艦内神社

巡洋艦矢矧

 

巡洋艦矢矧

艦歴

昭和16年11月11日 阿賀野型3番艦として佐世保海軍工廠にて起工

昭和17年10月25日 進水

昭和18年12月29日 竣工

昭和19年 2月  日 リンガ方面の哨戒および訓練のためシンガポールへ派遣

昭和19年 2月23日 第10水雷船隊旗艦

昭和19年 6月19日 あ号作戦(マリアナ沖海戦)に参加

昭和19年 6月24日 呉軍港へ回航、レーダーや機銃を増強

昭和19年 7月 8日 呉軍港を出航、マニラ経由でリンガ泊地へ到着(20日)

昭和19年10月24日 シブヤン海海戦

.           水上偵察機2機を発信させ1番機が未帰還

昭和19年10月25日 サマール沖海戦

.           至近弾により魚雷発射連管室で火災が発生、戦死者14名・重傷者多数

昭和19年11月15日 第10戦隊解隊、第2水雷船隊に編入・旗艦

昭和19年11月26日 佐世保軍港へ回航、1,000箇所以上を修理

昭和20年 3月28日 戦艦大和等と共に呉軍港を出航、三田尻沖に停泊

昭和20年 4月 日  坊之岬沖海戦(沖縄水上特攻)

.           米雷撃機が発射した魚雷が左舷中部に命中、更に艦尾に魚雷が命中して機関停止

.           最終的に合計魚雷6〜7本・爆弾10〜12発を被弾、14:05沈没

.           戦死 446名

昭和20年 8月15日 終戦

 

沖縄出撃前の逸話

原為一艦長は、艦内の倉庫に搭載してあった米麦20日分を5日分を残して徳山軍需部に返納している

更に少尉候補生23名を退艦させた。

また撃沈される事を想定して救命用に大量の角材を積載して出撃し、これが多くの将兵の生命を救った。

 

昭和20年 4月 7日、坊之岬沖海戦での矢矧

 

昭和20年 4月 7日、坊之岬沖海戦での矢矧

 

艦内神社

矢作神社

.                    所在地  愛知県岡崎市

.                    創建   仁徳天皇9年頃

.                    主祭神  素戔嗚尊、豊受大神、保食神

.                    社格      郷社

 

矢作神社

由緒

(前略)第一次世界大戦後 帝國軍艦矢矧の館長以下船員一同の崇敬篤く 艦内に矢作神社の分霊を

奉斎して大祭を執行し 又兵員一同正式参拝も行われ 軍艦矢矧の模型を奉納されている(後略)

 

佐世保海軍墓地

長崎県佐世保市

軍艦矢矧戦没者慰霊碑

いしぶみ

みたまら いま ここにねむる

おんみら 軍艦矢矧のつわものとして マリアナ海戦 フィリピン沖海戦に散じ はたまた国家の

存亡をかけし沖縄特攻作戦に 戦艦大和らとともに徳之島西方に没す

この日 昭和二十年四月七日なりき

いま 世は太平

このたび ようやく機熟して 戦没者の霊を慰め かつは再び戦争の悲劇をくりかえさざることを

希い 母なる港をのぞむ東山の聖地に 慰霊の碑をつくりたり

みたまよ とわに 安らかに眠れかし

ゆきしふね かえらぬおかに はなふぶき

昭和四十四年四月七日  矢矧会有志一同

 

火の神公園 平和祈念展望台

鹿児島県枕崎市

奉納石灯籠   第二水雷船隊 旗艦 矢矧の英霊に捧ぐ

 

奉納石灯籠   巡洋艦矢矧乗組 故 小屋輝雄 伯父さんを誇りに思う 今も尚

 

元軍艦矢矧測的長兼第四分隊長 海軍中尉 池田武邦 揮毫慰霊碑

碑文

祖國のため 命ささげし ともがらの 御霊安かれと 永久に祈らん

 

連 合 艦 隊  沖 縄 決 戦  鎮魂の霊地

更新日:2013/08/04