滋賀縣護國神社

滋賀県彦根市

 

 

 

父の像

平和を願う

戦争で幾百万という兵士が死んだ 兵士には父や母があり妻や子がいた

その子供達は父のいない家庭に育ち 父がほしいと何度か思って大人になった

そして自分達で父の像をつくった 異国で散った兵士も遺された家族も 願いは一つ平和であった

父の像に捧ぐ

おとうさん あなたに抱かれたことのない子が あなたの遺骨を抱いたとき .

おとうさん あなたの無言の帰還を迎へて あなたのきびしい声を聞いた 

おとうさん あなたの遺志を継いだ子が あなたの霊にあらためて誓う   .

おとうさん あなたの抱き続けた平和の祈りを あなたの子として祈り続ける

滋賀県遺族会青壮年部

 

母の像

碑文

祖国の危機に際し、多くの若者が戦場に赴いた。そして幾百万人もが戦場に散った。

残された家族は、深い悲しみに耐えながらも敗戦の中で様々な困難と闘い、家族を守り、国の復興に

努めた。とりわけ兵士の妻たちは、夫の無言の帰還の日から悲しみや孤独に耐え、唯一子供の成長

を頼りに母として必死に生きた。子供たちも、その母と父を誇りに、二度と戦争のない世界を目指し、

遺族として各種の活動を展開した。

滋賀県遺族会は創立六十周年を記念し、ここに平和への願いをこめて、「母の像」を

建立する。

平成十九年九月吉日  財団法人滋賀県遺族会 会長山田利治

 

第二十号掃海艇慰霊碑

第二十号掃海艇 戦闘詳報

第20号掃海艇は昭和二十年五月二日 海防艦男鹿が門司港から上海に向う途中 敵潜水艦の

魚雷攻撃をうけ沈没した情報に接し 同艦の遭難者を救助するため翌3日5時15分朝鮮木浦港

を出発 男鹿の沈没地点である黄海南部に向け航行中 同月五日二十時に通信連絡を行った後

同艇は消息不明となり その遭難地点は北緯三十三度五十六分 東経百二十二度四十九分附

近と認定せらる

同艇乗組員艇長海軍中佐田中三藏以下百七十五名壮烈なる戦死を遂ぐ

昭和五十二年五月五日建立  第二十号掃海艇 艇長海軍中佐 田中三藏 妻秀子

 

西部隊独立歩兵第十一大隊 北支沖縄戦没勇士慰霊碑

碑文

昭和十三年二月十日部隊編成於北支天津 同二十年六月二十日沖縄南部に於て玉砕

昭和四十五年三月  昔陽会建之

副碑

部隊は昭和十三年二月北支天津に於て編成され 北支山西省昔陽県に駐屯し 山西河南河北の各省に亘り

大行山系の各作戦また中原会戦等に参加 赫々たる戦果を挙げ太平洋戦争となるや部隊は昭和十九年沖縄

に転戦 米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末 部隊は突撃を敢行し全員玉砕す

茲に部隊の在籍生存者が相集り 今は亡き戦友の霊に対して心からその栄誉を賞え 偉功を永久に伝える

ため慰霊碑を建立したものであります

この碑の下には沖縄激戦地の石を持帰り奉祀してあります

独立歩兵第十一大隊 昔陽会

 

シベリア強制抑留者慰霊「平和の礎」

碑文

悲惨な第二次世界大戦は 日本のポツダム宣言受諾により 昭和二十年八月十五日を以って終結した

然るに旧ソ連は 協定を守る事なく六十余万人の日本将兵を酷寒のシベリア各地に連行抑留し 長期に

及ぶ過酷な重労働を強制した

飢えと寒さと生地獄の中 祖国日本への帰還の願い空しく 本県出身者四百余名は 遂に力尽きて無念

の死を遂げた

誠に痛恨の極みである

辛酸に耐え生還した私たちはこのことに深く想いを致すと共にその事実を後世に正しく伝え 且つ抑留死

没者の冥福と恒久の平和を祈念し 財団法人全国強制抑留者協会の助成並びに会員 遺族等の賛助を

得て ここにこの碑を建立する

平成十二年十一月吉日  滋賀県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会

 

滋賀県満蒙開拓物故者慰霊碑建立委員会 拓魂碑

碑文

顧みるに 満蒙開拓事業は 昭和7年より20ヵ年 百万戸移住計画に基づき  民族共和の理想実現と

日本民族の発展とをめざした当時の国策であった この要請にこたえて本県送出の44個団隊千八百余名

の開拓者たちは 現地の苛烈な気候風土を克服し あらゆる困苦欠乏に耐えながら営々と未墾の沃野を

拓き 着々その成果を挙げつつあった

然るに 昭和20年8月終戦によって その雄図は挫折したのみならず 異境で遭遇した開拓者の末路はあ

まりにも悲惨であった 戦火に追われ 混乱する治安のなかで 一家は離散し 母子相擁して命を絶つ者

逃避放浪の末生死不明の者 ひたすら帰国を夢みつつも遂に飢餓と病魔に斃れた者 四百余名を数え こ

の渦中に可憐な14・5歳の青少年義勇隊員もあたら青春を犠牲にしたのである

爾来二十幾星霜 辛うじて生還した拓友をはじめ 同志相計り 多くの賛同を得て 此の地に拓魂碑を建立

するに至った 悲運の肉親同胞を偲び 諸霊の冥福を祈願するとともに われわれもまたこの碑に集い祖国

永遠の平和と弥栄を冀うものである

昭和47年12月9日 滋賀県満蒙開拓物故者慰霊碑建立委員会

 

満州開拓青年義勇隊北島中隊 拓友碑

碑文

顧みるに昭和7年から仝十九年にかけて我国は満蒙の開拓を国策として日本各県から大陸移民を奨め 又満洲各地に

満洲青年義勇隊訓練所を設けて北満の守りを兼ね開拓部落建設に当らしめ 三年を勉学教練農事の訓練期間として

十五六歳の青少年を全国各県から続々其訓練所に入所せしめた


昭和十八年三重滋賀両県から集まった青少年二〇三名は 滋賀県甲西町針出身の北島光三を隊長として大志を抱い

て元満洲国北安省対店義勇隊に入所した 爾来三年炎熱の大平原に千里果ない銀世界に理想実現を目ざして青春の

情熱を傾けたのであったが 太平洋戦争は敗北し其雄図は空しく挫折した

昭和二十年九月満洲に進駐したソ連軍の命によって北安捕虜収容所に収容の憂目をみた


厳寒の冬くる頃出所を見たものの 乏しい糧を分け合ひ幾十日かを過した収容生活に体力の消耗甚しく 其上あらゆ

る強制労役に服する事一年有余 加えて混乱する治安は言語に絶し 五十一名の若い命が赤い夕日の荒野に悲しく

露と消えた


此碑は只管帰郷の夢を見つつ 今尚寂しく異国の土に眠る友と 且又漸くにして故国の土を踏んだが幸薄くして早く逝っ

た友の霊を慰める為に 此地に昭和四十四年九月建立した 墓石と礎石は隊員数二〇三個の郷土の石を我等が持寄

ったものである

毎年秋生存者一同が墓前に集まり 永眠する拓友の冥福を祈るものである

昭和48年9月 元満洲国北安省対店青年義勇隊北島中隊 三滋北義會

 

戦没 軍馬軍犬軍鳩慰霊碑

 

彦根傷痍軍人 祈平和之碑

 

天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念碑

 

 

 

靖國の祈り

更新日:2011/09/18