麻生 八咫の大活弁
2001年11月3日 東京都江戸東京博物館大ホールにて


折からの雨が降りしきる中、筆者は両国にある江戸東京博物館を訪れた。「麻生 八咫の大活弁」は、個人的な興味もあり楽しみな公演であった。現代に蘇る「活動弁士」の舞台・・・是非この目で見てみたい。そう思いながら会場に向かった。一体、活動弁士とはどんなものなんだろう?

まず、ここで「活動弁士」という職業について説明しなくてはいけない。映画がまだ活動写真と呼ばれ、音声もついてなければ色もついていないモノクロ無声映画だった時代、まず活動写真は、その映像のみで存在するMediaとして、海を越えて、この日本にやって来た。105年前・・・つまり1896年、明治29年11月、エジソンの発明したキネトスコープが、神戸で上映されたのが日本における映画・・・活動写真のはじまりであるとされている。その前年末にリュミエール兄弟のシネマグラフがパリにおいて世界で初めて一般公開されたことを考えると、当時の最先端のMediaが早い時期に日本にも 上陸したのである。麻生 八咫氏の言葉を借りるなら「現代でいうところの『IT』だよ」といったところであろうか。

海を越えてやってきた、この生まれたばかりの映画・・・活動写真は、まず、そのもの自体の魅力をもって人々の驚嘆と喝采にて迎えられた。現在では、おおよそ信じ難い話だが、当時の観客はスクリーンから微笑みかける赤ん坊の笑顔に驚嘆し、突進してくる機関車の映像にパニックを起こしたというのだから、その影響力たるや現代人の想像を絶していた存在だったのだ。

時は流れ、活動写真は「物語」という新たな要素を注入された。映像自身の魅力だけに留まらず「物語」というスペクタクルを担ったのである。そして、その際に、日本人は、その映画の中身を語ってくれる存在を求めた。実際のフィルムには英字での字幕が入っていて物語を解説しているが、日本人には、その字幕が読めない。そこで誰か語り口の上手な人間に映画の物語を語らせようと、白羽の矢が立ったのは、素人義太夫の口上屋・・・現代でいうところのチンドン屋だった、上田 布袋軒なる人物。西欧文化の解説を行うという使命の許、フロックコートを身にまとい、スクリーンに映る活動写真という名のスペクタクルと格闘し、日本人に活動写真の中にある物語を提供したのである。そして日本独特の「語り芸」の要素を取り入れたモノクロ無声映画は、活動弁士の語りの成熟と共に、楽士による音楽、スクリーンに映し出される映像とその物語によって、ひとつの表現として認知され、定着されたのである。輸入された海外のフィルムはもちろんのこと、国産の映画も多数作られて、阪東 妻三郎や大河内 傳次郎などの日本人の活動写真俳優も誕生し、大正時代の末期には、既にモノクロ無声映画の全盛期を迎えたのであった。

しかし1927年、日本でいうところの昭和2年、トーキー映画が発明され、そのわずか2年後に日本でもトーキー映画の上映が開始される。モノクロ無声映画の斜陽が密かに忍び寄り始める。 日本における活動弁士人口は大正末から昭和にかけて増加していき、最盛期には日本全国で8000人から10000人の活動弁士がいたと伝えられている。その盛り上がりのピークは昭和4〜6年頃にあたるのだが、トーキー映画の台頭を境に、彼らは徐々に失業への道を歩み始める。 当時の名弁士とされた徳川 夢声や池 俊行なども、各々に廃業への道を辿り、人々は新奇な「喋る映画」・・・トーキー映画に魅せられて、ついには無声映画を、活動弁士を、そして、弁士が放つ「語り芸」そのものを放逐し、顧みることはなくなっていたのだった。


モノクロ無声映画の衰退から約70年・・・日本の活動弁士の現在の活動の姿を見ることができる。正直、興奮してたし、どのようなものが出てくるか楽しみだった。

開場前、14:45に江戸東京博物館の大ホールに到着する。受付前には既に長蛇の列ができており、麻生 八咫氏・子八咫嬢の人気の程が伺われる。客入れのBGMは、往年のCMソングのメドレーが流れており、会場全体を懐かしい気分にさせてくれると同時に、ふと和ませてくれる・・・いい雰囲気であり、なんとも粋な計らいでもある。

客電(客席の電気)がフェードアウトし、開演を告げる。そこに登場したのは、セロを携えた初老の男・・・やおらセロの独演が始まる。アドリブ的な即興演奏に見えて、実はかつての劇場にて行われた「出拍子」のフレーズを意識したものなのだろうか。セロの独奏が劇場全体を包み込んで、段々と観客の集中力を掴み始め、舞台にその視線を集中させる。演奏は迫力を増し、即興演奏の枠を飛び出しノイジーなフレーズを経て、最後にはセロのマイクにて行うヴォイスパフォーマンスで最高潮に達する。客席のテンションは否が応にも昂まっていく。そこへ、麻生 八咫氏の登場。黒いタキシードを着込み、撫で付けた髪の毛にチャップリンのような口ひげ・・・ダンディーである。セロと共に歌う麻生氏。スクリーンにスタッフクレジットが映し出され、「麻生 八咫活弁の会」の開始を告げ、そして、舞台袖に去っていく。セロの演奏はやむことなく続き、最高潮を迎え、そのフィナーレを迎える。観客の拍手がボルテージの高さを教えてくれる。

再び、舞台に登場した麻生氏は、チンドン屋の扮装をしている。「カツベンなんていいますけれども、トンカツ弁当のことじゃ御座いませんよ」と、軽妙な口振りで活動弁士の由来を話す。活動弁士の由来は日本の無声映画の歴史であり、そのことを含め、朗々と口上を述べ、21世紀の活動弁士たる麻生 八咫氏の決意を表明する。その背筋はピンと伸び、ひとりの表現者としての凛とした佇まいを見せていた。

さて、ここで麻生 子八咫嬢登場・・・麻生 八咫氏の愛娘。若干16才の高校1年生。浅草木馬亭でデビューしたのは、なんと5年前。新進気鋭の少女活動弁士。 可愛らしいお嬢さんであるが、やはり舞台の上に立つと、そこは芸の道を探求するひとり、その道の迫力のようなものも感じる。先程の麻生 八咫氏の口上を、そっくりそのまま英語にて披露したのには場内騒然皆吃驚だ。実に立派な発音である。才媛である。

チャップリンの「冒険者Adventures」の活弁を語り上げる子八咫嬢。軽妙なリズム感とユーモア溢れる語り口でチャップリンの名演を盛り立て、その映像の中の世界を更に面白可笑しくしている。そう、当時の活動写真のポスターやチラシには、主演の役者よりも、活動弁士の名前の方が大きくクレジットされていたのだ。当時の観客は主演の役者や話の筋はもちろんのこと、それ以上に活動弁士のネームバリューに期待をして、劇場に足を運んだという。弁士がよければ映画もいい出来になる。無声映画華やかなりし頃は、そういう考え方だったのだそうだ。そして麻生 子八咫嬢のバックに控え、演奏を奏でるバンドも、皆が皆、いい腕を以て応える。映像と活弁と音楽・・・その「三角形」が、とてもいい形でステージの上を彩り、映画を盛り上げる。先程の「弁士がよければ映画もいい出来になる」という図式に当てはめると、この麻生 子八咫嬢の「冒険者Adventures」も、きっと、いい映画の部類に入るのであると、筆者、お世辞抜きで思った次第。このまだ若き活動弁士の伝承者に拍手を送りたい。今後の活動が期待できる、本当に楽しみだ。そんなステージであった。

さて、第2部の「歌謡ショー」。懐かしいメロディーが麻生 八咫氏、子八咫嬢によって歌われていく。会場の雰囲気は懐かしさと盛り上がる。観客も手拍子や、さらには一緒に歌って、舞台の上のふたりに答える。麻生 八咫氏自ら「紅白歌合戦に出たい」と公言する程、歌、そして音楽に対しての思い入れは強い。そのことを感じさせてくれるステージ。そして最後にはカブキロックスの氏神 一番氏も登場しての大盛況のショーで幕を閉じる。

一旦、ここで休憩が入る。ロビーに出てみると、受付に置いてある麻生 八咫氏のCDに気がつく。題して「麻生 八咫の歌う大銀幕」。先程の歌謡ショーで歌った「旅の夜風」や「君の名は」「美しき天然」なども収録されたカラオケ入りの2枚組のCDだ。この日、11月3日発売で、全国のCDショップにも置かれるとのこと。見かけたら是非手にして欲しい。懐かしさだけではなく、麻生 八咫氏の魅力を感じることができる大事な1枚なのだから。そしてそのコピーが秀逸「発売前より大絶賛!!」・・・発売前から絶賛されていたら無視できないでしょう。CD売り場も結構な盛況振りです。

そして始まった第3部は、本命、麻生 八咫氏と、カブキロックスによる「雄呂血」。まず驚かされたのはカブキロックスの演奏による演奏の大音響。かなりお年を召したお客さんも多い中で、吃驚されてやしないかなとも、要らん心配までしてしまう程。

ロックのビートに乗せて始まる「雄呂血」。大正14年に制作されたこの映画は、日本で初めて独立プロダクションを設立した、当時23歳の阪東 妻三郎をはじめとした10〜20代のキャストやスタッフ達の熱いエネルギーを以て製作された、江戸時代を舞台にした若者達の「反抗のエネルギー」を表現したかのような、まさに「青春映画」。現代の若いエネルギーであるロックと、大正時代の若き映画人のエネルギー、そして映画の中で煩悶する若者達のエネルギーが呼応しあっているかのようだ。

そして登場した本命、麻生 八咫氏。彼の語りによりスクリーンの中の阪東 妻三郎他のキャスト達が動き始め、映画に生命が吹き込まれていく。そう、弁士がフィルムに合わせて解説を入れているのではなく、弁士の語る言葉によって、映像が動いていくのです。弁士が役者を動かしている・・・そう錯覚させるだけのパワーと凄みを、筆者は客席で感じた。正直、最初のうちは、カブキロックスの演奏の音量で、麻生氏の活弁も少し耳に届かないかという心配もあったのですが、そこはなんとも不思議なことに段々と音響の中から活弁が聞こえて来るではありませんか。全身でもって活弁を行い、映画を言葉によって動かしていく麻生氏の気迫が為す技なのでしょうか。映画はステージの上で活弁に生命を吹き込まれ、カブキロックスが奏でる音楽と共に観客席を圧倒し、その終幕に至っては、観客をまるで真っ白な灰のように燃え尽きた状態にまでしてしまったのです。恐るべしモノクロ無声映画、そして活動弁士の魔力。

最後のフィナーレを飾るのは、千葉県立商業高等学校吹奏楽部の皆さんが演奏する「蒲田行進曲」。大正〜昭和にかけての日本映画の最盛期を象徴するかのようなこの歌でラストを締め括られてしまうと、なんだか「映画」って感じがしてしまうのである。会場のお客さんと共に「蒲田行進曲」の大合唱が行われ、幕は静かに降りていき、今宵のステージは終わりを告げたのであった。

今回の公演は、活動弁士という表現を通じて、そのモノクロ無声映画の歴史に郷愁を感じながらも、さらにこれから新しい表現を打ち立てていこうと活動する麻生 八咫氏の心意気を存分に感じることが出来た公演だった。麻生 八咫氏・子八咫嬢の今後の活動を刮目して見守っていきたいと思いながら、帰途に就く筆者なのでした。

さて次回はなんと筆者が麻生 八咫氏・子八咫嬢にインタビューをするという何が起こるか分からない一幕。
皆様、御期待の程を!

関連リンク
「日本カツベン倶楽部」
麻生 八咫氏公式WWW-Site

株式会社マツダ映画社
今回の公演のフィルムの提供で協力しており、実は創業者が名活弁士の松田 春翠氏。現在は御子息が跡を継いでフィルムの貸し出しなどの営業をされています。モノクロ無声映画のPR活動なども行っており、WWW-Siteは資料性大で必見の価値あり。

シアターレストラン「東京キネマ倶楽部」
モノクロ無声映画を楽しみながら飲食が楽しめるシアターレストラン。麻生 八咫氏も出演されているので、スケジュールをチェックして通ってみるのもいいのでは?

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