艦内神社

戦艦日向

 

戦艦日向(竣工時)

 

艦歴

大正 4年 5月 6日 三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工

大正 6年 1月27日 進水

大正 7年 4月30日 就役、第一艦隊第一戦隊に配備

.               最新鋭の戦艦として長門竣工まで連合艦隊旗艦

大正 8年10月24日 千葉県野島崎沖で演習中、第三砲塔の爆発事故

昭和12年  月  日 支那事変、上海陸兵輸送及び陸戦支援に従事

昭和15年 6月  日 満州国皇帝訪日時の御召艦

昭和16年11月26日 真珠湾攻撃に参加のため出撃

昭和17年 4月18日 東京を空襲したホーネット等を追撃

昭和17年 5月  日 伊予灘で演習中、第五砲塔の爆発事故(51名死亡

.               後、呉工廠で応急修理と水上見張用22号レーダーの試験装備に着手

昭和17年 5月29日 ミッドウェイ海戦参加のため出撃

昭和18年 5月 1日 呉工廠で航空戦艦への改装に着手

昭和18年11月18日 改装終了。

戦艦日向(航空戦艦への改装後)

 

昭和19年10月20日 捷一号作戦(小澤艦隊、松田支隊)参加のため出撃

昭和19年10月25日 エンガノ岬沖海戦

昭和19年10月27日 奄美大島に寄港、呉へ向かう

昭和19年10月29日 呉軍港に帰投

.               生存将兵は呉沖・三ツ子島に隔離(敗戦秘匿のため軟禁

昭和20年 2月  日 戦略物資輸送作戦・北号作戦に参加

.               燃料不足のため呉軍港に停泊

昭和20年 3月19日 米艦載機の攻撃を受け直撃弾が命中、実質的な戦闘力を喪失

昭和20年 6月 1日 特殊警備艦に指定

昭和20年 7月24日 米艦載機による呉軍港空襲、呉港外(情島沖)で大破着底

.               艦橋右への直撃弾により艦長草川 淳海軍少将戦死

.               乗組員千余名中、戦死者197名、重軽傷者600余名

昭和20年11月20日 除籍

昭和22年 7月 4日 播磨造船呉ドックで解体完了

 

呉港外(情島沖)で大破着底した戦艦日向

 

艦内神社

都濃神社

.所在地  宮崎県児湯郡都農町                    

創建    不詳                          

主祭神  大己貴命                    

社格    式内社、日向一宮、旧国幣小社、別表神社

 

 

戦艦日向が御分霊を祀った都濃神社

 

元帥海軍大将山本五十六歌碑

献歌

ますらをの ゆくとふ道を 行ききわめ わが若人は ついに帰らず

 

情島

広島県呉市

戦艦日向が大破着底した情島

 

呉海軍墓地

広島県呉市

軍艦日向慰霊碑

献辞

南太平洋の海を征服し比島沖海戦に出撃し颯そうと旗艦の重任を果して還る ああ恨は深し 昭和20年

7月24日米グラマン数百の奇襲にあい勇戦奮斗のすえ呉情島の北岸に沈む されど日本を護り国に殉ぜ

し尽忠のまことは星移り月かわるとも とわにこの国の歴史にとどめられん ねがわくば197勇士の霊よ 

永遠に安かれ

昭和44年7月24日  軍艦日向慰霊碑建設委員長 景山勝義

 

略歴

軍艦日向は大正4年5月6日長崎の三菱造船所で起工、3年の日時を費して完成した日本最古の名艦であ

る。大正7年に「陸奥」「長門」ができるまで日本最大の巨艦であった。日本海軍が列強に誇った「八八艦隊」

の主力艦として昭和18年太平洋戦争「捷号作戦」に旗艦として出動、この作戦中サイパン沖で空母「瑞鶴」

「翔鶴」などが撃沈された。昭和20年3月呉港に帰投、情島沖の北岸に敵機をさけて待機出撃の機をねらっ

ていた。敗色は日増しに濃くなってきた20年7月24日7時30分米艦上「グラマン」戦斗機約100機が300

キロの大型爆弾による高度3.000米の上空よりの空襲を受け、第2波は更に11時頃より、第3波は3時頃

より波状攻撃により、さしもの帝国海軍の象徴「日向」の巨体も3時38分頃より沈没し始め翌25日未明艦体

は遂に情島沖100米の海底に達した。乗組員1.000余名中死者197名重軽傷者600余名に及んだ。艦

長草川淳中将は10機目の「グラマン」の投下した爆弾の破片にたおれ、前甲板の戦斗艦橋で壮烈な戦死を

遂げた。

 

坪井区自治会館

広島県 安芸郡音戸町

戦艦伊勢・日向 浮揚解撤記念碑

碑文

昭和二十八年二月吉日 飯野産業株式会社 サルベージ事業所 建立

 

鎮魂の霊地

更新日:2010/03/28