満蒙開拓団

殉難者拓魂 北陸

 

新潟縣護國神社

新潟県新潟市

新潟県満州開拓殉難者之碑

碑文

国策の名のもと国家の勧奨に基づき 民族協和と新しい村作りに挺身してきた 満州開拓民 青少年義勇隊

報国農場員等が、昭和二十年発月九日戦局の急変に遭い 以来銃弾に 病魔に 飢餓に 酷寒に続々と斃 れ

遂に異郷の土と化した者 実に5千 まことに痛恨極まりないところである ここにこれ等殉難の霊を慰め

永遠の平和を祈念してこれを建てる

昭和三十四年八月十五日  新潟県開拓民自興会

 

綏芬河の碑

碑文

北満の 何処に眠る わが拓友の みたま安かれ 護國の杜に

我等は国策により 新潟県郷土中隊として 昭和十八年六月 山崎喜三治隊長以下三九九名が綏芬河義勇隊

訓練所に入所

昭和二十年八月七日 ソ連軍が侵攻し 九日に無防備無抵抗の隊員を銃撃 四十数名の若い生命が奪われた

生き残った隊員も逃避行中に飢と寒さで 満州の荒野で数多く他界した

平成元年 二年と 亡き拓友の終焉の地 八道橋を訪ねて供養を行った

平成二年十月 綏芬河会総会で有志相図り 亡き友の鎮魂と 若き日の友情を刻み この地に綏芬河の碑を

建立する

平成三年七月七日  綏芬河訓練所有志

 

本成寺

新潟県三条市

二龍山開拓団慰霊碑

碑文

荒野を拓き楽土を築こうと 昭和十六年から五ヶ年間 満州国二龍山地区に入植し 一意鍬をふるった

九十四世帯 三百十五人は 祖国敗戦の為 その半数の人命を失い その意思は崩れてしまった

茲に左記団員の協力で建碑し 開拓の大業に殉ぜられた親子 兄妹 同僚の霊安かれと祈るものである

昭和四十九年

 

霊塔碑文

戦後四十年 未だ遺骨収集もならず 大陸の凍土に眠る二龍山開拓団の人たちの名前を録し その冥福

をお祈りし 戦争のない世界を建設する事を誓います

 

副碑碑文

敗戦の年の十月十一日 ゴハンガタベタイ と言って 幼児十一人が餓死していきました

なんと言って拝み申さん 十一の幼なほとけ 飢餓仏ぞ

 

浄光寺

新潟県中蒲原郡村松町

第十次満州開拓 西宝団拓霊供養塔

碑文

第十次西宝開拓団員名

団長 野崎芳衛 58名の団員名(記載は省略)

他婦女子死亡者数五十五名 現地残留者二十六名位 以上合掌

昭和四十八年五月建立  発願者西宝会

 

第十次満州開拓 西宝団拓霊供養塔 慈徳観世音菩薩

 

赤坂山公園

新潟県柏崎市

第十一次柏崎村開拓団 満州柏崎村の塔

碑文

柏崎村開拓団は 旧満州国三江省(現黒龍江省)通河県にありました。太平洋戦争中の1942年

に国の政策のもと 市の要請に応えて新たな柏崎村を開拓することを夢みた総戸数45戸206名

が満州に入植しました

1945年8月8日に旧ソ連の対日宣戦布告 満州侵攻により多くの残留婦人 残留孤児を残しな

がらの過酷な逃避行を余儀なくされ 多くの人々が亡くなりました

この塔は満州で命を落とし日本へ帰郷できなかった人の鎮魂と平和を願い 1986年7月 日本

海から中国を望むこの地に建立されました

財団法人柏崎青年会議所

 

桂公園

新潟県稲十日町市

第八次満蒙開拓義勇隊対店小川中隊 満蒙開拓青少年義勇軍之碑

碑文

昭和二十年五月 満州国北安省海淪淪県 対店訓練所入所 小川第一中隊

昭和五十二年十一月二十三日建立

 

東田沢地区

新潟県中魚沼郡中里村

第十二次共栄村開拓団慰霊碑

碑の因縁

共栄開拓殉道者慰霊碑因縁

昭和十五年日華戦争愈々拡大の一途を辿りつつある時 旧田沢 水沢 貝野三村による

満州開拓分村移民の計画が策定され 総員三百余名の団員家族は渡満入植した 計画半

ばにして終戦の憂目に遭い 老幼婦女子のみの逃避行となり 物故者百八十名を数う

その殆どがハルピン難民収容所に於いて栄養失調のため死没す 閉村四十年を機として

同志相謀り村民運動に進展させ 茲に慰霊碑を建立す 以て冥すべし

昭和60乙丑十月  世話人代表 山本松三郎書

 

第十二次共栄村開拓団慰霊碑

 

第十二次共栄村開拓団慰霊碑建立二十周年記念 「何行安言 絆」

 

陣場下毘沙門堂

新潟県南魚沼郡津南町

青少年義勇軍 満州開拓者 一般邦人 殉難之碑

碑文

戦前酷寒の朔北に炎熱の南方に雄飛し 不幸敗戦と共に無念にも異郷の鬼と化した町内同胞

百二十七名余柱のために慰霊碑建立を計画して以来五年有余 町内有志の協力を結集して茲

に諸子の霊を弔うを得たる事を喜ぶ

昭和三十八年五月  建立発起人 津南町引揚者一同

※第十一次津南郷開拓団 関連

 

富山縣護國神社

富山県富山市

拓魂

碑文

満蒙開拓の事業は、昭和七年に始まり、終戦まで重要国策として進められ、本県からは、県送出の開拓団

並びに青少年義勇隊、報国農場等合わせて五千五百余名の多数の同志が入植していた。私達開拓者は、故

国を離れ、満蒙の地に民俗の先達として、不屈の精神をもって五族協和の道義世界建設の理想に燃え、新

天地の開発に精進していた。しかるに敗戦という冷厳なる事実に直面し、言語に絶する民族の悲劇に遭い

一千四百余名の将来ある生命が絶たれた。かつて日本の生命線と呼ばれた彼地に、雄図空しく斃れた非命に痛

恨の情が尽きない。開拓の精神は創意発展の真髄であり真理探究の道である。諸君の悠久の生命を信じ、意志

を無にすることなく、恒久平和への道標として、ここに合祀し、碑を建立して、道義日本国の将来を祈念するもので

あります。

昭和五十一年八月建立  富山県満蒙開拓引揚者一同

 

野田山陸軍墓地

石川県金沢市

石川県満蒙開拓者慰霊之碑

碑文

この碑は、中国東北地区(旧満州地区)で亡くなった石川県出身の満蒙開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍、満州

建設 勤労奉仕隊の方々及びその家族等 約3,000名を慰霊するため、石川県満蒙開拓者異例奉賛会により

建立されました。

昭和45年7月建立

 

福井縣護國神社

福井県福井市

満蒙開拓者之碑

 

河野地区

福井県南条郡河野村

満州開拓記念碑

碑文

我々は 昭和十五年 福井県と河野村の要請を受け入れ 満州開拓団となり 満州に 河野村分村を

実現せんとして 勇躍渡満し 北安省の奥地で 将来の日本国と隆盛の■■河野村分村計画の発展の

為に 大陸農民となり 日夜其の任務を 遂行致しておりました 農業片手に 北辺の守りについて

おりました 昭和二十年八月十三日 突然日本国の敗戦となり 我々の■■■■はうたかたの如く

消え去ってしまった その後 幾多の犠牲者を出して 九死に一生を得て 涙乍に引揚げて来た 

■■■■■経過したので 其の追憶のあまり 満州開拓記念碑を建立するものである

昭和五十五年十一月建立

 

満蒙開拓団

更新日:2014/06/08