松代大本営予定地
皇居の防空対策
昭和10年頃、皇居に鋼鉄扉の防空室=地下金庫室が作られたが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、
宮内省工匠寮の設計で吹上御所近くに新たに防空壕(後に御文庫と命名)を作る事になり昭和17年12月に完成。
建坪1,320u、地上1階・地下2階の3階建てで、屋根は1トン爆弾に耐えるようコンクリート1m・砂1m・さらにコン
クリート1mの計3mの厚さであった。天皇陛下は午前中は表御座所(御政務室)・午後は御文庫で過ごすのが日課
であった。
戦況が悪化した昭和20年6月頃、50トン爆弾にも耐えるよう設計された頑丈な御文庫附属室が陸軍工兵部によっ
て建設された。この地下壕はのちの終戦時の二度の御前会議の場所となった。
松代大本営
東京は防衛機能が弱いと考えられていた事から、大本営移動計画は陸軍省の井田正孝少佐が昭和19年1月に発
案し同年5月に松代が選定された。
サイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になり、昭和19年7月の東條内閣最後の閣議で、予てから調
査されていた長野松代への皇居・大本営・その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
象山地下壕に政府機関・日本放送協会・中央電話局、舞鶴山地下壕に皇居・大本営、皆神山地下壕に備蓄庫が計
画されたが、終戦により進捗度75%の段階で工事は中止された。
昭和天皇は神器を奉じて帝都を動かずとの考えが有り、皇太子明仁親王(今上天皇)・義宮(常陸宮)・皇女以外は
東京から疎開する気は無かったと言われている。しかし内大臣・木戸幸一の日記には、信州に行くことの具体化を相
談している記述がある。
なお松代大本営は主に陸軍において計画されたが、終戦直前になって連合軍が南九州に上陸するとの想定のもと
に、より作戦が取りやすいという理由から
海軍により立てられ、実際に工事が進められていた。
松代の選定理由
1.本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場がある。 .
2.固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。 .
3.山に囲まれていて、地下工事をするのには十分な面積を持ち、広い平野がある。
4.長野県は労働力が豊か。 .
5.長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。 .
6.信州は神州に通じ、品格もある。 .
尚、天皇皇后両陛下の御座所予定地には、日本最大規模の気象庁・精密地震観測室が設置され、松代群発地震で
貴重なデータを採取するなど地震観測研究の中心的組織となっている。
気象庁・精密地震観測室
長野県長野市(松代地区)
(左下から) 宮内庁 皇后陛下御座所 天皇陛下御座所
皇后陛下御座所 天皇陛下御座所
地下壕入口
更新日:2008/09/19