京都大学工業教員養成所の旧本館(現存)
(撮影:工学研究科杉本直三助教授)
旧本館の写真

京都大学 工業教員養成所

(1961年〜1970年)

工業教員養成所とは?

工業教員養成所は、「国立工業教員養成所の設置等に関する臨時措置法」(昭和三十六年法律第八十七号)(1961年5月19日公布)に基づき、北大、東北大、東工大、横浜国立大、名古屋工大、京大、阪大、広島大、九大の国立9大学に付置された3年制の学校です。大学・短大と同じく高等学校卒業生を入学資格とし、その名の通り高等学校の工業科目を担当する教員を養成することを目的としていました。

1960年代の高度経済成長に伴い、我が国の工業化のために必要な人材を迅速かつ大量に養成する必要に迫られ、また終戦直後に生まれたいわゆるベビーブーム世代が高校進学の時期にさしかかって工業高校を早急に拡充する必要が生じたため、臨時措置として、工学部を有する各地の国立大学内に工業教員養成所が付置されたわけです。この政策は、同時期の大学理工系の拡充(学生定員の増加)や、5年制の工業高等専門学校(高専)の誕生(1962年)などと連動していました。

教育職員免許法の附則10において、

「高等学校教諭の工業の教科についての一種免許状は、当分の間、第五条第一項本文の規定にかかわらず、旧国立工業教員養成所の設置等に関する臨時措置法(昭和三十六年法律第八十七号)による国立工業教員養成所に三年以上在学し、所定の課程を終えて卒業した者に対して授与することができる。」
とされており、高校教諭免許が原則として大学卒業者にのみ与えられる資格であるところを、工業教員養成所の卒業生は、大卒ではないが高校教諭免許を与えられるという学歴上の例外扱いになっていました。

ただし工業教員養成所は、臨時措置として、特殊な目的をもって国立学校設置法に基づかない単独立法によって設置されたため、当初は4年制一般大学への編入学も大学院への進学もできないなど、戦後の新学制の理念である単線型体系から外れるものであり、教育の機会均等の点で問題をはらんでいた学校でした。(1965年3月法律の一部改正および1967年2月の文部省令の公布・実施によって、ようやく卒業後の4年制大学への編入学が認められました) そのため、工業教員養成所の社会的な位置づけは不安定であり、その結果、例えば九州大学工業教員養成所では、同大学工学部への無条件編入を求めた学生闘争が繰り広げられたこともありました(1969年)。


京都大学工業教員養成所の備品シール
(工学部学生実験用の器具より)
備品シールの写真

京都大学工業教員養成所について

京都大学工業教員養成所は、臨時措置法が公布された1961年(昭和36年)5月19日に、宇治キャンパス内に誕生しました。それまで同キャンパス内にあった教養部(現・総合人間学部)宇治分校が吉田キャンパス(吉田分校)に統合され、空いたスペースに発足した格好でした。

京都大学工業教員養成所には、電気工学、工業化学、土木工学の3学科が置かれ、学生定員は1学年当たり各学科40名ずつ合計120名でした。1961年7月29日に第1回入学式が挙行、9月11日に授業が開始され、1964年3月25日に第1回卒業生の91名を社会に送り出しました。

同養成所の授業は専門教育科目に重点が置かれ、それに基礎教育科目と教職教育科目とが加えられていました。カリキュラムの基本方針は、高校教員に必要な広い教養と高い専門知識を3年間という短期間に身につけさせることであったため、必然的に授業科目数が多くなり、1週間の授業時間数は各学年学科とも44時間近くあり、課外活動はほとんど出来ない状態だったといわれています。専門学科目の授業時間数は工学部を上回るほどで、しかもほとんどが必修科目でした。当時の工学部ではまだ導入されていなかった、新しい時代に即応した科目編成が採用され、また3年次後期に特別研究(いわゆる卒論)も課されるなど、当時の工学部をむしろ上回るほどの充実した(言い換えれば詰め込みの)カリキュラムが組まれていました。

各年度の入学者数は、120名(1961年)、112名(1962年)、122名(1963年)、56名(1964年)、65名(1965年)、57名(1966年)となっており、後半は定員の半分程度しか入学しなかったことがわかります。また年度別中退者数は、16名(1961年)、30名(1962年)、25名(1963年)、3名(1964年)、0名(1965年)、1名(1966年)となっており、設置当初は相当数の中退者を出していたものの、後半は入学者数の激減と時期を同じくして中退者数も減ったことがわかります。これは、同養成所が臨時措置法によって設置された特異な学校であり、かつ上述の通り当初は4年制一般大学への編入学も大学院への進学もできなかったという特殊性が学生の期待に反していたものの、やがてその特殊性がよく理解されてきた代わりに入学希望者も減ったという変遷を表しているものと思われます。この事実だけでも、理念の通りには必ずしもならなかった中途半端な教育機関という側面があったことを示しています。

卒業後の就職状況は、第1期生(1964年卒)91名の場合、高校教員が76名(大半は国公立高校)、国家公務員が2名、民間企業が11名、京大への進学が1名、その他が1名、となっていました。時代が下るにつれて、教員採用試験の競争激化や教員の必要数減という採用者側の都合によって、教員志望をあきらめる者が増え、教員就職率は減少していきました。

国立9大学に設置された工業教員養成所は、国内経済状況が変化し、工業教員もほぼ充足してきたことを受けて、1969年から70年にかけて閉鎖されました。京都大学工業教員養成所も1966年度(第6期生)を最後に学生募集を停止し、1970年(昭和45年)3月に廃校になりました。廃校後、その空きスペースを埋めるように、宇治キャンパスには多数の研究所が移転してきました。

1960年代に9年間だけ存在していた京都大学工業教員養成所ですが、その卒業生は高校教員をはじめ各方面で活躍しており、大学教員になった人もいます。宇治キャンパスには同養成所の旧本館が現存しており、また工学部には同養成所から移管された備品が数多く残っています。なお、同養成所の同窓会として「京大黄檗会」が組織されています。

一昔前の京大には、学部・大学院・医短のほかにこのような学校があったことを、記憶の片隅に留めておきたいものです。

参考文献


筆者宛メール kyoto-u.com Counter