満蒙開拓団

殉難者拓魂 近畿

 

滋賀縣護國神社

滋賀県彦根市

滋賀県満蒙開拓物故者慰霊碑建立委員会 拓魂碑

碑文

顧みるに 満蒙開拓事業は 昭和7年より20ヵ年 百万戸移住計画に基づき  民族共和の理想実現と

日本民族の発展とをめざした当時の国策であった この要請にこたえて本県送出の44個団隊千八百余名

の開拓者たちは 現地の苛烈な気候風土を克服し あらゆる困苦欠乏に耐えながら営々と未墾の沃野を

拓き 着々その成果を挙げつつあった

然るに 昭和20年8月終戦によって その雄図は挫折したのみならず 異境で遭遇した開拓者の末路はあ

まりにも悲惨であった 戦火に追われ 混乱する治安のなかで 一家は離散し 母子相擁して命を絶つ者

逃避放浪の末生死不明の者 ひたすら帰国を夢みつつも遂に飢餓と病魔に斃れた者 四百余名を数え こ

の渦中に可憐な14・5歳の青少年義勇隊員もあたら青春を犠牲にしたのである

爾来二十幾星霜 辛うじて生還した拓友をはじめ 同志相計り 多くの賛同を得て 此の地に拓魂碑を建立

するに至った 悲運の肉親同胞を偲び 諸霊の冥福を祈願するとともに われわれもまたこの碑に集い祖国

永遠の平和と弥栄を冀うものである

昭和47年12月9日 滋賀県満蒙開拓物故者慰霊碑建立委員会

 

滋賀県関係満洲開拓団名

.      昭和 7年 磨刃石拓振開拓団    牡丹江省

.      昭和 8年 青根村開拓団      牡丹江省

.      昭和11年 開原城子河開拓団    吉林省

.            黒台村開拓団      東安省

.      昭和13年 高根義勇隊開拓団    北安省

.            七道嶺義勇隊開拓団   龍江省

.            聚和義勇隊開拓団    龍江省

.            龍爪開拓団       東安省

.            日高義勇隊開拓団    吉林省

.            伯根義勇隊開拓団    北安省

.            東光村開拓団      東安省

.            黒石屯開拓団      吉林省

.            万竜義勇隊開拓団    東安省

.            東海村開拓団      三江省

.      昭和14年 図南義勇隊開拓団    北安省

.            八栄義勇隊開拓団    北安省

.            青溝子開拓団      吉林省

.            豊秋義勇隊開拓団    興安東省

.            慶山義勇隊開拓団    北安省

.            紫苑義勇隊開拓団    龍江省

.            梧桐義勇隊開拓団    三江省

.            大南山義勇隊開拓団   北安省

.      昭和15年 北星義勇隊開拓団    東安省

.            大蒙義勇隊開拓団    興安南省

.            大日紀義勇隊開拓団   黒河省

.            檜山義勇隊開拓団    三江省

.            清渓義勇隊開拓団    東安省

.            瑞代義勇隊開拓団    浜江省

.            大栄義勇隊開拓団    黒河省

.            伊漢通農工開拓団    三江省

.            大黒河義勇隊開拓団   黒河省

.      昭和16年 小波義勇隊開拓団    間島省

.            葵義勇隊開拓団     黒河省

.            満宝義勇隊開拓団    興安南省

.      昭和17年 三道沖河義勇隊開拓団  浜江省

.            鳳翔義勇隊開拓団    三江省

.            敦化宇檢開拓団     吉林省

.            廟嶺京都開拓団     吉林省

.            凌雲義勇隊開拓団    東安省

.            東寧報国農場勤労奉仕隊 牡丹江省

.      昭和18年 天理村集合開拓団    浜江省

.            信楽窯業開拓団     吉林省

.            孫呉農工開拓団     吉林省

.            北島中隊        對店訓練所

.            東寧報国農場勤労奉仕隊 牡丹江省

.      昭和19年 甲賀郷分村開拓団    間島省

.            琿春報国農場勤労奉仕隊 間島省

.      昭和20年 琿春報国農場勤労奉仕隊 間島省

.            大塚中隊        一面波訓練所

.            東寧報国農場勤労奉仕隊 牡丹江省

 

満州開拓青年義勇隊北島中隊 拓友碑

碑文

顧みるに昭和7年から仝十九年にかけて我国は満蒙の開拓を国策として日本各県から大陸移民を奨め 又満洲各地に

満洲青年義勇隊訓練所を設けて北満の守りを兼ね開拓部落建設に当らしめ 三年を勉学教練農事の訓練期間として

十五六歳の青少年を全国各県から続々其訓練所に入所せしめた


昭和十八年三重滋賀両県から集まった青少年二〇三名は 滋賀県甲西町針出身の北島光三を隊長として大志を抱い

て元満洲国北安省対店義勇隊に入所した 爾来三年炎熱の大平原に千里果ない銀世界に理想実現を目ざして青春の

情熱を傾けたのであったが 太平洋戦争は敗北し其雄図は空しく挫折した

昭和二十年九月満洲に進駐したソ連軍の命によって北安捕虜収容所に収容の憂目をみた


厳寒の冬くる頃出所を見たものの 乏しい糧を分け合ひ幾十日かを過した収容生活に体力の消耗甚しく 其上あらゆ

る強制労役に服する事一年有余 加えて混乱する治安は言語に絶し 五十一名の若い命が赤い夕日の荒野に悲しく

露と消えた


此碑は只管帰郷の夢を見つつ 今尚寂しく異国の土に眠る友と 且又漸くにして故国の土を踏んだが幸薄くして早く逝っ

た友の霊を慰める為に 此地に昭和四十四年九月建立した 墓石と礎石は隊員数二〇三個の郷土の石を我等が持寄

ったものである

毎年秋生存者一同が墓前に集まり 永眠する拓友の冥福を祈るものである

昭和48年9月 元満洲国北安省対店青年義勇隊北島中隊 三滋北義會

 

京都霊山護國神社

京都府京都市東山区

満洲開拓青年義勇隊碑

由来

この碑は京都府から送出された2千名の満洲開拓青年義勇隊(内地では満蒙開拓青少年義勇軍と呼ぶ)の事績を

顕彰し殉難隊員慰霊のため建立するものである。

我が國の生命線と言われた満洲の開拓は日本民族発展の重要國策として推進され、その中核となったのがこの

義勇隊である。

隊員は歳ようやく14、5才にして家郷を離れ辺境に新しい村づくりを志し、大陸に鍬を振い銃を執って食糧増産と

北辺鎮護に挺身したのである。

しかるに昭和20年8月 敗戰によって建設の夢破れ、戰乱の大陸を砲火に追われ飢えと病の死の避難行となり

5百名の隊員は夏草の下、凍土の上に斃れて未だ帰らず戰後25年経たのである。

かつて大陸開拓に寝食を共にした同志拓友相はかり各方面の協力を得て、靖國の神となり護國神社に合祀された

霊山の聖地を選び拓魂安らかに鎮まり、永遠に祖國の平和と繁栄を守り給えと祈るものである。

 

京都府送出満洲開拓青年義勇隊

.        昭和13年 混成京都義勇隊開拓団  日高、依吉美、大和鎮

.        昭和14年             寛溝、図南、八栄、五花、朝日、慶山、龍湖、三道冲河、晨明

.        昭和15年             大黒河、大日向、万宝、昭國

.        昭和16年 第一次京都芦田中隊   大仙

.        昭和17年 第二次京都前原中隊   大崗

.        昭和18年 第三次京都大槻中隊   勃利

.        昭和19年 第四次京都藤田中隊   大石頭

.        昭和20年 第五次京都中村中隊   勃利

 

仏舎利苑京都霊園

京都府京都市西京区

元満蒙開拓青少年義勇隊 第五次京都中隊 義勇魂

碑文

昭和二十年五月六日 満蒙開拓青少年義勇隊第五次京都中隊 中村中隊長以下二百余名 郷土の希望を

担い勇躍満州に渡る 五月十四日東満勃利訓練所入所 鍬を奮い戦時訓練に明け暮れ安き日なし 八月

九日ソ連参戦 満州全土戦場と化し加えて中隊幹部応召 防衛召集により頼る人なき中隊となる 南北

より米ソ進撃激しく昭和二十年八月十五日遂に終戦の大詔下る 幾歳月血して培われし満蒙の沃野は一

瞬日本国民の逃げ惑う坩堝と化し我が中隊も例外ならず 広野に彷徨う子羊ごとくその痛ましきこと筆

舌に尽し難し 戦死せる者 伝染病に斃れし者 酷寒にて凍死せる者 中隊長初め百名に達し 未だ消

息不明の者あり 危うく内地に辿りつきたる者百十余名なり 思えば祖国の為とは云え十五六歳の年若

き者達 満蒙の奥地に渡り朝夕母を慕い夢に故郷の山河を見るはこれ人情の常なり かかる者達の内戦

争の犠牲となり望郷の念空しく異国の土と化す これ思うに偲びざるものあり 嗚呼天なる哉命なる哉

ここに九死に一生を得たる拓友相謀り再び還らざる亡き君達の為 手向け心にこの碑を建て御遺族方々

の心の縁となる事を願うなり 在天の英霊よ安らかに眠れ

昭和四十四年四月六日建之  満蒙開拓青少年義勇隊第五次京都中隊 生存者有志一同

 

福知山城

京都府福知山市

満州開拓顕彰碑

説明板

この顕彰碑は、昭和十年代の国策でありました満州国開拓政策に呼応して福天地方より参加した開拓農民達が

中国大陸の旧満州に新しい大地に、新しい村を創りつつあったことを後世に伝えようと願って建立したものです。

昭和十五年に策定された官民一体で推進された文郷計画の「満州天田郷建設」は郷土史上始めての画期的な

大陸集団移住の大事業でありました。

私達はこの計画に参加し、満州国三江省依蘭県(現在の中華人民共和国黒龍江省依蘭県)において、明るく希

望に溢れた農村を着々と建設しつつありました。

ところが昭和二十八年八月ソ連の参戦によりこの地も戦場となり、その結果、三一一名の開拓団員並びに家族

の内死亡者一四五名、残留者一六名、行方不明者二四名、の犠牲者を出し、生還者僅か一二六名という悲劇

的な終わりをつげました。

しかし、当時の満州国建設の大陸政策の下で、狭益な郷土農村の開放を希い、北満の広野に新しい理想農村

を建国しようとし

た純粋な愛国心と、毅然と大陸の大地に挑んだ逞しい開拓精神に偽りなく、この事蹟は郷土史の一頁として明記

すべきと信じ、この碑を建立したものであります。

なお「拓魂」の題字は郷土出身の元総理大臣 芦田均先生の揮毫であり、碑文は成美学苑創立者 西垣完先生

の撰文によるものであります。

昭和六十二年四月三日  天田拓親会

 

一心寺

大阪府大阪市天王寺区

満州開拓物故者の碑

由来

この碑には満蒙の昿野で無惨にも散った八万余人の満州開拓者とその関係者の御霊が合祀されています。

昭和七年に始められた満州開拓事業は現在の中華人民共和国東北地区に五族協和の王道楽土創建を目的として、

広大な沃野を開拓し、食料の増産と北の護りに備える為、当時の重要国策として推進された大規模な農業開発事業を

完遂するために行われました。

大阪府においても、官民一致の勧奨により、府、市の転業開拓団や満蒙開拓青少年義勇軍をはじめ、その他あわせて

四千六百人が満州の地に送り出されました。

昭和二十年八月十五日、祖国日本の敗戦とともに満州国は崩壊し、世界に比類なき王道楽土の建設は夢と消え失せ

斃れた者八万人余、うち本府出身者は千六百余に及び、実に世界開拓史上、例のない悲惨な結果を遂げました。

幸いに一命を得て生還した我等は、直ちに大阪府開拓自興会を組織して再起を誓うとともに、昭和二十六年九月、七

回忌を期して、元農林大臣石黒忠篤氏に揮毫をお願いし、「満州開拓物故者之碑」を一心寺に建立いたしました。

当時は連合国軍に占領下とのこととて、これらの建碑は非常にむずかしい時でしたが、当寺住職前田聽瑞師の一方な

らぬご理解と大阪府引揚開拓民援護会のご協力をいただいて出来たのであります。

我等は今ここに異郷の昿野で悲惨な最期を遂げられた本府関係物故者の氏名を本碑の下に奉納し、そのご冥福を永

久に祈るとともに、祖国と民族のために身命を捧げられた。満蒙開拓団と満蒙青少年義勇軍の業績を顕彰し、併せて

人類永遠の平和を祈念するものであります。

昭和五十五年九月  社会福祉法人大阪自興会 一心寺五十九世真誉恭行 書

 

水間寺

大阪府貝塚市

白衣観音

由来

去る一九四五年(昭和二十年)夏、我が国未曾有の敗戦により、旧満州(現中国東北部)に侵攻せる

ソ連軍と現地一部暴徒による残虐な行為により死亡及び餓死されし開拓民とその家族(主として女子

子供)の霊を祭る為、中国産大理石の観音像を建立し、犠牲者の平穏を祈り、永遠の平和を願うもの

である

一九九一年(平成三年)六月建立  施主 社会福祉法人大阪自興会、大阪府開拓民自興会

 

奈良縣護國神社

奈良県奈良市

奈良県拓友会 拓魂

碑文

この碑は 奈良県送出満洲開拓犠牲者の偉業を讃えその霊を慰めるため広く県民の参加を得て建てたのである

満洲事変後国策の根幹として満洲政策の重要な基盤をなしたのが満洲開拓で 本県からも満洲開拓青少年義勇

軍に 開拓団に 報国農場隊に 約3千数百名が渡満した 右手に鍬左手に銃度々の匪襲を退けて開拓に国境

警備に或は軍の協力部隊として奉公に専念した

然し 終戦は我々開拓者には特に残酷の極みを体験させた  無一物の逃避行 衣食なく医薬なく次々に斃れた 

凍死した 隊員は自決した 捕虜で死んだ その数千2百名 開拓関係の諸問題は未解決のまま今尚迎えられる

事なく酷寒の異境に居る 我々も肉親も忘れることは出来ない

止むに止まれぬ同志は 兄等を迎える安らぎの場として最良の地を選んだ どうぞ還って永眠されよ 我々は衷心

より感謝を捧げその功を永久に残したい 真の平和の守護神となられんことを

昭和47年11月吉日建立 奈良県拓友会

 

奈良県送出開拓団

第10次 十津川開拓団

第11次 大塔開拓団 . 

第12次 芳野開拓団 . 

第12次 天理村開拓団

第1次  汪清報国農場隊

第2次  汪清報国農場隊

十津川報国農場隊   . 

 

奈良県送出義勇隊

第1次  混成中隊  .

第2次  木場中隊  .

第2次  兵藤中隊  .

河野中隊       .

第4次  加藤中隊  .

第5次  甲元中隊  .

第6次  中西中隊  .

第7次  石畝中隊  .

 

満州天理村生琉里

奈良県奈良市

満州天理村一宇大和開拓団拓友之碑

碑文

天理教青年会事業にて大東亜戦争の最中 昭和十八年三月より大天理村の建設を夢に渡満 昭和二十年八月終戦となるや

ソ連兵や匪賊の犠牲 飢と病気に倒れ母国を夢に見つつ大陸に眠る拓友の霊を慰め永遠に祀る

昭和五十三年四月吉日建立

 

大塔郷土館

奈良県吉野郡大塔村

満州大塔開拓団犠牲者慰霊碑

碑文

仰々元満州大塔開拓団員は 日満提携 五族協和の国是に則り 本村の要請に応え昭和十七年

当時助役梅本国義氏を団長に団員二八七名と共に勇躍渡満 濱江省延壽県に分村し沃野開拓

楽土建設に挺身中 昭和二十年八月大東亜戦争の敗戦に因り現地の情勢は頗に悪化 治安極度

に乱れ匪賊の来襲相次ぎ雄図は挫折 婦女子病人等元より避難生還の方途なく 自ら涙して命脈

を絶ち 或は生還帰国を希う者と雖も■占領下にありて如何ともなし難く俘虜として■所を転々の果

遂には飢餓病魔に遥か祖国の故山を慕ひつつ 哀れ広野の瀝に斃れ逝きたり 未だ還らず生死不

明の者十数名 九死に一生を得て生還せるもの団長以下六十一名に過ぎず

嗚呼 国策犠牲者として民族哀史の一夏を綴らんか 人生最大の悲惨にしてい痛恨極まりなし 茲

に篤く其の霊を弔い冥福を祈念せんがため (元団長)村議会議長梅本国義氏の発議により村議会

の協賛を経 この碑を建立するものなり

昭和二十八年五月二十九日  大塔村長 中田寛孝

 

十津川護國神社

 奈良県吉野郡十津川村

満州開拓犠牲者慰霊之碑

碑文

山岳重畳として耕すべき田畑の少ないこの村が国策に則り 昭和十五年五月 紀元二千六百年記念

事業として満州十津川村 建設要綱を策定した満州分村計画は 古より一朝事あるとき進んで国難に

殉ずる気風を尊しとした村民の意気を表すものであった 斯くして村は十九年までに百十戸 三百三

十三名の開拓団員とその家族を送り出したが 戦況は悪化し日本の敗戦と二十年八月十七日ソ連軍

の侵攻により 戦場に赴いた五十八名の団員の消息も知れぬまま 第二の故郷と定め軌道に乗りつ

つあった思い出多い開拓農場を放棄せざるを得なくなり 団員家族と同年五月に渡満した報国農場隊

員は望郷の思いを込めて呼び親しんだ玉置山に名残をおしみつつ農場を退避した 省みればこの日

が三百三十五名の悲劇の始まりであった 酷寒零下三十度の北満でソ連将兵の軍靴の音に脅える

収容所生活 飢えと寒さに痩せ衰えた体に重労働を強いられ終に病に倒れた人々 既に物言わぬ母

の乳房に縋ったまま息絶えた幼子 恋しい父母の名を呼びつつ冷たい床の上で息を引き取った少年

や 男装のまま事切れた少女達など その最期の悲惨なる様はてずれも聞く者に断腸の思いをせし

むるものがある

終戦後既に五十年 改めて満州開拓団の悲劇に思いを致し 犠牲者の霊を悼み ここにその名を刻し

て永遠に語り継がんとするものである 願くは二百四十一名の霊よ 此処に帰り安らかに眠られんこと

を祈る

平成八年十二月吉日  十津川村長 野尻忠正

 

和歌山縣護國神社

和歌山県和歌山市

和歌山県拓友会 満蒙開拓青少年義勇軍顕彰碑

碑文

昭和12年11月30日満洲建國の一翼を担う平和部隊として青少年義勇軍を訓練送出することが國策として決定せられ

昭和20年迄に総数8万6千有余名が送出された 之等15、6才の青少年達は義勇軍綱領「我等義勇軍は天祖の宏謨

を奉し心を一にして追進し身を満洲建國の聖業に捧げ紳明に誓って天皇陛下の大御心に副ひ奉らんことを期す」を遵奉

してひたすら心身をかため世界青史に燦として輝く基礎を着々かためつゝあった秋予期しない終戦によって世紀の偉業

は屯座し言語に絶した犠牲は永久の礎石として現地に残ったのである

わが和歌山県選出の義勇軍千5百有余も此の聖業に参加し自ら刻んだたくましい拓魂は今新しい意気と力となって生き

ている

茲に同志相計らい顕彰碑を建て後世に伝えるものである

昭和38年10月12日 和歌山県選出隊員一同土の戦士として大陸に渡り第二の故郷建設と北辺鎮護の任務を遂行

中 不幸にして若い命を国に捧げた亡き拓友のみ魂永久に安らかに

和歌山県拓友会 昭和38年10月12日建碑

 

高野山 奥の院

和歌山県伊都郡高野町

満州高野開拓団犠牲者之碑

碑文

昭和十六年二月十一日以来 旧満州国吉林省敦化県宮地村地区に 第十次開拓団として参加

昭和二十年八月十五日現地で終戦をむかえたあと 内地引揚げに至るまでの間に いたまし

くも犠牲となられた団員及びその家族の方々の御霊を祀り 今後会員物故者の霊をも霊標に

合祀して 永遠の平和を祈るものである

昭和二十九年三月二十一日 建立   昭和五十四年九月 灯篭 霊標 墓誌 建立

高野町第十次高野開拓団塔拉站会

 

かつて大東亜に雄飛した国際運輸株式会社 華北運輸股份有限公司 蒙古運輸股份有限公司の親愛なる社有の霊ここにねむる

碑文

大正十二年より昭和二十年に至る間 満州 蒙古 華北 華中 華南 南海 朝鮮 日本などの内外各地に於いて

民族協和 楽土建設の理念に遵い 陸海運送の任務に挺身した諸民族の協同事績を顕彰し 創業以来今日まで物

故した社友の霊を合祀して これを後世に伝え 吾等も亦将来ここに集い往時の雄心と苦楽を語り合う 永世極楽の

浄土を具現することを期して この碑を建つ

昭和四十五年八月十五日  国際運輸株式会社 華北運輸股份有限公司 蒙古運輸股份有限公司 社友

 

慈眼堂河野宗寛老師歌碑

碑文

親のなき子らをともない 荒海をわたり帰らん この荒海を

河野宗寛老師は大分の人 臨済禅林の高僧 昭和二十年の終戦時 満州国新京妙心寺別院に在りて

肉親を失いし多数の戦争孤児の惨状座視に耐えず 法衣をのべ慈父の如く飢餓と厳寒より守り 翌

年夏に数百の孤児を率いて空手帰還 その間の■懐を和歌に託す 題して「慈眼堂歌日記」収むる

所二百余首 ■てよるべ無き孤児への慈愛に溢る

今ここに広く浄財を募って 老師自筆の一首を選び歌碑に刻み 若き日の修禅の聖域に建立 老師

の不滅の菩薩行と世界平和につながる慈悲心を追慕■仰するものである

昭和四十六年四月  慈眼堂歌碑建立委員会

 

名古山霊園

兵庫県姫路市

満蒙開拓殉難者之碑

碑文

五族協和王道楽土建設の夢を抱き国策遂行の先謳者として満蒙の地に骨を埋めんと勇躍

彼の地に渡りし兵庫縣出身開拓者は五千有余名なりき 時に太平洋戦争日に我に利あらず

昭和二十年八月九日突如蘇連の新入により現地の様相は一変す 我等命の綱と頼みし関

東軍主力はすでに南下し 青壮年の男子亦概ね応召 残れるは孤立無援の老幼婦女子と

渡満後日浅き少年の一団のみ その後旬日を出でずして敗戦となれり これより引揚までの

悲劇惨状は到底筆舌に尽し難く せめて故国の土を踏まんと願ふ心も空しく 病魔に斃れ或

は殺戮に遭ひ 将又自ら命を絶つ等 遠く異土の露と消えし者その数二千余名に及べれり

今瞑目して当時を偲べば苦難の様相さながら昨日の如く眼前に去来しわが耳目を覆はしめ

るものあり 噫呼此の痛恨何を以て償うべき 今幸い生あって祖国に在る我等一同は往時

を億い 今は亡き拓友の霊を慰め雄魂を永久に讃えんと関係者多数の協賛を得て茲に之

を建立す 在天の御霊安らかに眠り給へ

昭和四十九年十二月  兵庫縣拓友会

 

一宮神社

兵庫県出石郡但東町

大兵庫開拓団殉難者之碑

碑文

(記載無し)

 

遥かなり墓標

碑文

はるかなり ホランのかわに ちりきえし わがはらからの さだめかなしくも

 

満蒙開拓団

更新日:2020/05/06