満蒙開拓団

殉難者拓魂 四国

 

眉山

徳島県徳島市

拓魂碑

碑文

ふるさと ここまる 拓友の みたま安かれ 四季りに

この地に合祀する諸霊は戦乱頓に激しさを加える昭和十二年より世界大戦と化した昭和十九年に至る間

当時日本の国策に添い県内各地より要請をうけた弱冠十四才より十九才の少年たちが満蒙開拓建設の 要

務を託されて満蒙開拓義勇軍として彼の地に使ひし 自ら北辺の防人と信じ猛暑を凌ぎ 酷寒に耐え

病魔と戦い 櫛風沐雨 常に身を危険に曝しながら ひたすら祖国の勝利を念じ日本政府の期待と民族

の信頼を一身にうけ苦難の奮闘を続けた

しかれども戦い遂いに利あらず異国の地で悲運のうちに散華した開拓の戦士である

大戦が終り二十有余年を閲みし既に戦禍の爪痕何処にもなく世は高度経済成長に酔い 人はみな太平に

慣れ 戦時中のことどもは夢の如く遙か忘却の彼方に消え去らんとするも 過ぎにし日を諸霊とともに

同歓共苦した生存同志の心の傷は いつまでも癒ゆることなく充されぬ想いのまま荏苒日を重ねて来た

このたび生存同志相計り諸霊を慰め その功績を永劫に称えんがため安眠の地を故里のこの地に求め

ひろく芳財の喜捨を得て 拓魂碑を建立す 冀同志諸霊来たり瞑されよ

昭和四十五年九月二十三日   満蒙開拓義勇軍徳島県出身者一同建之

 

田村神社

香川県高松市

香川県海外開拓者殉難之碑

碑文

昭和拾弐年、果てしない満蒙の荒野において、一万有余名の人々が開拓と食糧増産に懸命に取り組んで

いました。開拓団五千九百余名、義勇隊二千七百余名、報国農場隊一千百余名、花嫁女塾二百余名が、

十八の出身母体から集結したこの人たちは、零下何十度の厳寒に耐えながら、海外雄飛の夢を抱き日本

の発展に尽くす熱意に燃えて、新しい村造り国造りに励んでいました。村を襲撃されるなど幾多の苦難

の末、ようやく安住できるようになったのも束の間、昭和十六年十二月八日、突如大東亜戦争が勃発し

戦火が日増しに激烈さを増す中で若者は次々と召集され開拓地は戦場となりました。残された女性 老

人 子供は相次ぐ外敵の襲来にさらされ、各地に離散を余儀なくされたのでした。

こうした中、昭和二十年八月十五日に終戦を迎えました。寒さや飢えとたたかいながら、救いを求めて

一歩でも母国に近づこうとさまよう中で、栄養失調や病気に苦しみ、母を子を友を失い一家が全滅し、

ついには足手まといになるまいと自ら命を絶つ者が出るなど、悲惨な状態が続きました。生きて祖国日

本の土を踏んだ者は一万余名のうち約三千八百名にすぎませんでした。これはひとり満蒙開拓団だけの

ことではありません。朝鮮、台湾、樺太、南方方面、さらに遠くは南米、北米等でも、開拓者の苦難と

辛苦は同様です。無事帰国できたものはまだしも幸いで、志なかばにしておわった人々の無念の思いは

今もなお、その地に残っているに違いありません。終戦後三十余年を経た今、往時をしのんでこれら海

外開拓に携わった人々の御魂を祀るため、殉難の碑を建ててその功績を誌すとともにご冥福を祈念する

ものであります。

昭和五十六年三月吉日 建立者名 香川県海外開拓者殉難之碑建設会

 

香川県海外開拓者殉難之碑

 

乃木神社

香川県善通寺市

満蒙開拓青少年義勇隊嫩江訓練所 川原中隊 拓魂

碑文

ぼくは満州へ行きます ぼくは大陸の土となります

昭和十八年の秋 郷土香川をあとに 波高き玄界灘を渡って行った少年たちがいた

その数 百八十名

彼らはひたすら 五族協和と王道楽土建設に若き血汐を燃やした

昭和二十年八月十五日未明 戦争という極限の中で 彼らの多くが殉難し 大陸の土と化した

二十年の歳月は流れた 彼らの前には 一輪の花もない

少年たちの名は 第六次満蒙開拓青少年義勇軍 香川中隊

過ぎし日 広野の露を共に踏み 赤い夕陽の嫩江で 日の丸と五色の旗のもと

青春の火花を散らした 泉下の拓友の霊魂 とこしえに安らかなれ

昭和五十二年三月六日  満蒙開拓青少年義勇隊嫩江訓練所 川原中隊生存者一同 建之

 

本山寺

香川県三豊郡豊中町

満州開拓慰霊堂

拓魂堂之碑

昭和初年の農村疲弊打開のために元満州国へ国策移民の途が開かれた 時に三豊郡では昭和十五年四月か

ら満州牡丹江省五河林の地へ 原数栄氏を団長とした五河林開拓団と総称する三豊・豊田開拓団 及び香

川義勇隊の三団千百余名を始め 満州各地に多数の農家を送出した これらの開拓団は新しい村造りに精

励し民族協和の理想郷を築きつつあった然るに昭和二十年八月十二日ソ連軍の侵攻によって開拓地を追わ

れ 満州の荒野を放浪すること一年有半悲惨な悪疫と迫害に遭い 五河林開拓団では三百有余の生命が消

え去った

他の開拓団も亦同じ悲運に晒された 以来三十三年未だに満州に眠る五河林並びに三豊地区出身開拓犠牲

者の霊を悼み 此処に有志元団員等の寄進に依り一宇の佛堂を建立してその冥福と永遠の平和を祈念す

るものである 合掌

昭和五十二年九月彼岸

 

愛媛縣護國神社

愛媛県松山市

拓魂

碑文

国のため旧満洲へ渡り再び祖国の土を踏むことなく散華されし愛媛の開拓者の御霊よ永遠に安らかに

昭和四十八年  満洲開拓者殉難碑建設委員会建之

 

高知縣護國神社

高知県高知市

満蒙開拓民殉難之碑

解説

昭和8年、満蒙開拓のため、高知県からも6,108人が故郷を後に満州へと移住した。人々は苦難に耐え

ながらも不毛の荒野に理想郷を建設するため必死だった。しかし、敗戦の混乱により家族や友人とは生別や

死別するなど、悲惨の限りをつくし、約2千人余りの人が犠牲となった。無事生還した人々が開拓民自興会

を組織し、日本に帰れぬまま亡くなった同胞を偲び、その偉業顕彰と慰霊のために建立された。

昭和31年4月15日建立

 

開拓神社

満蒙開拓神社の由来

当神社の祭神は、昭和七年、日本国政府の重大国策事業として満州建国を確立せんとし、満蒙開拓移民を

二十ヵ年で五百万人の入植計画を立て、敗戦の昭和二十年に入植者は三十万人に達した。本県は市町村農

民を母体とする分村計画を立て、三十四団、六千有余人が満州に送り出された。

しかるに太平洋戦争が勃発し、昭和二十年八月九日未明、ソ連軍は我国との不可侵条約を一方的に破棄し

大軍を終結して侵攻を開始し、全万週は大混乱となった。既に開拓団青壮年層の多くは軍に動員され、残

る老幼婦女子はソ連軍の暴挙や現地住民の暴動に逃げまどった。青少年義勇隊は、未踏の山野に身を挺し

て犠牲を惜しまず、救援に奔走するも今や如何ともなし難く、ソ連に連行される者や自決する者少なから

ず、修羅の巷と化した各団は、ソ連軍や暴民から逃れんと蟻道にも等しき隊伍を組み、道なき山野に迷い

野宿や、日本人の廃校校舎跡に露命をつなぎ、生地獄を彷徨して寒さと飢餓や病魔に襲われ、無念にも本

県出身二千有余名の者が尊い生命を失った。ここにその殉難犠牲者を祭るものである。

かかる史上かつて類なき殉難犠牲者を犬死させてはならぬと昭和三十一年、生還者一同相計り、この縁の

地に社殿と履歴を建立し、毎年祭祀を続けること四十回、殉難の年から数えて五十年の今日を記念し、再

びかかる悲劇が起らぬよう明日の平和を祈り、玉垣に同志の在りし日の団名を刻み、御霊安らけく永遠に

守護せんとするものである。

平成七年四月十五日  満蒙開拓神社奉賛会

 

開拓神社 団碑

 

昭和十七年第五次満蒙開拓青年義勇隊 齋藤中隊

 

筆山

高知県高知市

中国残留婦人共同墓

 

江川崎地区

高知県四万十市

満州分村殉難者之碑

碑文

大東亜戦争は日本の一大悲劇であったが就中最も哀れなのは實に満州開拓団であった 軍部推進の大陸進

出国策下に生れた満州開拓は国家発展の礎と頑に信じさせられた吾江川ア分村は 此の国策の波に乗せら

れ県及び大東亜省の斡旋激励の下 先遣隊は村民の歓呼に送られて昭和十七年三月廿六日満州吉林省樺甸

県大清溝の地に入植した 斯くて一次ニ次と続々本隊が入植し戸数一一五 団員四二七 出生三一を加え

た大団体となり 金石を熔す炎熱と零下四十度の酷寒に耐え団員一丸となり廣野に開拓の鍬を打振った 

鉄道と隔る百粁 物資は窮乏 壮者は次々と応召苦難増大の中にも老幼婦女一致魂身の勇を振って昭和廿

年度には作付反別二六五町歩豊饒の秋を楽しんだのも束の間 同年八月十五日日本の無条件降伏は多年の

辛苦を一朝に放棄するの運命となった 涙を呑んで脱出するや数次の暴民の襲撃に遭い命を落す者続出 

恐怖の途を辿り漸く撫順に避難したが襲い来る酷寒に栄養失調の躰は抗すべくもなく 故国の姿を瞼に描

きながら哀れにも昨日は三人今日は四人と次々に此の世を去って逝った 抑留一年後故郷の土を踏んだ者

僅かに八十余名 犠牲者は団長柴幸太郎氏以下實に三二九名 今に至るも生死 不明二名 茲に大要を録し

て犠牲者の霊に捧げる

昭和三十年六月建之  江川ア村長 芝 和  元大清溝国民学校長 稲田 稔 撰

 

満蒙開拓団

更新日:2015/03/29