鎮魂の霊地

舞鶴海軍墓地

 

舞鶴海軍墓地

京都府舞鶴市

 

沿革

明治32年  月  日 海軍墓地用地として土地買収

明治33年  月  日 舞鶴水雷団開設

明治34年10月  日 舞鶴鎮守府開庁

昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦

昭和21年 7月  日 管理を舞鶴市に移管

昭和28年  月  日 舞鶴水交会が結成、市が祭典を委託

 

祭祀

合葬碑 7基、個人碑 14基

 

舞鶴鎮守府 大東亜戦争戦没者之碑                         

 

尼公殉難者海軍将卒祈念碑

 

特務艦関東殉難者之碑

 

軍艦新高殉難者之碑

 

航空母艦大鳳戦没者之碑

碑文

軍艦大鳳は太平洋の風雲急を告げる昭和十六年七月 川崎重工業株式会社艦船工場(神戸)において起工され

昭和十九年三月完成した最大最新鋭の航空母艦であった(公試状態排水量三万四千二百トン)

就役と同時に連合艦隊の主力である第一機動艦隊に編入され 急ぎ内地を出撃してスマトラ島リンガ泊地において

合同し 同年四月名誉あるその旗艦となった 同年六月敵がサイパン島に侵攻するに及んでわが国運をかけた海

上決戦(マリアナ沖海戦)に参加したが 戦勢我に利なく六月十九日決戦のさなか米潜の雷撃を受け なお勇戦奮闘

中不運にも爆沈し(位置北緯十二度十五分 東経百三十八度十二分) 乗員七百六十七名は艦と運命を共にした

誠に悲痛の極みである

同艦は舞鶴を母港とし 乗員の多くはこの土地において教育を受けたるものである大鳳の最期より三十年を経て生

存者一同の発意により ゆかりの地ここに戦没者霊名録を碑底に収蔵する慰霊碑を建てて 永く戦没戦友の偉勲を

賛え 冥福を祈るものである

 

軍艦利根、筑摩之碑

碑文

軍艦利根と軍艦筑摩は、それぞれ昭和十三年、十四年に帝國海軍最新鋭の巡洋艦として就役した姉妹艦である。

当時の非常時局下にあって、日夜の訓練につぐ訓練を重ね、昭和十六年十二月八日、太平洋戦争勃発するや、開戦

劈頭、ハワイ攻撃作戦を皮切りに、炎熱身を焼く南方作戦、風雪身を切る北方作戦等、主要な海戦には常に機動部隊

の前衛として参加し、太平洋狭しと縦横無尽の活躍をしたことは、碑の背面に掲げた戦歴の示すとおりである。

両艦は、舞鶴における主力艦として、その乗組員は舞鶴鎮守府在籍の優秀な人材を集め相互の人的交流も深く互いに

誇りを持って切磋琢磨し、一心同体の親近感に結ばれ、ともに護国の大任に精励した間柄であった。

艦と運命をともにした戦没勇士の慰霊については、利根は広島県佐伯郡能美島の地に、筑摩は神奈川県鎌倉の地に、

それぞれの由緒をもって慰霊顕彰のことが執り行われているところであるが、これらの英霊を母港舞鶴の地において、

更にねんごろに祀り、その旺盛な護国の精神と赫々たる武功を後世に伝えるとともに、わが国の安泰を祈念し、ここ舞

鶴市旧海軍墓地をよき地と定め、この碑を建設するものである。

 

舞鶴鎮守府 第七特別陸戦隊戦没者慰霊碑

 

第五艦隊司令部戦没者慰霊碑

 

軍艦神威芳魂之碑

 

軍艦日進戦死者慰霊碑

 

     キスカ島及びその周辺陸海空域戦没者慰霊碑

 

舞鶴鎮守府第二特別陸戦隊第八十二警備隊戦没者慰霊碑

 

招魂之碑

碑文

南冥のガダルカナルに消え果てし 戦友の勲は永久に語り継がれん

 

萬霊塔

 

個人墓

 

海軍墓地 桜花爛漫

 

鎮魂の霊地

更新日:2010/04/17