兵庫縣姫路護國神社

兵庫県姫路市

 

 

 

鉄五四五四部隊/比島散華

碑文

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)は 昭和十九年七月満州国三江省佳木斯に於て動員下令

翌八月同所を出発台湾防衛の任に就く 同年十二月比島作戦参加の為め高雄港を出発主力を以てルソ

ン島リンガエンに一部を以てマニラ及アパリに上陸す 途中主力の乗船せる乾端丸は敵潜水艦の攻撃を

受けて軣沈部隊長鍋島少将以下多数の戦友を失う 昭和二十年一月中部ルソン島ハレテ峠付近に集結

米軍迎撃の準備を整ふ同年二月優勢なる米軍は空陸呼応して我が陣地正面に対し攻撃を開始す 此処

に於て聯隊は第一大隊をして第一線部隊に対する補給を継続せしむると共に 第二大隊をして其の補給

任務を解除し之を歩兵部隊に改編し第一線陣地の守備に就かしむ 恰も我が第二大隊陣地正面は米軍

の主攻撃方向に当りたる為其の戦斗は惨烈を極め全員勇戦奮斗せるも戦況我に利あらず 大隊長以下

多大の犠牲者を出すに至れり かくの如くして此の方面に於て激戦を継続すること半年有余部隊は爾后

の作戦準備の為ビノンカシブを経てビナバガンに向ひ転進を開始せり 此の間凡そ二百粁人類未踏の山

岳地帯にして進まんとすれど道無く食はんとすれど糧なく 将兵の疲労困憊は極度に達し遂に力尽きて斃

るゝもの数を知らず かくして八月初めピナバガンに到着戦斗準備を完了す 此の時に於ける部隊の生存

者は百有余名なり昭和二十年九月十一日終戦を知る 戦後十有三年を経て昭和三十三年四月政府の手

により我等念願の比島方面遺骨収集が行はれ幸にしてこれが分骨を受く 此処に生存者同志相寄り護國

神社境内に石碑並に献木し亡き戦友の偉勲を讃え其の霊を弔う

昭和三十四年十月吉日

 

比島散華 輜(ほろぐるま)

 

鉄五四五四会 献木

 

姫路歩兵第百三十九聯隊 鎮魂碑

略史

昭和十三年六月、軍旗を拝受。北支に出征。鷺三九〇八部隊として河北省、山東省その他を転戦し、

数年にわたり、よく治安の大任を果す。昭和十九年、黄河を渡り京漢作戦に参加、梃進部隊として密県

登封、洛河々谷を進撃し、その武勲高く輝く。こえて昭和二十年、老河口作戦開始せらるるや、たちまち

内郷、西峡口に突入し、数倍の敵を阻止し、その武功抜群の奮戦により感状が上聞に達した。終戦後

八月二十四日軍旗を奉焼し、洛陽に集結。翌二十一年三月、同地出発、帰国、復員する。散華して祖国

に帰り得ない英霊一三五七柱あり。われら、鎮魂のため、永久平和を祈念して、この碑を建立する。

平成四年五月吉日

 

第十七師団 鎮魂

碑文

鎮魂第十七師団野砲兵第二十三聯隊は明治四十一年創立大正十四年廃隊昭和十三年再編同年七月

大陸に進出武漢攻畧・高瑞鎮・漢水・豫南・浙贛等各作戦に武勲を挙げ十八年装備を山砲に改め同年秋

呉淞出港台湾沖にて敵潜水艦の雷撃を受け聯隊長以下の枢軸を失ふもニューブリテン島ブーゲンビル島

に上陸 ツルブガスマタ・タラセヤ・タロキナの攻防戦に死闘し 時に利なく二十年八月終戦の令下り二十

一年五月名古屋にて解隊す 創立以來敵弾飢餓瘴癘に殪れた幾多戦友の英魂を鎮め武勲を千載に残す

ため我等戦友遺族相寄りこの神域に鎮魂碑を建立す

昭和五十七年五月三日  野砲兵第二十三聯隊戦友会

 

歩兵第八十一聯隊は支那事変酣の昭和十三年第十七師団隷下に編制八月軍旗を遠く長江山野に進め

宜昌・漢水・豫南・浙贛他数多作戦悉く捷ち馳騁千里武名華中に遍く 戦雲南東太平洋を蓋ふや十八年

秋敵雷撃に僚船轟沈の悲運に堪へ南溟の怒涛遙かニューブリテン島マーカス岬に奮迅御嘉賞を賜ふ 

士氣凛々祖国の興廃を賭しテブーゲンビル島タロキナ攻隊の死闘半は終戦の令下り無念軍旗を奉焼す

征戦七年殉国の勇士五千有余敵弾と飢餓瘴癘に遂に還らず 実に痛恨断腸の極 茲に我等碑を刻み

忠烈武勲を千載に垂れて英魂を鎮め邦家無窮の安寧を希ふや切なり

昭和五十七年五月三日  歩兵第八十一聯隊戦友会

 

句碑

碑文

征き逝きし 同胞迎う 里もみじ

清二郎

平成二十年 姫路護国神社創建七十年を記念すべく青門姫路俳句連盟三十五周年を機に

本句碑を建立した

平成十八年十月二十八日 青門姫路俳句連盟一同 俳誌「青門」

 

古絵葉書

兵庫縣姫路護國神社 絵葉書

 

姫路聾学校脇の公園

兵庫県姫路市

姫路歩兵第百三十九聯隊 あゝ三九 兵どもの庭の跡

 

軍馬の碑

碑文

迫四の友 集い来りて 白鷺乃地に立つ

 

靖國の祈り

更新日:2011/02/13