡立高島病院長永田志解理氏の四男なり
高島尋常高等小学校に学ぶ年少志を立てて東京陸軍地方幼年学校に入り進みて陸軍士官学校陸軍大学校
を卒ふ 天禀の優秀に加ふるに非凡の勉強を以てし各校の卒業毎に成績抜群にして恩賜賞を授与せらる
夙に上司の属望を受け官命に由つて渡欧する事三度 入りては陸軍省参謀本部教育総監部の諸要職に就
き 出でては歩兵第三連隊長第一旅団長たり 遂に陸軍軍政の中心軍務局長に補せらる
中将頭脳明晰識見高邁裁決流るるが如く思慮周到造詣深遠難局に処して苟も挙借を謬らず 最も独創企画に
秀で軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将の立案献策に係るもの少なからず 国軍の進展に寄与せる所
絶大なり 陸軍の至宝として永田の前に永田無く永田の後に永田無しと称せらる 多年意を大陸国策の研究に
注ぐ 満州事変以来の非常時局に際し其蘊蓄を傾け枢機に参画して処信に邁進せる間妖言累を及ぼし 昭和
十年八月十二日不慮の災禍に遭つて執務中局長室に斃る 享年五十二歳なり 中将の死は真に身命を君国
に処せるもの正に戦場の死と択ぶ所無し
因て同郷の有志協議地を此処にとし中将の胸像を建て 以て此の偉材の英姿を永遠に伝へんとす
昭和十三年十一月十三日 永田鉄山中将記念会
この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるも このたび故人を崇敬する有志により新た
に台石を築造原位置に復旧するを得たものである
昭和四十年四月十一日 永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会
更新日:2007/05/14