瑞巌円福禅寺

宮城県宮城郡松島町

 

瑞巌寺 杉並木

 

輜重兵第十九連隊戦死没者 慰霊碑

碑文

北辺鎮護の精鋭 朝鮮羅南第十九師団の輜重兵第十九連隊は 昭和十三年八月十日、張鼓峯事変の

戦場に於いて創立し、以来大東亜戦争中 昭和十六年夏は我が連隊の将兵を骨幹とした独立自動車第

六〇大隊を編成し、マレー半島作戦コタハルに敵前上陸を敢行し緒戦の勝利を飾り、引続きビルマ方面

に転戦し、輜重部隊としては前例のない軍感状に輝く戦功を樹て、亦ビルマ方面の撤退作戦に当っては戦

史に其の例を見ない困難、且極限状況に在って、作戦遂行を支える壮烈な活躍を遂げたのである。

昭和十九年には戦局の天王山と目される比島の決戦場に連隊の主力を挙げて参戦し、連隊長始め多数

の戦友諸兄は壮烈な戦死を遂げたのである。そして昭和二十年八月 留守部隊はソ連軍の侵攻に依る

国境防衛に勇戦奮闘したが、遂に終戦に依り、組織も、兵営も、全て失い無と帰して仕舞いました。以上

延べた八年余の連隊の歴史を綴る期間に、それぞれの戦場に於て、幾多の戦友は、祖国の永遠と民族

の興隆を信じて、散華せられ護國の御英霊と成られたので御座います。

戦後も三十有余念年を経て、今日の日本の繁栄を享受している吾々は、今こそ当時に想を致し、御英霊

の御冥福を御祈りするため慰霊碑を建立し、只管その誠を捧げ度いと思ひます。

 

輜重兵第十九連隊に於て動員編成された部隊

輜重兵第十九連隊          原隊鏡城 元第八五一二部隊(野戦隊鏡城)

鏡城第十二部隊           鏡城  虎兵団第八三一三部隊(比島方面)

独立自動車第六〇部隊(マレーシア・ビルマ方面)輜重兵第七十九連隊(ソ満国境)

羅南師管地輜重兵補充部隊                      (鏡城)

昭和五十六年九月  鏡城会

 

勇第一三〇九部隊 ガダルカナル島 ビルマ作戦勇士慰霊之碑

鎮魂譜

戦友よ 君達は生きている             

二十才の清らかな瞳のままで       .

花火のように輝いた生命のままで

.     美しい故郷のふところで 永遠に

 

ブカ地区警備第八十七警備隊 司令加藤榮吉海軍大佐外四千四百四十四柱 鎮魂碑

 

第七次安拝開拓団 拓魂

経歴

一 団名        第七次安拝開拓団                

二 入植年月日     昭和十三年二月                 

三 入植地       満州国北安省慶安県安拝屯            

四 出身地       本吉郡 一〇人  登米郡 四六人  遠田郡 四九人

           桃生郡 二八人  志田郡 十五人  黒川郡  七人

            その他  六人  合計 一六一人        

五 終戦時世帯数    団員 一六一戸  幹部   四        

六 家族構成数     約七四〇人                   

七 内帰還者数     約三一〇人                   

八 大東亜戦争犠牲者数 約四三〇人                   

 

 

満州開拓青年義勇隊東寧訓練所第一中隊 鎮魂

碑文

北満やシベリアの凍土に眠る ともの御霊よ安らかに

昭和十六年三月 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所入所 宮城秋田混成 寺田中隊編成 

隊員二百二名 隊長外幹部五名 同年六月二十二日勇躍渡満 浜江省一面波訓練所入所

軍奉仕

同年九月 国境の街 牡丹江省東寧訓練所に移行 三年間の訓練を終り 十九年六月 

同省寧安県東哈達湾地区に入植 第四次東哈達湾義勇隊開拓団誕生

五族協和 皇道楽土 新農村建設の槌音が高らかにひびく この頃大東亜戦争となり 団員

の入隊応召はげしく 二十年八月 村上敬士外残留区員四十名全員招集 遂に団を閉鎖す

渡満以来 訓練中死亡せるもの ソ連開戦による戦死者 帰国後病死せる者 併せて三百十

二名の多きに達す 国敗れて偉業ならず 誠に痛恨にたえず 生還せる拓民相はかり 亡き

拓友■遺族■■慰霊し 後世に■■平和日本を念じ ここに鎮魂の碑を建立す

 

満蒙開拓青年義勇隊 嫩江訓練所岩槻中隊 拓魂

碑文

昭和十九年三月七日 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所河和田分所入所 大東亜戦争苛烈のため

渡満延期となり 六月〜七月 出征家族援農のため北海道三地区に 八月〜三月 岡崎市 名古屋市

の飛行機生産工場へ所外訓練 昭和二十年四月九日 焦土と化した大都市に胸をいためながら渡満

出発 十五日に黒河省嫩江県八洲 満蒙開拓青年義勇隊嫩江訓練所入所 同年六月 関東軍の要請

により 間島省延吉地区軍需工場に挺身隊として一部派遣 八月九日 日ソ開戦 関東軍の出動要請

により嫩江部隊へ協力隊として派遣 間もなく終戦帰隊

八月二十五日 嫩江訓練所にソ軍進駐 兵器物資はすべて接収され 人員は連行収容される 以後捕

虜難民として転々 食少なく栄養失調となり 衣乏しく厳寒に耐えかね 越冬を果さず倒れる拓友多数 

国策に殉じ異国の丘に眠る ああ悲しみにたえず 昭和二十一年夏ごろ 友の遺骨を胸に抱いて空しく

帰国した

 

   満蒙開拓青年義勇隊 柏根訓練所小関中隊 拓魂

碑文

我らは若き義勇軍 われらは若き義勇軍 祖国の為ぞ 鍬とりて

万里涯なき 野に立たむ

いま開拓の 意気高し いま開拓の 意気高し

松の緑に囲まれた内原の日輪兵舎で鍛え、北満の開拓地「柏根の里」で、声を限りにうたい合った

此の歌は俺達の青春の歌だった。然し大東亜戦争が熾烈を加えるにつれ、拓友は若き軍人、軍属

として関東軍へ、いつか此の青春の歌は、夜を徹しての別離の歌となってしまった。そしてあの忌ま

わしい敗戦・・・・・・・。

斯して我が祖国の命運を賭けた重要国策満蒙開拓≠ヘ、世界開拓史上例のない悲惨な影を落

とし、終焉を告げた。此の間辛苦を共にした拓友四十余名を失う。されど為す術もなく異国に残して

きた事を思うにつけ、胸の痛むを覚える。あれから三十三年・・・・・・・・、荒涼たる満州の野に、極北

のシベリヤ、南海の孤島に、今なお寂しく眠る拓友よ、聞いてくれ、奇しくも生き残った俺達のうたう

追憶の歌を。

 

第六次満蒙開拓青年義勇隊 鐵驪訓練所土生中隊 拓魂之碑

碑文

昭和十八年三月 時まさに大東亜戦争酣の頃 国策として推進されていた満蒙開拓青少年義勇軍に

宮城県内市町村から年齢十四才より十七才までの 少年二百十余名が志願し 茨城県内原訓練所に

おいて農耕畜産に 或は所外訓練として 北海道 青森 宮城県鹿島台 福島 神奈川 埼玉 大阪 

島根の各地で 食料増産 災害復旧等のため懸命に汗を流した 十九年三月 満州国北安省慶安県

鐵驪に勇躍して渡満 夏は肌を焼く炎熱に農作業と開墾 冬は零下四十度に及ぶ酷寒の中での訓練

所警備と伐採等 電灯もない悪環境の中あらゆる困苦欠乏に耐え 王道楽土建設を夢見てひたすら

に若い情熱を燃やして開拓に従事した

大東亜戦争も愈々熾烈となるや一部は召集され関東軍に入隊 一部は鞍山に挺身隊として派遣された

この間 三名の拓友が病魔に倒れた 二十年八月突如としたソ連軍の参戦 そして激動と混乱 たどり

ついた奉天或は西安での一年余に及ぶ労役 生きるに衣食足りず 病に医薬なく その生活たるや悲

惨 三年余辛酸を共にした拓友三十二名を失う その拓友と遺族の心情如何ばかりか 只々胸に迫る

ものあり

三十三回忌に当り 奇しくも生き得た有志相図り 青春の志果せず散った拓友の霊安かれと祈り この

碑を建立す

 

追憶の詩

国は消えて満州の昿野に眠りし友よ この故郷に来たりていざ語り合わん

あの若き日の俺達の夢を

 

円通院 門前

 

円通院 庭園

 

円通院 庭園

 

日本三景の一 松島

 

鎮魂の霊地

更新日:2011/05/01