ソ連の暴虐

 

ソ連軍の暴虐非道

終戦後、満州国の新しい主権は中華民国に移管される事になっていたが、ソ連軍は駐留を続け

撤退しようとせず満州国の首都だった新京もソ連軍の管理化におかれた。牡丹江の陸軍病院に

いた従軍看護婦たちは、新京の長春第八病院に勤務しながら帰国の機会を待っていた。

昭和21年の春、ソ連軍から「日本人看護婦3名を一ヶ月の期限付きで派遣せよ」との命令が届

いた。

婦長はベテランの大島看護婦以下3名を派遣したが、一ヶ月後に3名の追加派遣命令が届き、

更に一ヶ月後にまたも3名の追加が命令された。

四回目の派遣命令が届いた日の夜、最初に派遣した大島看護婦が満身創痍の姿で逃げ帰っ

て来た。服は破れ、身体中血だらけで、もはや手遅れの状態だった。彼女は、派遣された看護

婦たちがソ連軍将校から凌辱され続けている惨状を報告して息絶えた。

 

覚悟の自決

6月21日の朝、制服制帽姿の看護婦22名が、大島看護婦の位牌を囲む形で二列に全員が合掌

した姿で仰臥していた。青酸カリの服用による覚悟の自決だった。

 

遺書

二十二名の私たちが、自分の手で命を断ちますことは、軍医部長はじめ婦長

にもさぞかし御迷惑と深くお詫び申し上げます。私たちは敗れたりとは云え

かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。たとえ命はなくなっても、

魂は永久に満州の地に留まり、日本が再びこの地に還って来る時、ご案内致

します。その意味からもなきがらは土葬にして、満州の土にしてください。

 

青葉園

埼玉県大宮市

    

青葉慈蔵尊

碑文

昭和二十一年春 ソ連占領下の旧満州国新京の第八病院に従軍看護婦三十四名が抑留され勤務

していたが ソ連軍により次々に理不尽なる徴発を受け その九名の消息も不明のまま更に四回目

三名の派遣を命ぜられた 拒否することは不可能であることを覚悟したその夜 最初に派遣された

大島看護婦が満身創痍瀕死の身を以って逃げ帰り 全員絶え難い凌辱を受けている惨状を報告し

て息絶えた 慟哭してこれを葬った二十二名の乙女たちは 六月二十一日黎明近く、制服制帽整然

として枕を並べて自決した

先に拉致された同僚たちも 恨みをかんで自ら悲惨なる運命を選び満州の土と消えた

二十三年の暮 堀看護婦長に抱かれて帰国した二十二柱の遺骨は 幾辛酸の末 漸く青葉園園主

の義侠により此処に建立された青葉慈蔵尊の台下に納められた 九名の友の霊も合わせ祀られ 

昭和三十一年六月二十一日開眼供養が行われて今日に至った

凛冽たる自決の死によってソ連軍の暴虐に抗議し日本女性の誇りと純潔を守り抜いた白衣の天使

たちの 芳魂 とこしえに此処に眠る

 

八月十五日

更新日:2003/08/10