ラダ・ビノード・パール

राधाबिनोद पाल

法学教授・国際連合国際法委員会委員長

 

略歴

1886年 1月27日 インド・ベンガル州ノディア出身

1911年  月  日 カルカッタ大学理学部、法学部卒業

1923年  月  日 カルカッタ大学法学部教授

1924年  月  日 法学博士号を取得

1927年  月  日 インド政府法律顧問

1941年  月  日 カルカッタ高等裁判所判事

1944年  月  日 カルカッタ大学総長

1946年  月  日 極東軍事裁判インド代表判事

             日本人戦犯7人の全員無罪を主張

1952年  月  日 国際連合国際法委員会委員

1966年10月  日 勲一等瑞宝章受賞

1967年 1月10日 逝去(享年82才)

 

極東軍事裁判

パール判事は、この裁判が最初から日本を侵略国と決め付けていることに不快感を示した。そしてこの

裁判の本質は連合国側の政治目的を達成するために設置されたに過ぎず、日本の敗戦を被告達の侵

略行為によるものと裁く事によって、日本大衆を心理的に支配しようとしていると批判した。

さらに、検察側の掲げる日本の侵略行為の傍証を、歴史の偽造だとまで断言した。かつて欧米諸国がア

ジア諸国に対して行った行為こそ、まさに侵略そのものであると訴え、全被告を無罪だと主張した。

 

パール判事の判決を聞いて 殉難者が遺した歌

東條英機

百年の後の世かとぞ思いしに 今このふみを眼のあたりに見る

 

板垣征四郎

ふたとせにあまるさばきの庭のうち このひとふみを見るぞとうとき

すぐれたる人のふみ見て思うかな やみ夜を照らすともしびのごと

 

木村兵太郎

闇の夜を照らすひかりのふみ仰ぎ こころ安けく逝くぞうれ志き

 

その後のパール博士

1950年10月、パール博士は二度目の来日をされた。約1ヶ月間の滞在中に次の言葉を残されている。

 

「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。われわれはこの《法の真理》を奪い返さ

ねばならぬ。」

 

 「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判

において法の真理を蹂躙してしまったために《中立裁判》は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ

裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生

命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか。」

 

 「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金

日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とド

イツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそ

こには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろ

う筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」

 

「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるで

あろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任は

ニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れ

てはならない。」

 
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独

立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観と

いう歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。

日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい。」

 

「いまや英・米・仏・独など世界の法学者の間で、東京とニュルンベルクの軍事裁判が、果して正当か否かとい

う激しい論争や反省が展開されている。げんに英国法曹界の長老ロード・ハンキーは<パール判事の無罪論こ

そ正論である>として『戦犯裁判の錯誤』と題する著書まで出版している。しかるに直接の被害国であり、げん

に同胞が戦犯として牢獄に苦悶している日本においてこの重大な国際問題のソッポに向いているのはどうした

ことか。なぜ進んでこの論争に加わらないのか。なぜ堂々と国際正義を樹立しようとしないのか・・・」

 

1966年10月(死去の前年)、パール博士は四度目の来日をされ、天皇陛下から勲一等瑞宝章を授与された。

 

 

靖國神社

東京都千代田区

パール博士顕彰碑

碑文

時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には

その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに

そのところを変えることを要求するであろう

 

京都霊山護國神社

京都府京都市東山区

  

パール博士顕彰碑

碑文

当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、十九四六年、東京に於いて開廷された

「極東軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士

は、法の心理と、研鑚探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦

国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判

決されたのであります。

今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。

パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本

国民を激励されました。インド独立五十年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本

国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希わ

れた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。

 

 

富山縣護國神社

富山県富山市

パール判事の碑

碑文

不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも著しい

 

本照寺

広島県広島市中区

パール博士 大亜細亜悲願之碑

経緯

昭和25年11月、広島を訪れたパール博士は広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に刻まれた碑文

「過ちは繰り返しませぬ」を見て驚きかつ激怒した

碑文の責任者である広島市長と対談を行うなどした後、本照寺の住職・筧 義章に請われ一編の詩を執筆、

その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれた。

碑文

激動し 変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が万斛の想いを抱いて死んでいった

しかし大地深く打ちこまれた悲願は消えない

抑圧されたアジア解放のため その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸あれ

ああ 真理よ!

あなたはわが心の中にある その啓示に従って われは進む

 

パール下中記念館

神奈川県足柄下郡箱根町

パール博士顕彰

碑文

すべてのものをこえて 人間こそは真実である このうえのものはない

 

軍事裁判

更新日:2007/04/22