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安陪稔先生は、2011年1月18日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。

安陪稔先生退官記念集(電子版)

【本ホームページについて】

安陪稔先生(京都大学大学院工学研究科電力工学講座電力変換制御工学分野教授)は、1997年3月に定年退官されました。そしてそのご退官を記念した記念集が、同年5月31日に京都ブライトンホテルにおいて開催された同先生の退官記念パーティにおいて配布されました。印刷部数に限りがあったため、お手元に行き渡らなかった方々のために、同記念集の電子版として本ホームページを設置いたしました。

1997年3月25日
2011年1月27日更新

編集:安陪稔先生退官記念集刊行有志の会
[事務局:滝沢修


目次



メッセージ集


非線形振動の研究と安陪アナログ計算機

上田[目完]亮

(京都大学大学院工学研究科電気工学専攻)

 平成9年2月28日,安陪先生の定年退官記念講演会が電気総合館大講義室で行われた.そこでは先生が永年携わって来られた,いくつかの研究課題・成果の概要と研究に従事しておられた頃の回想が語られた.
 先生は最初にアナログ計算機のお話をなさったが,私はつい昨日の事のように感じ,懐かしい記憶を蘇らせながら拝聴させて頂いた.アナログ計算機の研究に着手された行きさつなどは,私の知らないことも多く大変興味深かった. 話の中で,先生は自分の造ったアナコンを一番長く使ったのは上田先生だっただろうとおっしゃったが,私も恐らくそうだったと思っている.大学院の修士,博士から助手,講師の時代8〜9年間にわたって,およそ500(時間/年),延べ4000時間位は使わせて頂いたのではないだろうか.
 現在,身の回りに転がっているデジタル計算機とは異なり,アナログ計算機を使いこなすことは,それほど容易なことではない.当時の私は,周期信号を注入した発振回路に生じる周波数引き込み現象や,鉄共振回路の高調波振動の研究に従事していた.研究の遂行は,アナコンの前に座って,パラメータの値を僅かづつ変えながら,アナコンの中で生起している振動現象を定量的に観察していた,の一語につきる.アナコンは低速度型だったので実に根気を要する作業の連続だった.だが,実時間で振動現象をじっくりと眺めることが出来たので,非線形振動現象:過渡状態,定常状態,分岐現象,等の全貌を感覚的に会得することが出来た.
 このようにアナコンを駆使して非線形方程式を解きまくったおかげで,私は学位論文を仕上げることもできたし,私にとって記念すべき幾編かの論文を著すこともできた.
 ところが,歳をとってから実感することは,このようなスタイルで研究を推進出来たのは,アナコンの動作原理からハードウエアの隅々までを熟知した安陪先生が横に控えて居て下さったから,である.幾ら立派なメーカー製のアナコンがあったとしても,常にそれを best condition に保つことが出来ていなければ,私が行ってきたような研究を遂行することは出来なかったと確信している.
 アナコンは使用中にトラブルを生じるのが普通である.当時の私は,トラブッたら何時も『安陪さん,お願いします』と SOS! を発していた.(“先生”と言わずに,“さん”呼ばわりの御無礼をお許し願いたい.当時の雰囲気を表したいので.)この一言で,嫌な顔もされず,何時も快く面倒を見て下さったのは,実に頭の下がることであった.
 私も癖のある人間である.嫌な顔をされなくても,心の中でその様に感じて居られれば,私は敏感に嗅ぎとって SOS! を発しては居なかっただろう.そうだったとすれば,研究の内容も方向も変わっていたに違いないと思っている.私が従事してきた基礎分野の研究は実に些細な環境条件で,発展の方向が変わり得るものと思っている.この様な良き先輩に巡り会えたがゆえに成し遂げる事が出来たことは少なくない.大きな幸運だったと喜んでいる.
 先生の御退官に際し,長年にわたって御指導・御鞭達・御助力を下さった先生の御好意に対し,衷心から御礼を申し述べさせて戴きたく拙文を著した.有難うございました.今後とも,健康に留意しつつ益々の御活躍をお祈り申し上げます.

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安陪先生のアナコン

倉光正己

(京都大学大学院工学研究科電気工学専攻)

 安陪先生の御退官に当たり、若い方のご存じない昔話を書かせて頂きます。
 安陪先生は、私が4回生で配属された、林千博先生の研究室の大先輩であっ た。振り返ってみると、当時、研究会で林先生にしぼられていたメンバーの中 で、私の10年ほどの先輩から数年後の後輩までで、後にあちこちの大学の先 生となられた方が軽く十指を越えているから、何ともすごい研究室だったのだ なといま改めて思う。当時、千博研(林研がいくつかあったのでこう呼ばれて いた)では非線形振動の研究が主流だったが、まだデジタル計算機は身近には なく、手回しのタイガー計算機か電動式のフリーデン計算機くらいだったから、 アナコンが研究の強力な武器であった。研究室のアナコンは、一台の演算増幅 器がファイルロッカーの引き出し1つより大きい感じで(もちろん真空管式)、 アナコン全体は大型洋服ダンスを4つ、5つ並べたくらいあったから、それが すべて安陪先生の手作りになるものだと聞いて驚いてしまった。積分器がまと もに動き始めるまでのいろいろの苦労話は、その後、安陪先生から折に触れお 聞きすることとなった。私は4回生、大学院の研究で、このアナコンに散々お 世話になった。その後遺症?で、安陪先生のお名前を聞くと、条件反射的にこ のアナコンのことを思い浮かべてしまう。
 研究会ではアナコンの周辺機器の開発がよく話題になったが、その要求に対 して安陪先生が手書きのきれいな回路図を出されると、千博先生がいつも満足 そうな顔をされていたのを思い出す。私自身はハードウェアにはからっきしダ メな不肖の後輩であった。それでも、門前の小僧とはよく言ったもので、イン ターンで某研究室の某先生のところに行き、簡単な回路の半田付けを命じられ たとき、見よう見まねで、配線がシャーシーの壁面に沿って直角に曲がるきれ いな安陪先生(千博研)流の腕を発揮した。自分ではまんざらでもないできだ と思っていたら、某先生がやってきて、時間をかけて何を馬鹿なことをやって いるのか、2カ所をまっすぐつないでしまえばいいのだ、と叱られてしまった。 研究室によって、文化に違いがあることを実感したことであった。
 夏には研究室旅行をしたが、研究資料を持っての集中勉強会を兼ねることが 多かった。こういう機会には、安陪先生など諸先輩から普段は聞けない話を聞 くことができた。
 こういう話をしていると、いかにも昔の学生は勤勉だったみたいだが、スポ ーツなど、遊びもよくやっていた。習慣となって、毎日5時頃になると、皆が もぞもぞし始め、結局誰かが、ちょっとやろうか、と声をかけるのだった。バ ドミントン、卓球などが主な競技だったが、学生だけでなく、若手の先生方も 一緒にやった。若い方には信じられないかもしれないが、西川よし一先生の卓 球、上田よし亮先生のバドミントンなど、なかなかの腕だった。なかでも安陪 先生はテニスを筆頭に、スポーツ万能であったから、学生も歯が立たなかった。 だから、たまにまぐれでバトミントンで勝たせてもらったりすると、大得意も のであった。先生の新婚のお宅に悪たれ後輩どもが押し掛けてご迷惑をおかけ した記憶もある。
 そういう時代からウン十年、安陪先生にはずっとお世話になりっぱなしであ った。本当に長い間、いろいろありがとうございました。どうかこれからもお 元気で、我々をご指導下さいますように。

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学園紛争の頃

伊藤一雄

(元職員,元京都市立高等学校長・現教育学部非常勤講師)

 高校の教師をしながら、研修を兼ねて学生実験のお手伝いをさせていただいたことが、ついこの間のことのように思い出される。
 その実験は他学科の学生を対象にしたもので、当時は一般電気工学実験と呼んでいた。学園紛争の最中で、時計台の封鎖などがあり、実験はしばしば中断された。それでも安陪先生は、黙々とハンダごてを手に実験器材の補修や、ご自分の研究を続けられていたのが印象に残っている。講義も他学科の学生にも分かりやすく解説され、しかし要点はきちんとまとめられていたのに感心したこともあった。先生の今後のご活躍とご健康を心より念じております。

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安陪稔先生の思い出

永井 久

(元助手,詫間電波高等専門学校)

 京都大学に31年間勤務して,二度,研究室を配置換になり,「時の流れに流されて」を痛感致 します。安陪稔先生の研究室には,平成5年に所属配置換になり,4年間と言う短い期間でしたが, 安陪稔先生の薫陶を得る好運に恵まれ,やっと運命の女神が微笑んでくれた事に関して,心より感謝 しています。
 しかし,振り返って見ますと京都大学に勤務したことは,自分が選択した人生ですが,今は亡き 阪口忠雄先生を始め,板谷良平先生,安陪稔先生も全て,何だか間接的に人間関係がある諸先生がた であられ,運命的な出会いになっていた様です。
 閑話休題,安陪稔先生の御講義を拝聴する機会はごさいませんでしたが,研究室会議の御発表や 御講演を拝聴する機会が多だ有りましたが,人に的確にアピールする安陪稔先生のお話ぶりは,ふと 安陪稔先生のお人柄が偲ばれて参ります。また,電気工学実験の際にも誠心誠意を持ってご指導さ れていらっしゃるお姿に接する機会があり,さらに卒業研究に関しても,マン・ツー・マンで御指導 されていらっしゃった事が目に焼き付いています。正しく安陪稔先生の人間性を痛感する次第です。
 ドイツの大学教授の条件は,その人が果して教授に価するか否かは,「その人の人間性」を第一 条件に上げられ,才能は第二条件であると言われています。このことから考えるに,安陪稔先生は, 真正正銘の大学教授であられたと評価されます。
 教育は「教師と学生の共同作業」であるため,教える人の人間性によりその効果が学生に及ぼす 影響力が変わってくるものと思われます。自分が同じ様な立場に立たされている今,安陪稔先生を お手本に,教育に全力を注ぎたい希望でいっぱいです。安陪稔先生,どうか今後とも宜しく御指導, 御鞭撻の程をお願い致します。

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昭和43年の思い出

森 武宏

(昭和45年修士修了,京都工芸繊維大学 工芸学部電子情報工学科)

 安陪先生門下では、筆者は光栄にも早い時期の卒業生に加えて頂いています。 筆者が修士課程1回生であった昭和43年には、先生は浮田先生の講座の少壮助教授であられました。 当時、御自身の居室は確かレンガ建ての旧館内にあったと思うのですが、担当されている学生の研究室は電気”新”館(現在の電気系の建物群の北端の建物)の4階西北端にありました。 2スパンの広々とした部屋の片隅に、一年先輩の小鹿丈夫さん(現岐阜大学工学部教授)と筆者の二人が向い合わせに机を並べ、他の隅にはシミュレーション用のアナログコンピュータと抵抗ネットワークが置かれていました。 確かこの年の夏近くの頃のことだと思うのですが、筆者は、西端4Fのロケーションのせいか部屋が暑いのと勉強嫌いの両方で研究室には余りいつかず、先生の目には定めしぐうたらな学生と写っていたと思います(写っていただけではないのですが...)。 ところが、このような学生にも安陪先生は楽しい思い出をつくって下さいました。 他の研究室が海水浴だ合宿だと繰り出す中で、先生は我々は一つドライブに行こうと提案されたのです。 行き先は美方五湖、足は先生御愛用の三菱自動車製の軽自動車でした(先生は日本のモータリゼーションに軌をあわせて乗り物を換えていかれたようです)。 大人3人をのせての山坂は小さな2サイクルエンジンにはしんどそうで煙をあげて抗議していたのを憶えています。 ドライブに誘い、運転までして頂いている先生の心遣いに気づかず、筆者はのうのうと移りゆく車窓を楽しんでいました。 サービス精神豊かな安陪先生の忘れ得ぬ思い出の一つです。

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劣等生からの一言

道本清治

(昭和46年修士修了,富士写真フイルム(株)生産技術部設計グループ)

 安陪先生、定年退官おめでとうございます。
 この前お会いしたのは、5年以上も前でしょうか。安陪研究室を卒業?させていただいてから、もう25年です。(安陪研での最劣等生かな?)安陪先生のお蔭で、卒業させて頂いたようなものと思っております。あの頃は、非線型と言う言葉が流行っていて、"最大傾斜法(Lagrange Method)" でしたっけ、教えて頂いて、卒業できたようなものです。又、当時は、大学紛争(全共闘運動)真最中で、安陪先生とも議論したことを思い出します。私の結婚式では、仲人までしていただいて、本当にありがとうございます。
 私は、富士フイルムに入ってからは、ずっと工場生産設備の開発設計という業務(生産技術)に携わり、何とか部長の肩書きも頂きました。大学時代もあまり勉強しませんでしたが、今も“感じニアリング”で仕事をしており、そろそろ勉強の必要性を感じております(遅すぎる?)。そういえば、電気主任技術者2種の資格を取るためには、1科目足りなかったのですが、こういう場合何かうまい方法無いでしょうか?
 最近、女房と二人でスキューバダイビングを始め、年に2回位は海外に潜りに行っています。現実と隔離された、美しい海の中に身を置いていると、ストレスがスッーと抜けてゆきます。これからも自分の趣味を大切にし、焦らず歩いてゆくつもりです。
 安陪先生も健康に留意され、これからも充実した人生を歩まれることを、願っております。又一度、お会いしたいものです。寄稿というより、お便りそのものになってしまいました。

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安陪先生は巨人ファン

松木純也

(講師)

 思い付くままに先生の思い出を書かせて戴きたいと思います。
 小生が学生時代、先生は電気系教室随一のダンディーと評判でした。その根拠は、先生はダンスが大層お上手で、真偽の程は確かではありませんでしたが、それで奥様をハントされたという噂でした。
 なお、最近伺ったのですが、先生は、大学院修了後一時、日立におられましたが、その間、東京で3カ月ほど、ダンスのレッスンに通い、ダンス技術を修得されたそうです。
 卒業後15年ほどして、不思議な御縁で先生の研究室に所属するようになりました。「一般電気工学実験」という電気系以外の学科の学生用の授業がありましたが、毎学期、初回のガイダンスで、先生は必ず、黒板に回路図や文字を丁寧に 書きながら、実験に当たっての注意事項を説明されました。 そのお姿は眼に焼き付いております。 なにしろ、毎年春と秋ですから、20回にはなるかもしれません。 先生の授業は、学生の人気ナンバーワンと伺いましたが、それも当然だと思います。
 ダンスと授業のことのみ考えましても、先生がいかに丁寧に相手に接する方であるかが分かると思います。
 ただ、甚だ残念なのは、先生がプロ野球巨人のファンであられたことです。小生は、阪神ファンなので、巨人が調子が悪いときは、気を使いました。ただ、 幸か不幸か、ここ10年は、阪神は低迷し続けており、気を使うときは、そう 多くはなかったのですが。
 逆に先生には、気を使って戴きました。どういうわけか、毎年暮れに阪神タイガース のカレンダーが送られてくるのですが、それは先生から小生に直ちに転送されました。 2年ほど前には、阪神電鉄の方からタイガースのマーク入りのネクタイピンを貰われましたが、 それも小生が戴くことになりました。有難いことでした。
 先生からは、学問上も日常の人との関わり方についても多くを丁寧に教えて頂き 感謝しております。
 どうぞ今後も御健康にて若人の教育と研究指導に携わって戴きますよう、お祈り致します。

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困ったものだ!

玉置啓子

(助手)

 安陪先生との出会いは私が京都大学に勤めて以来ですから、20数年前のことになります。皆さんもよくご承知のように、安陪先生は大変几帳面で行き届いた方です。誰に対しても分け隔てなく丁寧に対応されます。そのため私は困った、というより自分を恥ずかしく思うことが度々ありました。先生と私の会話だけ聞いていると、どちらが偉いか迷う人がきっといることでしょう。
 先生は私が忙しそうにしていると何も言わずに訪ねてこられた方に自らお茶を出されます。何かの拍子に顔が合うとお客さまは「何だ、先生にお茶くみさせて、気が利かない」と怪訝そうに私を見ます。また、某コピー機メーカーが契約をしているにも関わらず、1年間メンテナンスに来なかったことがありました。抗議をするに当たり「教授も大変お怒りです」と一言付け加えたところ、慌てて飛んで来た係の人に先生が丁寧に応対されるので、怒っていることが伝わらず、抗議をしようとする私の意図は挫けてしまいました。答案用紙の一件も忘れられません。あるとき、教務係から余った答案用紙を持ってきてほしいという電話がありました。たまたまその時手が放せなかったので、「1時間ほどすれば持っていけるが、今すぐなら取りに来てほしい」と言って電話を切ったところ、とたんに教授室の電話が鳴り、そのあとすぐに先生が答案用紙を届けに行こうとされるので、私は大慌てしてしまいました。
 今、昔の書類を整理していて残念に思うことがあります。それは私の書いた清書のコピーばかりが残っていることです。ただ鉛筆書きというだけで、清書とばかりに見間違うほどきちんと揃って読みやすく、温かみのある字の先生の下書きの方を残しておけばよかったとつくづく後悔しています。私の清書よりずっときれいな下書きでした。字も性格を反映するものですね。清書するときはわざと汚くしているようで、いつも私の心はチクチク痛んでいました。
 ところで、安陪先生の先輩である卯本先生の高名な血液型性格判断によれば、O型の人はA型の人で苦労するのだそうです。あるとき安陪先生は卯本先生から「大変ですな」と言われたとか。そのとき研究室にいたのはO型の安陪先生とA型の私、なるほどと即座に合点してしまいました。(ちなみに、麻生先生はA型、松木先生はB型、橋本先生はO型とか。)
 なるほど私が困ったのは自分の至らなさからですが、実際には先生の方がお困りだったに違いありません。私は先生に大変優しくまるで親代わりのように接していただいたので、すっかり箱入り(?)部下に育ちました。こんなに近くにいつもお手本があったのに、私に先生の良い影響が多少でも見られるかというと自信がありません。今でも先生が私のボスだったとしたら、私は相変わらず困った、恥ずかしいと言い続け、そして先生はこっそりとお困りになっていることでしょう。
 話は変わりますが、先生は奥様ととても仲がよく、奥様を大切になさっています。奥様が合唱の練習に行かれるときなどにはいつも送り迎えをなさっているようですが、この点だけは私もしっかり見習い、夫に送り迎えをしてもらっています。
 このように先生に薫陶を受けたにもかかわらず出来の悪い不肖の元部下ですが、先生の人となりに一歩でも近づけたらと思っています。
 安陪先生、本当に長い間ありがとうございました。先生のご健康とご活躍をお祈りするとともに、これからもお見捨てなくとお願い申しあげます。

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親子丼と仲人の味は?

川原昭人

(昭和50年学部卒,四国電力(株)総合研修所 技術研修課)

 私は昭和49年に卒論のため浮田研に所属することとなりました。そして全くの偶然で安陪先生にご指導を頂くことになりました。当時安陪先生は助教授でしたが、浮田教授からの信任は厚く、また、講義・研究に打ち込む姿勢は真摯かつエネルギッシュであり、容貌を含め文字通り後光のさす眩しい存在でした。
 先生の研究室内はいつもよく整理・整頓されておりました。私も実験の終了時には後片づけに大分気を付けていたつもりですが、ある朝早く研究室を覗いたとき前日私が片づけた以上に綺麗になっているのを発見し、恥じ入ったことを鮮明に覚えております。また、講義あるいは卒論の指導にあたっては、まず本人によく考えさせタイミングよく助言を与えることで本人が主体的に取り組むよう仕向けておられました。これは簡単なようで実はなかなか難しいことであります。たまたま私は現在、技術者をどう育てていくかを業務の一つとしておりますが、企業においては人材育成にあたり、時間的な制約から教える側は知識の押し売り的になり、従って、受け手も表面的な理解に終わってしまう傾向があります。教える側は忍耐が必要と理解しつつも、ついつい現実に押し流される訳です。これを思うに付け、改めて先生の素晴らしさを再認識している次第です。
 卒業式が迫ったある日、先生ご夫妻主催によるすき焼きパーティーが催されることになりました。日頃肉を食べる機会の少なかったものにとっては、まさにこの時とばかりガツガツと食べまくった記憶があります。誰が言い出したのか定かではありませんが、最後に、親子丼と称してご飯に日本酒をかけたもの、他人丼と称してビール(もしかしたらウイスキー)をかけたものを食べました。奥様はさぞビックリされたことと思います。少なくとも私はそれ以降そのようなものを食したことはありませんが、ひょっとすると言い出しっぺ、あるいは参加者のうち誰かは今も病みつきになっているかもしれません------。
 卒業後数年して、畏れ多くも私の結婚式の仲人を先生にお願いいたしました。田舎の見栄えのしないひなびた会場で行うにもかかわらず快く引き受けて下さり、そして式では予定時間きっかりのご挨拶を頂きました。正に講義と同じく簡明でメリハリの利いたもので、当会場での歴史に残るご挨拶であったと今も語り草になっております。それだけではなく、奥様にも美しい歌声で場を盛り上げていただきました。田舎のおじさん・おばさん達が賛嘆の声を漏らしたのは言うまでもありません。これら二つが無ければごくごく平凡な式になっていたことでしょう。このように私にとっては非常に有り難かった訳ですが、先生にとっては全くの悪夢であり、以降二度と仲人など引き受けるものか、との決意を固められはしなかったかと危惧しております。
 先の2月28日、先生の退官最終講義を拝聴いたしました。程良い緊張感と、時々の睡魔との戦いの中で、話が私の卒論テーマに及ぶとさすがに身を乗り出して聞き入り、そして裏話を伺うに付け「なるほど!」と20年ぶりに納得した次第です。同時に卒論作成のためとはいえ、先生に多大なご苦労をお掛けしたこと、そして現在の私があるのも先生のおかげであることを再認識いたしました。改めて心より感謝申し上げます。
 先生におかれましては引き続き教鞭を執られるとのこと、益々のご活躍をお祈りしております。

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安陪先生へ感謝を込めて

沖 正彦

(昭和55年修士修了,神戸市住宅局営繕部設備課)

 安陪先生。長い間の研究、教鞭生活、本当にご苦労様でした。また色々と お世話になり、有難うございました。
 私が安陪先生のもとを卒業して、もう20年近くなりますが、今でも当時のこ とがふつふつと思い出されます。私は他大学からの進学組でしたので、入学 当時はどうも勝手がわからず居心地が悪かったのですが、安陪先生のやさし いアドバイスが、そんな思いを吹き飛ばしてくれました。安陪先生からは直接 指導を受けませんでしたが、当時助教授でいらした先生が中心になり研究室 を引っ張って行かれてた様に思います。そういうお忙しい状況でありながら、 学生へはいつも暖かい配慮をされていらっしゃいました。全く学生にとっては、 理想的な先生でいらしたのではないでしょうか。
 一度先生のご自宅に何人かの学生でおじゃまして、大変ご馳走になったこと を覚えています。奥様、お子様と一緒にわいわいと過ごさせて頂いて、下宿し ていた私にとっては大変嬉しかったし、また将来この様な家庭を持てたらと思っ たものでした。
 その先生がもう京大を去られることは、非常にさみしく思いますが、この先ご 壮健で第2さらに第3の人生を歩まれることを祈念致しております。また、先生 のおやさしい笑顔にお目にかかれることも楽しみにしております。

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安陪先生の思い出

平田 健志

(昭和53年学部卒,昭和55年修士修了,中国電力(株)徳山電力所 制御通信課)

安陪先生は、学生時代には単位をくださる優しい先生として有名でした。
あまり居心地が良すぎて、学部から修士までついつい居着いてしまい、いろいろご苦労をおかけしましたことに対しまして、この場を借りてお詫びとお礼を申し上げます。

さて、いよいよ本題です。
わたしは、昭和59年に結婚しましたが、結婚式には遠方にもかかわらず、主賓として来ていただきました。
式場は、山口県長門市の湯本温泉という場所でしたが、私が田舎育ちのため、結婚式の参列者も近所のおじいさんおばあさんがかなりおりました。
ほとんどの人が大学の先生それも京大の先生など見たこともなかったため、先生のスピーチの後「さすがに話が上手だ。さすが京大の先生。」とお年寄りの間でパンダ並みの人気であったことは多分先生はご存知なかったと思います。
おかげさまで、私も小学3年の娘と3歳の息子に恵まれ親バカ父さんをしている今日このごろです。

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安陪先生とパワーエレクトロニクス研究会

伊瀬敏史

(パワーエレクトロニクス研究会 元庶務幹事,大阪大学大学院工学研究科電気工学専攻)

 安陪稔先生このたびのご退官心よりお慶び申し上げます。安陪先生にはパワーエレ クトロニクス研究会の会長として1995年4月より1997年4月まで本当にお世話になりあ りがとうございました。思いますに、教室主任としての重責の傍らパワーエレクトロ ニクス研究会会長としてご努力され、研究会の発展に寄与されましたことは、敬服に 値します。安陪先生はいち早くパワーエレクトロニクスの研究に着手され、その中で 、特許にもなりました複巻構造の直流電動機を用いた電気自動車の開発、誘導加熱、 天井蛍光灯を用いた搬送車の誘導方式など数多くの独創的なご研究を行って来られま した。パワーエレクトロニクス研究会におきましても、論文誌のA4版化、紙上討論の 実施、ロゴマークの制定など多くのお仕事を行われました。安陪先生のお姿を拝見い たしますと「姿勢は低く、志しは誰よりも高く」という言葉が似合うように思われま す。まだまだお元気にお見受けいたしますので、ご退官後もますますのご活躍をお祈 り申し上げます。

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すばらしい出会い

片木 威

(平成6年論文博士,神戸商船大学 商船学部)

 人生ちょっとしたことで,すばらしい出会いがあるものである。
 博士論文口頭試問での問題であった「三相整流ブリッジを描いて下さい。」これが,安陪先生との出会いである。しかしこの時は,この出会いが僕の人生に大きな影響を及ぼすとは,思いもしなかった。
 その後数カ月が過ぎ,僕の博士論文の主査であった岡田隆夫先生(京都大学名誉教授,現在関西大学教授)から「安陪先生がパワーエレクトロニクス研究会の次期会長になるのだけれど,君,庶務幹事をしてくれないか?」との依頼を受けた。当時僕はパワーエレクトロニクス研究会の評議員会に名を連ねているだけで,積極的にパワーエレクトロニクス研究会に参加しているわけでなく困ったが,僕に依頼が来るほどだから余程人選が難航されているようで,安陪先生に教示されながらなんとか大役をこなせればと決心した。しかし,その後阪神・淡路大震災で神戸商船大学は壊滅状態で,パワーエレクトロニクス研究会の事務局が設置できない。そこで先生のご好意で京都大学安陪研究室に机を一つお貸りして,パワーエレクトロニクス研究会の仕事が始まった。これが,安陪先生ならびに橋本先生(パワーエレクトロニクス研究会会計幹事)にご迷惑をかける始まりであった。何しろ僕は多くて週に2日しか京都大学に行くことができず,京都大学に行けば行ったで,その2日間でパワーエレクトロニクス研究会の仕事を終えたいものだからほとんどの仕事が宿題となって安陪先生ならびに橋本先生にお任せすることとなった。当時教室主任をしていた安陪先生はこのような厚かましい僕を叱責する気配もなく,「いつもすみませんね。」のお言葉をかけていただいたものであった。そのお言葉に増長して益々仕事量が増えた両先生の負担は余りあるものだったと思う。
 また,雑談の折りに「大学は復興しましたか。」の優しいお言葉もいただき,どれほど震災で荒廃していた僕の心に安らぎを与えて下さったかは計り知れない。このような先生の優しさは2年間お邪魔した安陪研究室の学生さんに対しても同様であり,先生の懐の大きさを痛感した。
 このように安陪先生は人の痛みのわかる優しいすばらしい先生で,安陪先生のような先生になりたいなあと思うようになった。振り返るに,岡田先生の「庶務幹事をしてくれないか?」の一言で,目標とする先生と出会えたことに僕は出会いのすばらしさに驚嘆するとともに深く感謝しております。無事2年間大過無くパワーエレクトロニクス研究会の仕事ができたのも安陪先生のご指導のお陰といつも心にとめております。本当にありがとうございました。
 今後ともご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします。なお,ご健康のため禁煙とは言いません。節煙して下さい。−愛煙家の片木より−
 先生のご多幸を祈りつつ・・・・・・・・

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安陪先生と私

乾 義尚

(昭和56年学部卒,京都大学大学院工学研究科電気工学専攻)

 私が初めて安陪稔先生を知ったのは,学部 3 回生の「電気機器第二」の講義で した.黒板に書く字や図が下手な教員(私もその中に入りますが・・・)が多い 中で,安陪先生のきれいな字や図そしてたいへん分かりやすい講義はとても印象 に残りました.内容は誘導機だったと記憶しています.
 昭和 55 年の春,4 回生になって配属研究室を決める際,私は,安陪先生の講義 が印象に残っていたのと,回転機のパワーエレクトロニクス制御関係の研究をそ の当時やりたいと思っていましたので,迷わず安陪研究室の前身で当時安陪先生 が助教授をされていた一般電気工学講座を選びました.ところが,その年は私が やりたいと考えていた研究を行う計画はなかったようで,結局,当時助手をされ ていた大嶋健司先生(現在は埼玉大学教授)に説得されて,卒業研究では大嶋先 生のご指導で非線形方程式に関する数値シミュレーションによる研究を行いまし た.しかし,何事もやってみなければわからないもので,卒業する頃には数値シ ミュレーションによる研究がとても面白いと思うようになっていました.という ことで,私は卒業論文の作成で直接安陪先生のご指導を受けたわけではないので すが,その年は,前任の浮田勇教授が退官された直後で,その後の安陪研究室の 発展からは想像もつきませんが,所属学生が学部・修士合わせてもわずか 6 名 と非常にこじんまりとした研究室でしたので,最近の卒業生よりも安陪先生と接 する機会は多く,安陪先生の几帳面ではあるが堅苦しくなくしかも親切で誠実な お人柄に十分触れることができました.さらに,卒業論文の指導教官の欄に安陪 先生の名前を書いた最初の卒業生ということになり,たいへんラッキーでした.
 その後,大学院からは,私は,卯本重郎教授(現在は名誉教授で福山大学教授) の研究室(電気工学科電気磁気学講座)の所属となり,現在はその研究室が名前 だけは大学院電気工学専攻電磁工学講座電磁エネルギー工学分野というとても長 たらしいものに変わりましたが,まだそのまま京都大学の電気系教室に居残って います.研究の方は,回転機関係ではなく,学部時代にその面白さを知った数値 シミュレーションを続けており,非線形振動の解析は行っていませんが,MHD 発 電機関連のプラズマ,電磁流体,電力回路等の解析を行っています.ということ で,私が安陪先生の研究室に所属したのはたったの 1 年間でしたが,その後の 研究の方向が決まった重要な節目の時期でもありました.
 私もずっと電気系教室にいますので,研究室をかわってからも安陪先生にはいろ いろと個人的に相談に乗っていただき,たいへんお世話になりました.本当にあ りがとうございました.そして,たいへん身勝手ではありますが,これからもお 世話になりたいと思っています.よろしくお願い申し上げます.

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オペアンプとモータドライブ

奥田隆康

(昭和56年学部卒,川崎製鉄(株)水島製鉄所 制御技術部制御技術室)

 安陪先生から教わったことは数々あるが,オペアンプとモータドライブに関しては就職してから特に役だったものである.
 製鉄所の電気設備の範囲は広く,大から小まで様々な設備があるが,そういったものの中でオペアンプによる制御,モータドライブは基本的な素養として今でも大いに役だっています.

 先生,長い間何かとありがとうございました.今後とも変わらぬご鞭撻をいただきたく,お願い申し上げます.今後もお元気でおすごし下さい.

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安陪先生と私

宮内 肇

(元助手,熊本大学工学部 電気システム工学科)

 安陪先生のことを私が初めて知ったのは、私が学部3回生、昭和55年の ことでした。3回生から専門教育が始まり、どの講義も満足に理解できずう んざりしていました。次も訳の分からん講義やなあと皆でぼやきながら電総 中講義室へ入っていくと、驚くほど丁寧に書かれた回転機(おそらくステッ プモータだったと思います)の図を前にして、にこやかな先生が学生の質問 を受けているではありませんか。それが、安陪先生との初めての出会いでし た。4回生配当の自動制御用電気機器の講義の終了後、質問を受けておられ たところへ、私達が入っていったのでした。皆で「来年になったらあんな分 かりやすい講義があるんやなあ。まあ、今年はしんぼうしょうか。」などと 言い合っていました。
 しかし、安陪先生のその分かりやすい講義を、私達は受けることはできま せんでした。安陪先生の前任教授の浮田先生が退官されたために、学生には 何の断りもなく、自動制御用電気機器の講義はなくなってしまったのです。 4回生になって時間割をもらい、自動制御用電気機器の講義がないことを発 見した私達は非常に残念に思い、そして、一体どうなってるんだと憤ったも のでした。
 浮田先生が退官されたために、卒業研究の配属のときも助教授の安陪先生 のみの講座となり、ましてや、研究室は情報棟(詳細な事情は皆さんご存知 でしょう。でもあえてこう書きます)にあるしで、私達の学年は安陪先生と の付き合いが最も薄い年となってしまいました。私も、卒業研究から林宗明 先生の研究室に入り博士課程2年になるまで、「安陪先生って方が居られる な」くらいの印象しかありませんでした。
 博士課程2年のある日、突然、林先生が私を呼んで、助手の藤戸先生が辞 められて安陪先生が助手を捜しておられる、安陪先生のところの助手になる 気はないかと聞かれました。願ってもないお話なので、喜んでお引き受けす ることにしました。これが、安陪先生と親しくさせて頂くことになったきっ かけです。
 早速、安陪先生にご挨拶にお伺いしますと、安陪先生開口一番、「ああ、 君だったんですか。」 安陪先生は、林先生から助手になる奴がいたと言わ れていたものの、電気系の中をうろうろしているどいつだろうと心配なさっ ていたようでした。今となっては、先生の言われた「ああ、君だったんです か。」に続く言葉が落胆の言葉だったのではと思っております。
 次の年、昭和60年4月から平成5年3月に熊本大学へ移るまでの8年間、 安陪先生の元でお世話になりました。その間のことは、その間に在籍されて いた皆さんがいろいろとお話ししてくださるでしょう。ただ、私が、元々電 力のシミュレーション屋で、安陪先生のように実験を主体に研究をするタイ プではなかったので、安陪先生のお手伝いをあまりしませんでした。それに、 何分ずぼらな性格のために、博士論文をずるずると引き延ばしてしまいまし た。そのため、安陪先生は、内心変なのを助手にしたなあ、しまったなあと 思われていたに違いありません。安陪研にいる間、サーボモータの実験をさ せて頂いていたのですが、これに関する論文を一編も出さなかったのは、本 当に私の至らないところでした。熊本大学へ移り、昨年度大型予算で実験設 備を揃える段になって、安陪先生のところでもっと実験の修業をしておけば よかった、安陪先生にいろいろと教えて貰っておけばよかったと後悔してお ります。
 ともかく、安陪先生、お疲れさまでした。これからも新天地でのご活躍を お祈りしております。

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安陪研究室の思い出

喜多 一

(昭和57年学部卒,東京工業大学 大学院総合理工学研究科 知能システム科学専攻)

 私は昭和 56 年度に卒研生として安陪先生の研究室に在籍していました. 当時,まだ先生は助教授でいらっしゃったので電気系教室の慣例では 安陪研とは呼ばれておらず,講座名で呼ばれていました.その後,大学院 では西川研究室に移り,また助手として電気系教室に職を得ましたので 研究室は異なりますが,安陪先生にはずいぶん永くお世話になりました. また,本年 4 月に東京工業大学へと移って参りましたが,安陪先生の ご退官と同じ時に京都を離れることになったのも何かのご縁なのかなと 感じております.
 さて,私が4回生の時のことですが,小倉先生の確率過程の授業に出席しまし た.出席者が大変少なく, 淋しい授業だな,と思っていたところ小倉先生が話しかけて来られて, 「君はどこの講座なのか?」と聞かれました.「安陪先生の研究室です.」 とお答えしたところ,「カオスをやっている研究室だね.」とコメント されました.当時は「カオス」と言われても学部学生には耳にしたこと さえない,目新しい単語でした.そこで研究室に戻って安陪先生に「小倉先生に カオス,って聞いたのですが何ですか?」と尋ねました.安陪先生が丁寧に Duffing 方程式に生じる奇妙な現象を説明して下さったところまでは良かったの ですが,「ここから先は良く分かっていないから卒論のテーマとして研究 しなさい.」と突然テーマを決められてしまいました.ずいぶん薮蛇だった なと今でも思っています.

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安陪先生と安陪研究室の思い出

鷲見和彦

(昭和59年修士修了,三菱電機(株)産業システム研究所)

 安陪先生のご退官を迎えるにあたり, 先生のご功績を讃え, また 在学中はもとより卒業後も さまざまの形でご指導ご助言頂きましたことを感謝いたします. 私は, 安陪先生が教授に就任された 1982 年に修士課程の学生として 安陪研にお世話になりました. 当時, 勉学よりも面白いことがいっぱいあった若者でしたので, 安陪先生の本当のお考えや研究の状況などはろくに考えもいたしませんでしたが, 思い付くままに安陪先生や研究室の思い出を述べさせて頂きたいと思います.
 私は学部では宇治構内のオートメーション研究施設にある桑原研究室(現: 応用システム科学工学科 英保研究室)にお世話になりましたが, 院試の成績も思わしくなく行き先を探しあぐねておりましたところ, 喜んで引き受けてくださいましたので2年間お世話になることになりました. 4月になって研究室にやって来て見ると, 先輩の M2 は尾崎さんだけで, 4回生の時, 安陪研究室にいた同期の学生は 就職か別の研究室に移って誰も残っておらず, 私と理学部から入学して来た三宅君の三人だけの学生数でした. 私も三宅君も最初のころはあまり真面目な学生ではなかったので 研究室には尾崎さんがお一人だけということが多かったと思います. 学生の部屋は情報棟地下にあり普段は人通りもありませんし, 本当にひっそりとした研究室でした.
 その5月に安陪先生は教授に昇任され, 4回生も8人も配属になったので 急に賑やかになりました. このころの研究テーマは, 安陪先生がアナログコンピュータや デジタルコンピュータを用いた非線形振動現象の研究と 高周波インバータや回生制動型電気自動車等のパワーエレクトロニクスの研究を 指導され, 大嶋先生がアーク溶接の研究を担当されておりました. 研究室の中で最も特徴ある設備は 安陪先生が自ら製作されたラック数台に及ぶアナコンで, 一階の実験室に安置されていたのですが, 当時の私は, ``研究室に修士の学生が少ないのは学生の住環境が悪いからだ. 学生の部屋を居心地良くすれば研究室が繁栄する'' などと勝手なことを 考えて, 地下の学生部屋をこの一階の実験室と交換することを画策し, 渋る安陪先生のお許しを得てようやく地上の住人となりました. 今から思えば, (リーク電流を抑えて)精度を向上させ, (コネクタやポテンショの接触不良を抑えて)信頼性を確保するために 環境(エアコン等ありませんでしたので, 自然環境が唯一の要因です)に 苦心されていた先生のご配慮を全く顧みない無茶なことを言ったものだと 冷汗がでる思いです.
 安陪先生は学生にも非常に丁寧な対応をしてくださり, また, 実験の装置の製作やメンテナンスに関してもきちんとしたやり方を自ら お示しになったことを感慨深く思います. 安陪先生の作られた電子回路基板の配線は 直線と直角で構成される一種の美しさを醸し出しており, ながれるようなハンダの形状も私にはなかなか真似のできないものでした. また, 雑談の際には, 安陪先生ご自身が指導教官から 電子回路工作を厳しく指導されたことなどを楽しく伺ったものです. 限られた予算の中で研究を運営されるために, 実験が修了して使用済の電子回路もきちんと保管され また新しい装置に再生されて行く様も印象に残っております.
 一方, 安陪先生はご自身の研究に対しても筋の通った気概を感じさせる方でした. ``大企業のやりそうなことや小数の大企業のためになるようなことではなく, もっとたくさんの小さな会社や社会に役に立つ研究をする'' というのが先生の研究方針でした. 当時の私にはあまり良く理解できませんでしたが, 大学とはどうあるべきか, 社会にはどう貢献するべきかと いう思想に先生は力点をおかれていたのだということが, 卒業後何年もたってようやく理解できるようになって来ました. 実用に近いパワーエレクトロニクスのご研究は この様な先生の思想に基づいたもので, 機器レベルでできるエネルギー効率の向上という功績も大きかったと 思います.
 私には安陪先生の教えのほんの一部だけが分かった段階かも知れませんが, 先生のご指導に感謝し, 今後のご健康とご活躍を祈念いたします.

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安陪先生本当にありがとうございました

野口 洋

(昭和58年学部卒,三菱電機(株) 産業メカトロニクス計画部)

私が安陪先生にお世話になり始めたのは昭和56年からだったと 思います。先生が教授になられた年ではなかったでしょうか? 安陪研時代は研究だけでなく、あらゆる面でお世話になりました。 バトミントン大会などのイベントに、応援者としてではなく、 選手として出ていただき、学生相手に奮闘して頂いた姿がなつかしく 思い出されます。今から思えば、教授を20歳そこそこの人間の スポーツ大会に引っ張り出すなど非常識極まりないと恥ずかしく思います。 その後も、就職、卒論から結婚式の主賓までお世話になりっぱなしで 申し訳ございません。
ご退官後もますます充実した人生を送られます様お祈り申し上げます。 体には充分ご留意ください。

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安陪研究室について想うこと

東 浩一

(昭和60年修士修了,株式会社安川電機 メカトロ機器事業部東京工場 開発部サーボ開発課)

 私が安陪研に在籍したのは1983年4月から1985年3月までの修士の 2年間でした。いまから12年以上前のことで記憶も薄れてきています(忘れ たいことも多い?)ので、今の時点で安陪研について想うことを記したいと思 います。
 その当時の安陪研では電気自動車やアナログ計算機による非線形解析、画像 処理を用いた溶接線検出などを研究テーマとしていました。今考えると多彩な 分野を対象にしていておもしろいと思いますが、如何せん学生(私のこと)に 恵まれずあまり成果を上げられなかったように思います。
 当時はパソコンが一般的に普及し始めたころで工学部の研究も計算機シミュ レーションなどが主流になり始めた中で、安陪先生は実際に物を組み立てて動 かすのが好きな様に見受けられました。今メーカで嬉々として物づくりをして いる身を考えると、安陪研にお世話になったのも何か縁があったのかも知れま せん。安陪先生作の回路基板の配線の見事さは良い思い出になっています。
 今メーカに入ってくる人で学生時代に物づくりを経験してきた人は工学部卒 でさえ少なくなってきました。今となっては安陪研の存在は貴重な物だったよ うに感じられます。尤も、私は遊んでばかり(野球、バドミントン)いたので 偉そうなことは言えないのですが...。
 退官ということですが、今後もぜひ物づくりにこだわって元気に頑張ってい ただきたいと思います。

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私の安陪先生・安陪研の思い出

遠藤徳和

(昭和59年学部卒,昭和61年修士修了,トヨタテクニカルセンターUSA)

 安陪先生が退官されると聞き、卒業後の数年間リクルートでお邪魔して以来 OB会にもなかなか出席できずにご無沙汰しっぱなしの自分に反省すると共に 時の流れの速さに改めて驚くばかりである。

 私が安陪研のドアを開いたのは昭和58年、電子や情報に世間の目がむいてい る中 電気自動車とアナコンという、あまりトレンディといえない研究テーマに 興味を持って入門。屋根のへこんだダイハツの軽自動車をよくも私の好きに 任せて戴けたものだ。修士に入っても、1年下の麻生君と夏休みに少しは駐車車 両の 減った構内を電池の力が果てるまで走り回っては押したことを思い出します。 今回まとめ役の滝沢君は「走れ電気自動車」という映画まで作ったものだ。
 ますますディジタルが繁栄する世代で、アナログの重要さは衰えていません。 特に ハイパワー化と高周波化を支えるのはやはりアナログ。この信念を持たれていた 安陪先生に敬意を表します。

 安陪研でのもう一つの思い出は、先生に大変ご迷惑をおかけしたこと。研究室 を ほとんど寝床としていた私にとって、研究室で食事まで作ったことも数知れず。 おでんを作って情報のビル中臭いが行き渡り、事務所から文句が出て先生にお詫 びを して頂きました。しかし、その直後に魚を焼いて再度事務から激怒を買ったた め、 先生の大事な髪の毛を減らしてしまったことには、いまだに反省しています。

 すべてが今となっては私の成長にとって貴重な思い出です。
 私の生涯尊敬する恩師は2人います。高校でマナーに非常に厳しかったクラブ の先生と 常に寛大で、学生の資質を信じつつ毎週の研究会で適切な指導をしてくださった 安陪先生 です。電気電子一般講座のご担当は適任だったなアと、いまでも眼前に当時の姿 が 思い浮かびます。
 勉強を離れても、御子息様のことを話されるときの笑顔と節分に吉田神社の出 店で 地酒を買って大事そうに抱えて歩かれる姿も昨日のことのようです。

 退官なされても、電気電子の分野の発展にますますご活躍されることを心から お祈りいたしています。

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長そうで短かった安陪研究室での3年間

麻生賀法

(昭和60年学部卒,昭和62年修士修了,新日本製鐵(株)名古屋製鉄所)

 私は4回生から3年間安陪先生にお世話になりました。私たち昭和62年卒業組 の時代に初めて安陪研究室の学生が定員一杯(修士8名:学部6名:余り1名)にな りました。そのせいもあってか、何事にも活気があり、いつも研究室の中はワイワイ ガヤガヤと楽しい研究室生活でした。その分、安陪先生にかかる負担は相当大きかっ たのでは?、と今になって感じます。

(1)電気自動車との格闘

私が第一次電気自動車の最後の修論を書いたのですが、さすがに最後にも なると自動車自体がへたってきており、車輪が回らなくなったり、ドアが 閉まらなかったり、といろんなトラブルがありました。そんな時でも安陪 先生は1学生と一緒になって悩んで下さったことが思い出されます。

(2)飲み会には必ずドラマがある!

リクルータで来た先輩をスーツ姿のまま鴨川に落とす!(ついでに全員 順番にはまった!)
当時のM助手(現:熊本大学助教授)は新歓コンパで泥酔し、なんと安 陪先生が担いでタクシーに乗せご自宅へ連れていって下さった。朝起き たら安陪先生の家だったM助手は、さぞ朝食がおいしかったことでしょ う!
ちなみにその新歓コンパは川鉄のリクルート費用で落としてもらいまし た!(川鉄の福田さんありがとうございました)。
尚、私はその時もう一人意識がなくなっていた滝沢君を家まで送ってい ました!
祇園に連れていってもらった!(隣に当時NO.1の舞妓さんだった「かつ の」さんが来たので、大感動!!!)

(3)研究室は台所?

冬になると玉置さんが大鍋でおでんを作って下さり、情報の建て屋中にに おいをふりまきひんしゅくを買っていた。安陪研の年中行事でもあり、お いしかったので満足でした!

(4)研究室対抗野球、バレー大会等レクレーションは3度の飯より大好き!

野球大会は安陪研のためにあるとみんな思っていた。3年間で優勝2 回、準優勝2回、3位2回と、いつも宴会ができ、春秋の恒例となって いた。安陪先生への印象もかなり強かったようで、結婚式で褒めていた だきました。
野球大会では、なぜかほとんど野球経験がなく、運動神経が切れている と思われていた林君(現:東芝)が2打席連続ホームランを打ったりし たことが印象的でした!
バレーボール大会も誰一人として経験者がいないのに結構強かった。  福田君(現:三菱重工)がネットに体当たりしながらプレーしていた! いきなりボーリング大会が始まる!
  研究室でちょっと時間があればいきなりボーリング大会が始まる。 誰も否定しないところが安陪研たる所以だった!

(5)当時の変な人

滝沢(M2):やることなすこと常人離れ! 卒業式で体育館の前でスー ツ姿のまま腹這いになってM2全員の記念写真を撮ってく れた!
清水(M1):中森明菜の追っかけ(今でも続けているらしい!)
H君(M1):イニシャル通りH
高橋(院浪):夏の研究室旅行で夜中の12時過ぎに突然民宿に押し掛け て来た!(片っ端から民宿を調べて追いかけてきた!)
O君(B4):100回連続セーフ
河村(B4):何事も「さてっと!」という言葉から活動が始まる。

これ以外にも数え切れないエピソードがありましたが、学生生活6年の中の半分を過 ごした研究室生活は、本当に長そうで短かったと思い、懐かしく思います。
こんなむちゃくちゃな学生たちを、たとえ実験が進まなくてもいつも笑顔で見守って いただき、かつここという時には的確なアドバイスをして頂いた安陪先生に非常に感 謝しています。

安陪先生の今後のご活躍を心からお祈りしています。2重生活になると思いますので 体には十分気をつけて頑張ってください。

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安陪研にいた頃

岡田 宏

(昭和62年修士修了,住友電工(株))

私は昭和60年4月〜62年3月の間,修士課程で安陪研にお世話 になりました.
麻生先生に御指導頂き,作業ロボットの視覚機能について 研究しました.パソコン(たしか PC9801-E だったと思い ます.懐かしい.)を使って CCD カメラで取り込んだ画像 を処理し,被写体の特徴点の3次元座標を算出するといった 事をやっておりました.
エッジ検出による特徴点抽出と,テキスチャマッチングや 視線面上探査等の方法で視差のある画像間の特徴点一致を 行うのに苦労していたのを思い出します.
くじけそうになりながらも,麻生先生の叱咤激励を頂き, また当時M1だった林君の援助を頂き,何とか仕上げた記 憶があります.

安陪先生には,学生時代は研究室内の研究会で適切なアド バイスを頂いたり,講義でお世話になりました.卒業後も 仲人をして頂き,奥様にもお世話になり,大変感謝してお ります.
講義では,黒板に書かれた読みやすい丁寧な字と,定規な しで描かれたとは思えないきれいな円線図を思い出します. 今でも年賀状等を頂くと,差し出し主を見なくともすぐに 分かります.
講義内容も板書同様懇切丁寧で,出来のよくない私でも充 分理解出来るものでした.

研究以外の面に移りますと,個性派の学生が揃っていて, 楽しい研究室生活でした.思い出すままに列挙します.

その他にも色々なユニークな方が居られました.ここに書き 切れなかった方,すみません.
普段は意識していませんでいたが,安陪研で得たものは,今 の私の生活の中で生きていることを,この機会に改めて感じ ました.

安陪先生,長い間ご苦労さまでした.また,有難う御座いま した.第二の人生も,実り多きことをお祈りしています.

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安陪研の財産

熊谷 剛

(昭和60年学部卒,昭和62年修士修了,ダイキン工業)

私の居た頃の安陪研はちょっと変わった京大生の溜まり場でした。 めありぐんど福田さん(現川崎製鉄)、遠藤さん(現トヨタなんちゃら)、 バイオレンス福田君(現MHI)...その他個性的な人が多かったですが、 中でもやはり「変滝」こと滝沢君(今回編集者)は安陪研卒業生を代表する 個性派だったと思います。(名前を挙げた方々、失礼しました) かく言う私も学生時代は走ってばかりで(陸上部でした)研究というものを 身にもつけずに卒業してしまい、社会人になって苦労している愚か者です。

こんな私が言うのも何ですが、安陪研の財産はその研究成果よりも、卒業生の 方たちとそのエピソードにあると私は思います。 (具体的な話は他の方が書いているようなのでそちらにゆずります。)

しかしそれも学生の引き起こす問題を、汗をかきかきフォローして下さった 安陪先生がいらっしゃってこそです。安陪先生どうもありがとうございました。

これからも新しい土地でのお仕事、体に気をつけてがんばって下さい。

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安陪研究室の「恥」と「変節者」

滝沢 修

(昭和60年学部卒,昭和62年修士修了,郵政省通信総合研究所 関西先端研究センター)

(1)はじめに

 安陪研究室でお世話になった学部・修士の3年間は、とにかく思い出すのもお恥ずかしいことばかりで、筆を進めるのも気が重いというのが正直な気持ちです。そういいながら長文になってしまいましたことをお許し下さい。

(2)オペアンプ10個斬り

 私の卒論は、オペアンプの高耐圧回路の設計であった。安陪先生から最初に仰せつかった仕事は、安定化電源の組立であったことを覚えている。回路図も部品もすべて渡され、指示通りに組み上げるだけ! なのに見事失敗し、大音響と共にコンデンサが破裂した。新しい部品をいただいて組み立て直しても安定した直流が得られず、先生は「おかしいなぁ?」と首を捻っておられた。配線に単純な誤りがあったことに気づくまで相当の時間がかかった。といっても回路は至極単純なもので、時間がかかったのは単に私の不注意にすぎない。そんなこんなで本来の実験を始める前の段階でつまずき、前途に暗雲が漂った。
 やがて私には「オペアンプ10個斬り」のアダ名が付いた。要するに、とにかく部品をよく壊す学生だった。それもちょっと注意すれば回避できる事故ばかりであった。よく考えないで軽率に行動する私の性質は、今も変わっていない。もし大電力やパワエレ分野の仕事を続けていたとしたら、いつか自分や他人に危害を加えていたかもしれない。その意味で、後で述べるように、私が卒業後「人身事故を起こし得ない」情報工学分野に転身したのは、自分と社会を守る上で正解だったかもしれない?!。

(3)火気取締責任者追い返し事件

 教養部にいた頃には受験勉強時代の余韻が残っていて、私は割合まじめに勉強していたが、安陪研究室に配属された4回生頃には、すっかり遊び心が身についてしまった。普通の大学生は1〜2回生頃に遊び回り、4回生〜大学院時代には研究に没頭するのが常だが、私は逆だったのである。今思い出すと、京大在学中に最も遊んだのは修士1回生の頃だったように思う。安陪研究室には遊ぶために配属されたようなものだった。
 当時、自主製作8ミリ映画(ビデオではない!)に凝って、11月祭公開用のSF大作(?)のロケを情報工学教室地下の一般電気工学実験室で休日に無断で挙行し、そこになぜか休日なのに運悪く安陪先生が現われ、さらに運悪く私が撮影に気をとられている間に、実験室入口をふさいでいたロケ班の下級生集団が安陪先生を追い返してしまった(撮影の邪魔なので)。火気取締責任者である先生に無断でロケをし、しかもその当人を追い返してしまった私は翌日、平身低頭で先生に謝りに行った。このいきさつは、私が結婚時に自費出版した記念冊子に寄稿していただいた先生の原稿中にも記述されているので、先生には忘れ難いことなのであろう。
 当時、電気系の赤レンガ校舎として最後まで残っていた西館の2階に、安陪研究室所属の空部屋があった。私はそのSF大作の翌年に、懲りずに今度はその空部屋で学園ドラマのロケをした。そのほかにも、安陪研究室の電気自動車1号機の走行実験の模様を収録したドキュメンタリー映画もある。これらの映像は今となっては電気系教室の歴史的資料として貴重なものであろうから、せめてもの罪滅ぼしになっただろうか....
 修士課程入学直後に母が急逝し、京都在住で自宅通学だった私は寂しい思いをしていたが、安陪研究室での昼夜の区別の無い楽しい生活によって寂しさが癒されたものである。もちろん実験・研究はあまりやっていなかったが。

オリジナルトレーナーの柄(1985)
オリジナルトレーナーの柄(1985)

(4)アナコンとの格闘

 修士論文のテーマは、アナログコンピュータを使った鉄共振回路のシミュレーションであった。その日の湿度によって解が変わるアナコンに頭を抱えながら、連日徹夜でデータを取っていたことを思い出す。解が安定するまでの間、私は電気系教室のゴミ捨て場から拾ってきたアダルト雑誌を読んでいるのを常としていた(自分で買ったことはない)。
 デジタルコンピュータは、2回生の計算機実習の時に挫折して以来、触るのが嫌になっていたが、修士修了直前に、日本語ワープロ「一太郎」Ver.3を少々使ったのが、パソコンに本格的に触れた最初だったように記憶している。卒論・修論は共に手書きだった。私は手書きで論文を書いた最後の世代だったかも知れない。

オリジナルトレーナーの柄(1986)
オリジナルトレーナーの柄(1986)

(5)そして

 ほかにも、安陪先生運転の自動車による駐輪自転車ひっかけ転倒現場目撃盗撮逃亡事件、フィッツジェラルド大荒れ宴会&泥酔助手安陪先生宅宿泊事件、修論公聴会顔写真OHP呈示事件、、、これらの語るもおぞましい事件が私の在学中に安陪研究室を騒がせた。ほとんどの事件に関与した私は、「安陪研究室の恥」と呼ばれるべき存在かもしれない。
 修士課程修了後、私は郵政省の通信分野の研究所に畑違いながら就職させていただき、以来、音声理解・自然言語処理などの情報工学分野の基礎研究に従事している。というと聞こえがいいが、「だじゃれ」や「皮肉」などの日本語修辞表現をコンピュータ分析する、といういささか異端的な仕事をしている。安陪研究室時代に学んだことを生かせない分野の仕事に走り、学位も他大学で取った私は、安陪研究室の「恥」であるのみならず「変節者」の称号を与えられるべきかもしれない。

(6)おわりに

 安陪先生のご退官に関する文章であるべきところが、安陪研究室さらには私自身の話になってしまいましたことをお許し下さい。安陪先生は福山大学で今後も教鞭をとられるとのことですが、京都ー広島間の長距離通勤は、心身を相当消耗いたします。昨年亡くなった私の父も京大を定年退官後、京都から岡山の大学に通勤していましたが、肉体的にしんどいと常々言っておりました。このことが寿命を縮めた遠因になったのでは、と今になって思います。安陪先生もご無理なさらない範囲で、今後も後進の指導に励まれることを祈念いたします。

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安陪先生と出会って

橋本 岳

(平成2年博士学修,助手)

 安陪先生、御退官おめでとうございます。先生が京大を去られとても寂しい 気持ちが致しますが、先生のこれまでの御業績を称賛致し、今後益々の御発展 を祈りつつ、心より御礼を申し上げたいと思います。私が安陪先生にお会いさ せて頂きましたのは1986年のことであり、それ以来先生には公私ともに大変御 世話をおかけ致しました。本当に有難うございました。
 私は「視覚情報の処理」を研究テーマとして、博士課程在学中からはオーロ ラを対象として研究を進めさせて頂き、平成2年からは先生の直接御指導のも と現神戸商船大学の山本茂広先生と「天井蛍光灯を利用した移動体の自律走 行」の研究を開始させて頂きました。今でも、金沢での学会からの帰りの特急 『雷鳥』の車中で、先生から研究の基本構想をお聞かせ頂いたときのことをは っきり覚えております。この研究は、産業応用的な性格の研究であり、移動体 の誘導方式としての特徴的な部分は“一般シーンの中から検出の容易な目印” を利用する点にあります。その後研究を進めることができ、平成8年には論文 賞を頂くこともできました。ひとえに先生の御指導の賜物と深謝致しておりま す。またこの研究が一縁となり、平成7年・8年度にはパワーエレクトロニク ス研究会の運営のお手伝いをさせて頂きました。ここでもとてもいい経験、い い出会いをすることができました。
 先生のお人柄のお陰で、安陪研究室の雰囲気はとても暖かく、良好な人間関 係が形成されていることは誰もが御存じのことと思います。多くの学生の方が 先生の“電気系で最も分かりやすい”と評判の授業を受け、先生を慕って研究 室へ入ってきます。また安陪研究室卒業生の中にはこの雰囲気に感化されて、 人間的な優しさをもって卒業された方も多いのではないでしょうか。このよう に先生の評判は「寛大」、「お優しい」というのが一般的なようですが、しか し、私はそれだけではなくとても厳しい面もお持ちという印象を持っておりま す。特に上記の研究面においては、先生は強い信念を持って研究を進められま す。先生は「人の役に立つ現実的な研究」を一番に重んじておられ、移動体研 究におきましても、「これまでの研究の多くが実用化には様々な問題があり現 実の生産現場とはかけ離れているというのが現実であり、現在の技術を用いれ ばもっと有意義なシステムが構築できる、もしそれがたとえうまく行かなくて も現在の技術ではここまでできるんだということを示したい」というお考えが 基本となっております。このため、私がつい本筋が未解決のままに枝葉の研究 に進みそうになるたびに、先生の御叱責を頂き、軌道を修正して頂きました。 さらに、私が何とか見習いたいこととして挙げられますことは、先生の「即断 力」です。先生は対象がどの程度の価値を持ち、何が必要で何が不要であるか を一瞬にして御判断なさいます。論文をチェックして頂くときや物品購入の選 択にあたっての御判断の速さは、私には驚愕にさえ思える程であり、そのたび に人間が限られた時間の中で多くの仕事をこなしていくにはこのスピードが必 要なのだと痛感させられました。
 先生との数多くの思い出のなかでも鮮烈に心に残っておりますのが、国際会 議出席のためサンフランシスコ、ボストンへ先生と御一緒させて頂きました時 のことです。国際会議は日頃とは異なった新鮮な環境において、関連する様々 な研究を知り視野を広げることをできる点が素晴らしく、また、いろいろな大 学や企業を見学させて頂き、研究に対するヒントや刺激が得られると同時に異 文化に触れられるという意味でも、私には大変貴重な経験になりました。今で も1992年のサンフランシスコでの初めての英語発表にて緊張したこと、カリフ ォルニア大学バークレー校の落ち着いたキャンパスやベンチャー企業の活気あ る研究現場、さらにスタンフォード大学の砂漠のような広大な敷地とコンドミ ニアムのような電気工学科の建物などは、とても印象深く忘れることができま せん。有難うございました。
 先生は、今後も福山大学にて教鞭を取られるとのことでございます。研究そ して人生の師として、今後とも御指導の程よろしく御願い申し上げます。また 何より、くれぐれも御身体を大切になさって下さい。
 最後になりましたが、先生・奥様の益々の御多幸を心よりお祈りさせて頂き ます。

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安陪先生に贈ることば

高橋正己

(昭和62年学部卒,東日本旅客鉄道株式会社)

 今だからお話しますが、私は不覚にも安陪研に配属されるまで安陪先生のご尊顔を 認識しておりませんでした。その私がなぜ安陪研を志望したかというと「最も楽に 卒業できる」という噂からでした。お顔は知りませんでしたが、そのやさしいお人 柄は聞きおよんでいたからです。研究室に入ると、とりあえずテーマが与えられま したが、私はしばらくの間まったく手をつけられませんでした。すでに3年間の怠惰 な学生生活で脳味噌がすっかり退化してしまっていたからです。とりあえず院試を 受けてはみましたが見事撃沈し、就職もうまく行かなくて院浪を決め込みました。 結局卒論に本格的に取り組み始めたのは年が明けてからでした。麻生先生にも大変 ご心配をおかけしましたが、安陪先生のご苦労はひとかたならぬものがあったと思 います。何とか卒論を完成し、試問の日、安陪研特製トレーナーをきて会場に入っ た私にあきれる木嶋先生を横目に、安陪先生はあらかじめ練習の時に聞いた質問と まったく同じ質問をして下さいました。ところが、その質問の内容を私はまったく 理解していなかったのです。たしか「MEMとはどういうものか」といったものだった と思います。私の卒論に多用していたキータームなのですが、実は私は本を読んで もまったく理解できなかったのです。しどろもどろの私を見て安陪先生はさりげな く次の質問に移って下さいました。本当に地獄で仏を見た心境でありました。

 二度目の院試では、私は東京大学も受験することにしました。別に勝算があったわ けではなく、藁にもすがる気持ちだったように思います。ただ、一つ問題がありま した。願書提出のとき、担当教官の推薦状をつけなければならなかったのです。私 はおそるおそる安陪先生にお願いにいきました。先生はいやな顔一つせず、温かい 激励のお言葉とともに、推薦状を書いてくださいました。その時の推薦状の内容を 私は一生忘れることは出来ません。(詳細な部分はもう忘れましたが…)私のよう な愚劣な学生に対し、先生は有らん限りの褒め言葉を用いて推薦して下さったので す。東大での私の行動如何では、先生の名声にも傷がつくのではと心配するほどで した。もう感謝の言葉もありませんでした。おかげで私は東京大学大学院に合格し 、工学修士の称号をもらうことが出来ました。一応修士課程は2年で修了出来ました ので先生の顔に泥を塗るようなことはなかったと思います。

 私は安陪先生の門下生の中でもできの悪い部類に分類されるべき存在だと思います が、安陪先生のご指導により、いまでは一人前の社会人として立派に活躍しており ます。もうご心配をかけることもないと思います。今後とも安陪先生から受けたご 恩を忘れずにがんばっていきたいと思います。本当にありがとうございました。

 最後になりましたが、今後とも末永くご教鞭をとられ、私たち門下生をお導き下さ いますようお願いいたします。ますますのご活躍をお祈りしております。

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安陪研で過ごした3年間

白神愼二

(昭和62年学部卒,平成元年修士修了,キヤノン(株) 商品開発本部 CTプロジェクト)

今思い返しますと、安陪研にお世話になっていた3年間は人生の中でも最も「楽 しかった」3年間だったように思われます。このようなことを書きますと、「最 高学府」を何と心得るかとお叱りを頂きそうですが、これも全て我々のようなや んちゃな学生を暖かく許容してくださった安陪先生のお陰と本当に感謝していま す。

やんちゃの一例を挙げますと、

わぁー、ごめんなさい。本当に楽しいことばかりしていました。先生のために画 期的な研究成果が残せなかったことだけが心残りです。それでも、安陪研時代に しこんで頂いたソフトウェアのコーディングの経験が、ハードウェアのエンジニ アとなった今も、本当に貴重な経験になっています。

卒業してからはや8年が過ぎ、生意気にも私が人を指導するような機会もだんだ んと増えてきましたが、指導者たるもの安陪先生のようでありたいと思います。 退官されても、安陪先生はいつまでも私の先生です。これからもご健勝でご活躍 されますよう心よりお祈り申上げます。

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安陪先生の益々の御発展を祈念して

藤井昭吾

(昭和62年学部卒,新日本製鐵(株) 米国留学 Dept. of Electrical Engineering, Yale University Graduate School)

私は4回生の卒業研究の時に安陪研究室でお世話になりなりました。大学・大学院の 通算6年間の京大での学生時代のうち今振り返っても最も充実し、楽しかった期間だ ったと思います。またこの時の体験と縁から、その後の人生に大きな影響を受けてい ます。思いつくままに列挙してみたいと思います。

・卒業研究
私の卒業研究のテーマは、”非線形過飽和リアクトルを含む共振回路のディジタルシ ミュレーション”でした。コンピュータに弱かった(今でも決して強く有りませんが )私は、この時初めて、MS−DOSなるものの存在を知りました。このテーマは、 アナログで安陪先生が、ディジタルで麻生先生が主として指導されてました。正直最 初は、この非線形振動なるものの研究の工学的意義が理解できなかった私も、自分の シミュレーション結果と、当時M2の滝沢さんが実回路とアナログコンピュータシミ ュレーションで採取されたデータが相似してくるにつれ、非常に面白くなり、大晦日 の夜も、同期の白神君と八坂神社に初詣に行く直前まで、当時の4研のパソコンにか じりついていました。卒論の試問会の時も、この成果をもっと発表したかったのです が、確か与えられた時間が5分程度だったので十分に説明することができず残念でし た。今でも鮮明に記憶しているのが、その後、質問の受け答えについて安陪先生が「 全然、危なげなかったね。」と優しく言って下さったのが非常にうれしかったことで す。
現在、制御理論の研究のため留学中のYale大学で、非線形常微分方程式論の授業 を受けているのですが、卒業後10年して、また非線形方程式論の勉強ができること に不思議な縁を感じています。改めてリミットサイクルの存在や安定性等に関する理 論的アプローチを学ぶと、当時の研究テーマが学術的にも興味深く、また懐かしく思 い出されます。また4回生の時パソコンを少し覚えたことが就職してから非常に役に 立っています。・・・今でこそ、この原稿もWin95のパソコンと電子メールを使 って書いていますが、修士論文は(当然卒業論文も)平成元年当時ですら稀少な、学 年でたった二人とも言われた手書き論文でした・・・

・就職
時は3月の追い出しコンパ、場所は祇園のかがり火だったと思います。
「麻生君が不景気な新日鉄に就職するのだけが心配だ」
と安陪先生が、当時M2の麻生さんのことを心配しておられたのが印象的でした。当 然私も、内心全く同感であり、というよりもなぜ新日鉄に就職されるのか理解できま せんでした。ところが、なんと2年後に、希望人数が3人のため翻意を求める主任教 授の前で、「新日鉄以外働く気がありません!」(これはまさに、色々な意味で若気 の至りであります)と言い切ってまで、その同じ職場で自分自身が働くことになると は全く当時は思いもよらないことでした。もし4回生の時安陪研で無く、また麻生さ んが新日本製鐵(株)名古屋製鐵所勤務でなかったら、こうなることは100%無か ったと思います。これも縁とは不思議なものだと思います。しかし電気系からはマイ ナーな新日鉄に就職したおかげで(後輩が少ないので)、卒業後も毎年かかさず学校 訪問の役割が与えられ、年に一度は安陪先生に御挨拶できたのは幸いでした。

・レクリェーション
当時野球は強く、ボーリング大会も良く開催され、また夏・冬の旅行など本当に楽し い研究室生活でした。

安陪先生の指導が受けられたことは大変に幸せだったと思います。今回の米国留学に 当たっても、当時主任教授として超多忙を極める中、面会のお時間を頂き推薦状も快 く引き受けて下さいました。本当に有り難うございます。
退官記念パーティーは遠距離のため出席することができず大変申し訳ありません、私 自身非常に残念です。
安陪先生が、今後とも益々御健勝で御活躍されることを祈念致しております。

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安陪研の思い出

三好雅則

(昭和63年学部卒,平成2年修士修了,(株)日立製作所 日立研究所情報制御第二研究部)

 安陪教授をはじめとして安陪研の先生・先輩方には、公私とも大変お世話 になりました。この私が、大学を無事卒業・修了して、社会人として生活を 営めているのも、皆様方のおかげと感謝しております。
 さて、私の安陪研時代を振り返ってみると、楽しい思い出ばかりが浮かん できます。

まだまだ、楽しい思い出は尽きませんが、残りは先輩方に譲ることにさせて 頂きます。

PS.
 私事ですが、現在の妻と知り合い、結婚するに至ったのも、安陪先生のお かげです。1990年に行われた安陪研同窓会の後で、2人は京都で出会い ました。安陪研の同窓会がその時、その場所で行われなかったならば、現在 の幸せな生活はなかったものと思います。

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安陪先生の想い出

薮 哲郎

(平成3年修士修了,平成5年博士退学,大阪府立大学工学部電気電子システム工学科)

私は安陪研に 1989 年から 4 年あまり在籍しました。 安陪先生と言えば、ていねいで、やさしく、そして生徒を尊重 して下さる先生であったという印象が強く残っています。 私が特に印象に残っていることについて、少し書かせて頂きます。

安陪先生の超絶技巧の電子回路は、もはや芸術品で あると言われていますが、地下室にあるアナログコンピューター を初めて見た時は驚きました。あの見事にレイアウト された電子回路は一見の価値があります。 安陪先生が退官された後、あのアナログコンピューターが どうなるのか心配です。

また、安陪先生の手書きの文字も大変印象的です。 安陪先生の几帳面な性格がよく表れていると思います。

安陪先生の講義は分かりやすいと定評があったそうですが、 私は安陪先生の最終講義ではじめて講義を聞きました。 評判通りの素晴らしい講義でした。特に、 「オペアンプを使って -L や -C の 素子を作り出し、微分方程式を時間を逆に解く」 というお話は、実に興味深く、私は忘れることが 出来ないでしょう。

今後とも、安陪先生の御活躍を期待しています。

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安陪先生、長い間ありがとうございました

山本茂広

(平成2年学部卒,平成4年修士修了,平成8年博士退学,神戸商船大学)

 私は、安陪先生、ならびに安陪研究室の皆様には大変長い間(4 回生で研究室に配属されてから8年)お世話になりました。まず、 この場をお借りしまして、心からお礼申し上げます。
 一番最初に安陪先生に教えを受けたのは、ほとんどの安陪研卒業 生の方は同じだと思いますが、3回生での電気機器の講義でありま した。私には理解が困難な講義が多い中、安陪先生の講義は、要点 がよくまとめられており、話し方も明朗で、その上、板書も丁寧と 三拍子揃っており、非常にありがたかったです。先生が黒板に書か れた誘導電動機のあのとても綺麗な円線図が印象に残っている方も 多いと思います。
 私は、4回生になりますと、パワーエレクトロニクスなど、制御 の実際応用的な分野をやってみたかったので、安陪研究室に入れて 頂き、本格的に安陪先生のご指導を受けることになりました。研究 テーマは、誘導加熱用の高周波インバータを選びましたが、既に装 置は、ほとんどが安陪先生の手によりほぼ出来上がっていました。 安陪先生が作られた回路は、リード線等が縦方向、横方向に本当に 綺麗に揃っていて、最初に見たときには半ば感動ものでした。
 そのまま、私は修士課程に進学し、研究も同じテーマを続けさせ てもらいました。M1のときに、初めて学会の講演会で発表する機会 を与えて頂いたのですが、そのときは、質問にうまく答えられず、 安陪先生にフォローして頂いたりしました。その後、何回か講演会 などに付き添って頂きましたが、安陪先生は時間にも几帳面なご性 格で、かなり余裕を持って会場に来ていらっしゃいました。したが って、私らは大抵、師よりも遅く着くという不遜な態度?でした。 ごめんなさい(でも、遅刻はしていません)。また、学会などで食 事をご一緒させて頂くことがあると、安陪先生は必ず払って下さい ました。どうもありがとうございました。恐縮しております。
 それから、安陪先生に、例えば書類を書いて頂く場合など、先生 はいつも素早く丁寧に対応して下さいました。早ければ10分ぐらい で、遅くても大抵その日のうちには書類が帰ってきまして、しかも 、とても綺麗で、丸で囲むようなところは、きちんと定規を使って 書かれておりました。そのように、いつも素早く対応して下さるも のですから、甘えてしまって、論文の原稿なども締め切り直前とか 、時には締め切りを過ぎてから、先生に見て頂きに行ったりしました 。お忙しいところ、どうも申し訳ありませんでした。
 M2のときに私は一応就職活動をしていたのですが、土壇場で気が 変わって博士課程に進学することにしました。かなり急なことだっ たのですが、安陪先生のところに相談に伺うと快く受け入れて下さ いました。博士課程での研究テーマは、天井蛍光灯を利用した移動 体の自律走行でしたが、実は、この天井蛍光灯を利用するというア イデアも安陪先生のご発案によるもので、結局最後まで安陪先生に はお世話になりっぱなしでした。
 安陪先生は、普段は非常に温厚でニコニコされていますが、研究 に関しては厳しい面もお持ちで(当然のことですが)、一度激しい 議論になったことがあるのを覚えています。もっとも、議論をして いたのは某H助手で、私はほとんど横でオロオロしていただけでし たが。
 '96年の夏には、シンポジウムで発表するため、ボストンに連れ ていって頂きました。私は、海外へ行くのは初めてでしたので、こ のときも安陪先生には大変お世話になりました。こういうことを言 っていいのかどうか分かりませんが、先生のお人柄がよく分かるエ ピソードを一つ。ホテルの安陪先生の部屋にお邪魔したとき、クー ラーがよく効いていて少し寒いぐらいでした。先生に「寒くないで すか」と(某H助手が)尋ねると、先生は「ちょっと寒いけど、メ ードさんがタバコの煙が嫌いらしいのでクーラーを少し強めにして いる」と仰っていました。先生は、いつも細かいところまで周りの 人に気を配っていらっしゃいました。
 話はガラッと変わるのですが、私はコンパの二次会で、先生の前 で「六甲おろし」を歌った、というか、歌わされたことがあります が、あれは、某H助手の陰謀であります。歌詞カードをめくりなが ら、「この曲は知ってるけど」とふと漏らしたら(大阪に住んでい るといやでも覚えてしまうんです)、横にいた某H助手が、「面白 いから歌え」と言って曲を入れてしまったんです。お陰で、安陪先 生のところに阪神電車の方などが持って来られたタイガースのカレ ンダーやらネクタイピンやらが私のところに回って来たりするよう になりました。私自身は、あまりプロ野球に興味がなくて、特にど このファンでもないというのが真実です。ちなみに、そのネクタイ ピンは、しばらく1研に置いてあった後、某M講師が見つけて持っ て行かれました。
 以上、とりとめのない文章になってしまいましたが、私が言いた かったのは、本当に安陪先生にはお世話になり、今の私があるのも 安陪先生のお陰と、とても感謝しておりますということです。もち ろん、安陪研究室の先生方、諸先輩方、その他共に学生だった皆様 にも大変お世話になり感謝しています(本文中に何度か出てきた某 H助手にも大変お世話になりまして、ありがとうございました)。 私も、安陪先生のご退官と共に京大を離れて、神戸商船大学で教官 の端くれとなりました。安陪先生のような先生になるには、相当の 修行が必要だと思いますが(修行しても無理かも)、少しでも先生 に近づけるように研究、教育に努力したいと思っております。  安陪先生におかれましては、引き続き私立大学で教鞭を執られる とのことですので、先生のご健康と益々のご活躍を祈っております 。本当に、長い間どうもありがとうございました。

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安陪研報告書

陰山晃治

(平成3年学部卒,平成5年修士修了,(株)日立製作所 日立研究所)

検討の結果、以下のようになりましたので取り急ぎ報告致します。

(1)安陪研のよかったところ

(2)安陪研のよくなかったところ

(3)安陪先生を怒らせたこと

(4)私見

以上

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安陪先生ご退官に寄せて

小林 立明

(平成4年学部卒,国際電信電話(株)ネットワーク本部 システム技術部)

この度、安陪稔先生が、輝かしい業績を残された上で退官されるとのことで、大変残念で、また、感謝の気持ちでいっぱいです。
私事で恐縮ですが、さして出来のよくなかった私に対し、卒業・就職にあたり貴重なご助言、ご尽力を賜り、本当に感謝しております。
今後どうされるのかわかりませんが、長年学生に対し指導にあたられた熱意をもって、今後もご活躍されることを切望しております。

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安陪先生との思い出

松村吉晋

(平成4年学部卒,平成6年修士修了,三洋電機(株))

安陪先生、ご退官おめでとうございます。
長い間お疲れさまでした。

私は平成2年から平成6年まで4年間安陪研でお世話になりましたが、安陪研は自由 で明るい雰囲気の研究室で大変居心地の良い研究室でした。安陪先生との思い出はた くさんありますが、その中でも心に残っているもの2つについて書かせて頂きます。

(1)オペアンプの実験

私は4回生の時「オペアンプの高耐圧化」についての研究をさせていただきました。 まず最初に、私がするように言われたことは、回路作りでした。もちろん、回路図は 安陪先生が考えられたもので、私はその回路図どおり半田付けするだけです。しかし 当時、半田ゴテなど握ったこともなかった私は悪戦苦闘してしまいました。そして、 ようやく出来た回路を安陪先生の所に持って行き、一緒に実験を始めたのですが、電 源を入れてもその回路が動作せず、「あれ?おかしいな。」と言っているすきにトラ ンジスタが「パァーン!!」と破裂してしまい、私は大変びっくりしたのを覚えてい ます。その後、安陪先生に模範の回路を作ってもらったのですが、その安陪先生の作 られた回路がとても美しく、私は大きな衝撃を受けました。空中2段、3段配線で直 角にまげられた配線はまさに芸術品でした。「これと全く同じものを作ってくれたら いいから。」と安陪先生に言われ、私もまねをしてやってみましたが、安陪先生の作 られた回路とは似ても似つかぬものとなってしまいました。(とりあえず、動作はし ましたが)会社に入って4年目になりますが、私は未だにあのような回路は見たこと がありません。おそらく、安陪先生のきっちりとした性格によるものだと思います。 といっても、私がきっちりしていないとは思いたくないですが。

(2)バトミントン大会

安陪先生は電気系のバトミントン大会の時には毎回参加されていました。そのバトミ ントン大会で私はおそれ多くも安陪先生とダブルスのペアを組ませてもらったことが 何度かあります。当然のことながら、素人の私はミスばかりして安陪先生のあしを引 っ張ってばかりでしたが、それでも「どんまい!どんまい!」とあたたかい声をかけ てくださいました。研究や飲み会での思い出がある人はたくさんいると思いますが、 バトミントンでペアを組んだ思い出のある人はそんなにたくさんはいないでしょうか ら、私は貴重な体験(?)をさせてもらったと思っています。

以上が私の心に残っている安陪先生との思い出です。

安陪先生には、卒論の発表の時も修論の公聴会の時も、私が答えにつまった時には助 けて頂きました。就職の時も相談にのって頂きました。私が無事卒業できたのも安陪 先生のおかげです。どうもありがとうございました。福山大学に行かれても、健康に 気を付けて頑張って下さい。

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安陪先生のご退官にあてて

浦島 智

(平成5年学部卒,平成7年修士修了,博士課程3回生)

私が安陪先生の研究室に入ったのは、1992年のことでした。 安陪先生のお人柄を映してか、非常にわきあいあいとした、 落ち着ける研究室でありました。 その雰囲気にも助けられ、 それから5年間という長い間、ずっとお世話になってきました。 私の卒業を待たずに、 研究室から安陪先生が去っていかれるのは非常に残念ですが、 新しい環境でも同様の楽しい研究室を作っていかれることと 思っております。

PS.あまり似てないかもしれませんけど、一応似顔絵のつもりです。

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安陪研での思い出

木村昌人

(平成8年学部卒,オムロン(株))

 私は京都大学工学部電気工学科で平成6年4月に安陪研究室にお世話になり始めて その後、卒業するまでの約2年間(?!)にわたり、安陪研究室で随分たくさんの 思い出を創りました。今では決して過ごすことのできない本当に楽しい2年間でした。
 いつもにこやかな安陪先生の印象は今もそのまま残ってます。また学生時代を共に過ごした 安陪研同期の友人や先輩方、後輩のみんなとの思い出もこうやって文章を書いているうちに 生き生きと蘇ってきます。いま、ふっと思い浮かぶのは安陪研時代によく利用した "天寅"というすき焼き屋でコンパの時に安陪先生が真っ赤になっておられたときがありまして なぜかそんなことが思い出されます。
 僭越ながらこの場を借りて安陪先生におつかれさまを申し上げます。先生におかれましては、 ご退官後も多方面でのますますのご活躍をお祈りいたしております。

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ありがとうございました

M2一同(高津琢彦、櫻田信弥、内山真男)

(修士課程2回生)

安陪先生、ご退官おめでとうございます。
私達は、決してできの良い学生ではありませんが、安陪先生をはじめとする先生方、先輩方のあたたかいご指導のおかげで、充実した学生生活を送ってきました。本当にありがとうございました。
私達にはあと一年の学生生活が残されていますが、悔いのないように精いっぱい努力していきますので、これからもあたたかく見守って下さい。
最後になりましたが、先生のこれからのご活躍をお祈り致しております。

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