都子野順三郎
陸軍大尉
地獄船「鴨緑丸」事件
都子野順三郎陸軍大尉は、「バターン死の行進」の生き残りの捕虜1,600名を日本へ運ぶ輸送船「鴨緑丸」
の輸送隊長だった。昭和19年12月13日、比島マニラ湾を出発した鴨緑丸は49日目に門司港へ到着したが、
捕虜の人数は約三分の一の580名に減っていた。マニラから門司までの航行中に、米軍機の爆撃と米潜水艦
の雷撃を受けた事による。もっともこの船には捕虜の護送船であることを示す「POW」の文字が明記されておら
ず、また重傷を負い手の施しようがない捕虜15名を護送に耐えられまいとして途中で下船させ殺害していた。
軍事裁判
BC級裁判において捕虜を無事に輸送できなかった責任を問われ、昭和23年8月21日に巣鴨プリズンにて
絞首刑に処せられた。
辞世
誠心を心のかてと踏み奉り今我列す神の末坐に清き心で
現世に固きつぼみを育みて神の御末に清て開かん
都子野家は松山市にある高家八幡神社の宮司であった。戦後、都子野大尉の妻は神職を次いで遺児を育て
られ、神社本庁の松山支部の理事も務められた。また戦犯遺族会のまとめ役をつとめ、愛媛縣護國神社の
境内に愛媛県出身で戦犯として処刑された22名を祀る「殉国二十二烈士之碑」の建立にも力を尽くされた。
高家八幡神社
愛媛県松山市
都子野大尉の生家 高家八幡神社
愛媛縣護國神社
愛媛県松山市
都子野大尉のご妻女が発願建立された「殉国二十二烈士之碑」
碑文
大東亜戦後の戦争裁判は世界史に汚辱の一章を加え 犠牲者の遺族に消える日のない痛恨を印した
愛媛ゆかりの二十二烈士亦大節を貫き恩讐を越え祖国の弥栄を念じ従容として平和の人柱となった
今や転位して裁きの神の座にます尊霊たちよみそなわせ 敗戦祖国は世界驚異の発展をとげ アジア
の諸民族は相次いで独立の宿願を成就しました 二十一世紀は日本の世紀 在天の英霊とこしえに
祖国を守りたまえ
更新日:2004/01/26