日本国憲法

 

 

大日本帝国憲法は、明治22年 2月11日に発布、翌23年11月29日に施行され、日本は東アジアで

初めて近代憲法を有する立憲君主国家となった。

 

昭和20年 8月15日、日本は敗戦により独立国としての主権失い、統治権は連合国軍最高司令官の

制約の下に置かれた。

連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、「ポツダム宣言」を実施するために憲法改正を示唆し 、

日本政府はいわゆる「マッカーサー草案(GHQ原案)」に基づく日本政府案の起草を決定し作業を開始

昭和21年11月3日に発布され、翌22年5月3日に施行された。

現在、それぞれ「文化の日」「憲法記念日」として国民の祝日に制定されている。

 

  

昭和21年11月 3日、皇居前広場で行われた「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」 に臨席された天皇・皇后両陛下              .

                         昭和22年 5月 3日、皇居前広場で行われた「日本国憲法 施行記念式典」に臨席された天皇陛下

 

そもそも日本国憲法は、占領軍総司令のマッカーサー元帥が側近に数日で作らせ、「国民主権、平和主義、

基本的人権の尊重」という基本理念のもとに、日本に「戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認」を強制したもの

である。しかし日本一国だけに「戦争放棄」を強制しても戦争は無くならない。当時「マッカーサーは浅慮で、遠

くない将来にワシントンは日本国憲法の平和条項に悩まされるだろう」と評された。

はたして昭和25年6月25日、北朝鮮が三十八度線を越境して韓国の首都ソウルを占領、ここに朝鮮戦争が

勃発した。南極に直面したマッカーサーは当時の首相・吉田 茂に、警察予備隊(75,000人)の創設と海上

保安庁の増員(8,000人)を指令する書簡を送った。警察予備隊の計画人数は在日米軍の四個師団に相当

し、在日米軍が韓国に派兵したあとの穴埋めに用意するものであった。マッカーサーは日本国憲法を強制し

た体面を捨て、朝鮮戦争の収拾を目論んだのである。

昭和27年8月1日、総理府に保安庁が設置され海上警備隊を配置、同年10月15日には警察予備隊が保

安隊に改組された。さらに昭和29年6月9日、保安庁は防衛庁に、保安隊は自衛隊に改組されて、陸軍・海

軍・航空の三軍体制となり、自衛隊は米軍と協調してソ連・中国・北朝鮮などの共産主義勢力に対することに

なる。奇しくもこの日は15年前の昭和20年に沖縄決戦が終結した日にあたる。

 

平和憲法といわれる「日本国憲法」が制定されてからも、漁船拿捕事件・ニ百浬問題・大使館占拠事

件・領土(国境線)問題・拉致疑惑など、日本は国外からの脅威に晒されている。

新憲法のもとで軍備を否定し、戦争に無知となる教育を施され、無防備・無抵抗・無知無教養な国と

なった日本の宿命なのだろうか。

 

 

清水 澄博士

 

慶応4年石川県金沢市出身。東京帝国大学法科卒。学習院大学教授、明治38年法学博士号取得。

宮内庁及び東宮御学問所御用掛となり大正天皇・昭和天皇に憲法学を進講。

行政裁判所長官・枢密院顧問官を経て、昭和21年に最後の枢密院議長に任ぜられる。

日本国憲法の成立に日本の国体の危機を憂えたが、 自らの想いとは別に公人としての最後の責任を

全うするため、最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力。

同年9月25日、熱海の錦ヶ浦に身を投じて自決。翌朝、左手に数珠を持ったお姿で発見された。

 

自決の辞

新日本憲法の発布に先だち私儀憲法案を公表したる団体及個人ありたり 其中には共和制を採用する

ことを希望するものあり 或は戦争責任者として今上陛下の退位を主唱する人あり 我國の将来を考

へ憂慮の至りに堪へず 併し小生微力にして之が対策なし 依て自決し幽界より我國体を護持し今上

陛下の御在位を祈願せんと欲す 之小生の自決する所以なり 而して自決の方法として水死を択びた

るは楚の名臣屈原に倣ひたるなり

元枢密院議長  八十翁 清水澄  法學博士  昭和二十二年五月 新憲法実施の日認む



追言

小生昭和九年以後進講(宮内省御用係として十数年一週に二回又は一回)したること 従て龍顔を拝し

たること夥敷を以て陛下の平和愛好の御性質を熟知せり 従て戦争を御賛成なかりしここと明なり
 

 

青山霊園

東京都港区

文学博士清水 澄墓

 

石川護國神社

石川県金沢市

清水 澄博士顕彰之碑

碑文

憲法学者 清水 澄博士(金沢市東山三丁目ご出身、学習院教授、行政裁判所長官、枢密院顧問官、

同副議長、同議長)は、大日本帝國憲法が廃止され、占領軍司令部が強制した日本国憲法制定の日、

即ち昭和22年5月3日、日本国と天皇制の将来を憂慮され、幽界よりわが国体の護持と皇室のご安

泰、今上陛下の御在位を祈願しようと自決を決意され、憂国の至誠極まる所、泪羅の淵に身を投じた

楚の国の中心屈原の故事に倣い、9月25日、こよなくその風光を愛されていた熱海の錦ヶ浦の波涛

愛国赤心の躯幹を投じられたのであります。(後略)

 

八月十五日

更新日:2008/05/03