木村 久夫

陸軍上等兵

 

京都大学卒業昭和21年5月、上官が起こした捕虜虐待の罪により、

シンガポール・チャンギー刑務所にて刑死、 28歳。

尚、当事者の上官は罪を免れている。

 

遺書

私の死に当っての感想を断片的に書き綴ってゆく。 紙に書くことを許されない今の私に

取ってはこれに記すより他に方法はないのである。 私は死刑を宣告せられた。誰がこれ

を予測したであろう。年齢三十に至らず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命を誰が予

知し得たであろう。波澗の極めて多かった私の一生はまたもや類まれな一波瀾の中に沈み

消えて行く。我ながら一篇の小説を見るような感がする。しかしこれも運命の命ずるとこ

ろと知った時、最後の諦観が湧いて来た。大きな歴史の転換の下には、私のような蔭の犠

牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死

も、大きな世界歴吏の命ずるところと感知するのである。 日本は負けたのである。全世

界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない

無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らし

の一つとして死んで行くのである。これで世界人類の気持が少しでも静まればよい。それ

は将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。 

私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。しかし今の場合

弁解は成立しない。江戸の敵を長崎で討たれたのであるが、全世界から見れば彼らも私も

同じく日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように見

えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやというほど他国人に強いて来た事であ

るから、あえて不服はいい得ないのである。彼らの眼に留った私が不運とするより他、苦

情の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切

れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴ぴて死ぬと思えば腹も立たない。笑って

死んで行ける。 今度の事件においても、最も態度の卑しかったのは陸軍の将校連に多か

った。 これに比すれば海軍の将校連は遥かに立派であった。 このたびの私の裁判におい

ても、また判決後においても、私の身の潔白を証明すべく私は最善の努力をして来た。し

かし私が余りにも日本国のために働きすぎたがため、身が潔白であっても責は受けなけれ

ばならなくなった。

「ハワイ」で散った軍神も、今となっては世界の法を犯した罪人以外の何者でもなくなっ

たと同様に、「ニコバル」島駐屯軍のために敵の諜者を発見した当時は、全軍の感謝と上

官よりの讃辞を浴び、方面軍よりの感状を授与されようとまでいわれた私の行為も、一ケ

月後起った日本降伏のためにたちまちにして結果は逆になった。 その時には日本国に取

っての大功が、価値判断の基準の変った今目においては仇となったのである。しかしこの

日本降伏が全日本国民のために必須なる以上私一個の犠牲のごときは忍ばねばならない。

苦情をいうなら敗戦と判っていながらこの戦を起した軍部に持って行くより仕方がない。

しかしまた、更に考えを致せば、満州事変以来の軍部の行動を許して来た全日本国民にそ

の遠い責任があることを知らねばならない。我が国民は今や大きな反省をなしつつあるだ

ろうと思う。その反省が、今の逆境が、将来の明るい日本のために大きな役割を果すであ

ろう。それを見得ずして死ぬのは残念であるが致し方がない。

日本はあらゆる面に為いて、杜会的、歴吏的、攻治的、思想的、人道的の試練と発達とが

足らなかった。万事に我が他より勝れたりと考えさせた我々の指導者、ただそれらの指導

者の存在を許して来た日本国民の頭脳に責任があった。 かつてのごとき我に都合の悪し

きもの、意に添わぬものは凡て悪なりとして、ただ武力をもって排斥せんとした態度の行

き着くべき結果は明白になった。今こそ凡ての武力腕力を捨てて、あらゆるものを正しく

認識し、吟味し、価値判断する事が必要なのである。これが真の発展を我が国に来す所以

の道である。あらゆるものをその根底より再吟味する所に日本国の再発展の余地がある。 

辞世

眼を閉じて 母を偲べば 幼な日の 懐し面影 消ゆる時なし

音もなく 我より去りし ものなれど 書きて偲びぬ 明日という字を

おののきも 悲しみもなし 絞首台 母の笑顔を いだきてゆかむ

 

猪野沢温泉

高知県香美郡香北町

  

木村久夫歌碑

碑文

木村久夫君の獄中絶筆を拡大して刻む

音もなく 我より去りし ものなれど 書きて偲びぬ 明日という字を

撰文

無実の戦犯として処刑された学徒兵 木村久夫君の非業の死を偲ぶ 風化されざる文情の

思いが君の五十回忌に当り人々の心に湧然と甦り その結果歌人吉井勇に傾倒し旧制高知

高等学校時代の青春の日々よく訪れた香北町の勇隠楼の「渓鬼荘」に勇の碑と並んで君の

誕生日に歌碑が建立されることになった

田辺元著「哲学通論」の余白に死の直前迄切々と書き綴った君の遺書は 飽くなき学問へ

の情熱 隣人と祖国への心からの感謝と愛情が注がれており「きけわだつみのこえ」に収

められ万人に感動を与えている

歌は運命を淡々と受けとめた澄み切った心境で獄中において歌いあげた十数首の作品の中

から私達の心の中にいつ迄も刻みこまれていると思われる一首を選んだ

今後いくとせ春来たれば猪野々の山々を白雲が棚引き 秋訪れれば物部の清流のささやき

に耳を傾ける静かな自然の輪廻は 悲惨な戦争を拒み平和を希求する「明日」という字を

讃えて永遠に過ぎ行くことであろう

猪野沢温泉 渓鬼荘

 

池上妙見堂

東京都大田区

シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑

碑文

第二次世界大戦後、シンガポール地区においては、146名の旧軍人軍属が連合軍の軍事裁判により

戦争犯罪者として処刑されたが、その大部分は誤った戦争の犠牲者としてこのような悲運に哭かねば

ならなかった人々であった。しかもこの方々は祖国から見放されたまま、不自然な「死」を前にして苦悩

に苦悩を重ね、最後には「己の死が祖国再建の人柱となるのであれば、又世界人類の平和にもつなが

ればよし」と絶叫して散華したのである

これら殉難者の往時の心情を思うとき、万斛の涙また新たなるものがあり、かかる悲惨時が決して再

びあってはならないと誓うのである。今ここ池上の寂かなる杜をこの方々の安らかなる眠りの場と定め

碑を建て、以って所霊の冥福を祈る次第である

 

  

殉難者芳名                    木村久夫の刻銘

 

軍事裁判

更新日:2004/08/08