井熊さんちの家庭の事情#3
井熊明子


お楽しみはこれからだッ!! 第30回への長い長いリアクション


 たこいさんへ。

 糸納豆をありがとうございました。

 「お楽しみはこれからだ」をようやくカット付きで読めて、大変満足しております。今回は、読んだことがある、あるいは、家にもコミックスがある作品が多かったので、読んだことのない作品を紹介されたのとはまた違ってなんとなくうれしいです。読んでないのは、『彼方から』、『あい色神話』、『ここはグリーンウッド』かな。あ、『エイリアン通り』と『日出処の天子』も最後までは付き合ってませんでした。

 那須雪絵の位置付けはなかなか面白いと思います。今後、楽しみな人ですね。(そう言えば、『月光』はどうなっているんだろうと思って、「花とゆめ」を久しぶりに買おうと本屋に行ったら、先週も先先週も掲載されてませんでした。どうしたのでしょう?)

 確かに、彼女の作品では、「完璧な人間」というのを異常な存在として捉えていることを、明らかな台詞としてもまた比喩的にも表現されてますよね。不破徹なんかは、本当に宇宙人だし。

 ところで、「そのままの君が好きだよ」タイプの少女漫画の問題点としてあげられた3点の取り扱いについて、一言述べてみたいと思います(一言と、言いながら、結構長くなるかもしれませんが)。

 全体としての論旨は、至極尤もだと思いますが、私が引っ掛かるのは、第2点の「強力な庇護/抑圧下におかれた女性の人格のスポイル」と第3点の「庇護下に置かれた女性の依存心と甘え」との関係です。

 この2つの問題点の関係は、むしろ第1の問題点と第2の問題点との関係よりも重大であると思います。なぜなら、庇護下に置かれる人物側に依存心や甘えが存在しないならば、庇護/抑圧下に置かれたことによる人格のスポイルは起こり得ないと思うからです。つまり、依存心の有無が、人格のスポイルの発生の有無を決定するのであって、庇護する側の問題ではないということです。

 そういう意味で、『あい色神話』で主人公に人格のスポイルが起きかかったのは、キャリアウーマンで仕事も家事もなんでもこなす一見完全無欠な主人公仲秋桂子「でさえ」(<−強調したつもり)、依存心や甘えを断ち切れていなかったからだ、と、考えることも可能だと思いますが、いかがでしょう。

 このように考えた場合は、『あい色神話』での問題解決方法は、『ここはグリーンウッド』の問題解決方法と同じということになりますね。

 ああ、また、読んでもいないものについて、知ったようなことを言ってしまった。とんちんかんなことを言っていたらすみません。

 今ちょっと思い付いたのですが、この問題への究極の解決方法は、少女漫画じゃないけど(笑)、ヴァーリーの『ブルーシャンペン』に収録された「選択の自由」で示された方法なんじゃないかと思います。性転換のことじゃないですよ。パートナーとの徹底的な話し合いというのが、この作品の主人公の解決方法だったのだと考えています。つまり、「わたしのこと判っていてくれる」というのと対極にあるわけですね。

 この「判ってくれる」というのは、考えてみれば、実にむしのいい話しだと思うし、何も言わなくても「判って」しまったとしたら実に無気味だと思うんですが、貿易摩擦なんかの報道を見ていると、この「何も言わずに判って欲しい」という願望は、日本の少女(日本に限らないのかもしれないが)に共通する願望というよりは、日本人に共通する願望といったほうがいいような気もします。

 そーか、「そのままの君」と「判ってくれる」は表裏一体の問題だったんですね。


 ところで、「そのままの君が好きだよ」タイプの少女漫画の走りともいえる初期の「オトメチック」漫画では、自分の美点を肯定できないでいじけている主人公が、「完全無欠」のヒーローに認めてもらうことで自信を取り戻す、というところでストーリーが終わっていましたよね。

 これらの作品の場合、主人公の人格は、彼女自身の自信喪失によってスポイルされた状態から、ヒーローの登場によってむしろ救済され、解放されていると思います。しかし、この場合は、あくまでも、いじけている主人公に自信を取り戻させることが目的なのだと思うわけで、彼女にもなにがしかの美点があることを認めてくれる登場人物が、「完全無欠」のヒーローである必然性は全くない。

 人間、誰しも、他人に認められたいという欲求はあるはずで、味噌っかすの主人公にもささやかな美点があることをストーリーの中で誰かが認めてあげることは、決して悪いことではない。ここで、「白馬の王子様」を登場させてしまいたくなるのは、単なる少女の白日夢ということなのだろう。

 このように、「そのままの君が好きだよ」的な少女漫画でも、1回読み切り32P程度の作品であれば、第2の問題点「庇護下での人格のスポイル」どころか、逆の人格の解放が表わされるのだけれど、人格の解放が自分自身の克己心に基づいていないのは事実(しかし、自信喪失状態の主人公に克己心を要求するのは、ちと酷なような気もする)。そして、「そのままの」という言葉は、本来は、その時の味噌っかすの状態でもなにがしかの美点を持っていることを言っているはずである。

 しかし、この言葉は、容易に拡大解釈され、変化や成長は必要ないという主人公側の依存心や甘えに、そしてまた、ヒーロー側では、変化や成長を認めない強力な庇護抑圧(しかし、こういう人は変質者だと思うぞ)に変質する可能性を持っていることに、このタイプの少女漫画の問題があるのだと思う。

 特に、「そのまま」という言葉が、女の子の依存心に結び付きやすいのが問題だと思う。確かに、相手役の台詞として、「そのままの君をとっておきたい」という、殺し文句も使われるが、これがその文字どおりに実践されたら、それこそ変質者の世界になってしまう。これに対して、上述した台詞が女の子の依存心と結ぶ付く方は、いともやすやすとそれも普通の女の子の正気の状態で起こってしまうのだ。

 ところで、上述した殺し文句も、それ自体は、「今の君がとても魅力的だ」といいたいのであって、「その魅力を持ちつづけて欲しい」という願望の表われではあっても、決して、「君」の変化や成長を抑止しようという意図で言われたのではない。つまり、変化や成長によって、今以上に、「君」が魅力的になることには賛成こそすれ、反対するものではないはずなのだ。

 それにもかかわらず、変化や成長が不要であると受け取り、自分が成長しないことを相手の責任にするとすれば、これは取りも直さず女の子の側の甘えといわざるをえないだろう。したがって、庇護下に置かれて成長が阻害され人格のスポイルが起こるとすれば、それは庇護下に置かれた側の甘えに、より重大な原因があるのだと思う。

 したがって、その様な主人公が辿るであろう末路には、恐ろしい深淵が口を開けて待っているというところだろうか。

 もちろん、庇護下に甘んじているようにみえる女の子がみんなそうかと思っていると、逆にしっかり操縦されて、何年も給料を運んできた挙げ句、定年になった途端、「わたしは、あんたのパンツを何年もいやいやながら洗ってきた」とかいわれて、離婚訴訟で慰謝料をふんだくられるなんてことにもなりかねない。

 くわばらくわばら。


 大分暴走してしまいましたが、待ちに待った「お楽しみは」に触発されてつらつら考えたことを書いてみました。次回も期待してます。


暑中見舞いにはまだ早いけどマンガの話はまだまだ続く


 今年は、初夏をとばして梅雨に入ってしまったようですね。6月というのに、半袖を着るのがためらわれます。

 先日、本屋で『シニカル・ヒステリー・アワー14』と『彼方から1』を買ってしまいました。どっちも君のせいだぞ。

 「まさかツネコちゃんが……」なんて言われると気になってしかたがないじゃないですか。で、読んでしまいました。そーか、そーだったのか。

 しかし、こんな「大人になり方」って、少女漫画でしかできないよねえ。が、うーむ、男性諸君には、あまり知られたくない部分であるため、なんか居心地が悪いなあ。

 『彼方から』の方は、まあ、水準作だと思うけど、やはり、1巻の段階では、あまりにステレオタイプかなあ。

 どうせ、イザーク(充分いかがわしく描いてあるような気もする)が例の「天上鬼」とやらいうのなんだろう(あたりまえか)。日記をつけていたりするあたりから考えると、典子ちゃんは、きっと元の世界に帰ることができるんでしょう。そして、異世界の思い出を胸に成長し、ファンタジー作家としてデビューする。というのが、第1巻を読んだ段階での私の予想なんだけど。

 とかなんとか言いながら、次に本屋に行ったときには、続巻を買ってしまったのでした。しっかり、正統派道中ものファンタジーしてますね。

 ひかわきょうこは、たしかに、演出力がありますね。異世界の街の様子なんかも細かく描かれてるし、スピード感のある戦闘シーンは迫力がある。イザーク君が、岩山をぴょんぴょん跳んでいくシーンなんかは、リアルじゃないけど(だって、人間じゃないの宣伝してるようなもんだよ)。典子を抱いて断崖の下に着地するシーンなんか、コナンのようだし。おや、この跳躍は、ユパ様か。着替えシーンは、ほとんど「少佐」だね。と、楽しませてくれること。

 しかし、遠山さんじゃないけど、主人公が弱すぎるのは不満です。

 あー、変な方向から書き出してしまいましたが、筆を執った元々の動機は、カンパを送ろうと思ったからなんです。

 以前の部室での発言で、郵送料が一番の負担とあったので、現金が一番うれしいという文言は無視して、「ふみカード」を送ってしまいます(すみません、ただの新しもの好きなんです)。全国の郵便局及び切手販売機で使えるそうです。一応、念のため、「テレフォンカードではありませんので、電話機に入れないでくださいね」(笑)という、郵便局のおじさんの忠告をいれておきます。

 ところで、ずいぶん前の話になりますが、NHK−TVの「生きもの地球紀行」という番組で、マダガスカルの猿が取り上げられていました。

 そして、画面に、『月光』の登場人物が続々と現れたのです(といっても名前だけだけど)。

 いや、シファカ様が跳ねること跳ねること。

 スローロリスという猿がいることは知っていたし、コミックスの2巻あたりで、「月光猿軍団」とか言われてたから、「シファカ」という猿もいるんだろうな、とは思っていても、実際に跳ねているのを目にすると感動(?)もひとしおでしたね。

 シファカという猿は、以前、NECかなんかのCMで横向きにぴょんぴょん跳ねて愛嬌を振りまいた白い猿だったのでした。

 そして、木の股でむっつりしている「インドリ」様、更に、枝からだらしなくぶら下がっている「アバヒ」。ここまで、猿の名前を使っているとは思わなかったので、「アバヒ」が紹介されたときには、しばらく開いた口がふさがりませんでした。そういえば、「ゲラダ」ヒヒというのもいたような気がしますね。

 さて、私は、上述したコミックスの他にも、つい誘惑に負けて、雑誌を買ってしまっています。

 1つは、『月光』目当ての「花とゆめ」。そしてもう一つは、『エロイカ』目当ての「プリンセス」です。

 「花とゆめ」の方は、『月光』以外の収穫は、『マダムとミスター』くらいかな。なんとなく『バジル氏の優雅な生活』みたいで、こういうの好きなんですよ(『彼方から』の4、5巻と一緒にコミックスも買ってしまいました)。

 『エロイカ』の方は、このためだけに買ってよかったと思えるほど、井熊氏と一緒に楽しみました。そこらの耽美派ハードボイルドとは一線を画す、本格派ハードボイルドコメディと言っていいのではないでしょうか。

 特に、少佐とミーシャのエロイカの戦車の中での会話は、ブランクを感じさせない面白さでした。しかし、「プリンセス」の読者のどれだけが、この会話の面白さを感じ取るのだろうか。

 「ミーシャからアメリカの戦車の悪口が聞けなかったのが残念」というのは井熊氏の弁ですが、そこまで行くと、ほとんど軍事おたくの世界ですよね(実際、かなり近いものがあるけど)。戦車の中のシーンのほとんどは、装甲の部分が断面図になっているし(これなんかメカ系の人間しか気づきそうもない)、ミーシャ会心の一発の徹甲弾には、ちゃんと滑空用の翼が付いていたし。

 と、知ったようなことを書いていますが、私は、件の徹甲弾のコマを初めて見たときは砲弾の翼になんか目もくれなかったし、井熊氏が「砲弾に翼なんかが付いてる」といって笑ったときは一緒に笑い、その後、井熊氏が「いや、いいんだ。最近のは滑空弾だったんだ」と前言を撤回したときに、初めて「滑空弾」なるものを知ったのでした(そうよ、私は工学部出身のメカ音痴、未だに、井熊氏の言う「ジグザグ魚雷」が実在したのか、でっちあげなのかわからない。もしかしたら、「滑空弾」もでっちあげかもしれない。あ、疑心暗鬼)。

 それはそうとして、私は、『エロイカ』の後編で、例の「核物質の盗難」事件が、ドイツのBNDの謀略(謀略と言うからには、このくらいのスケールと作用効果を持ってやってほしいものです)だったという暴露記事を使って、ミーシャが少佐にほえかかるのを楽しみにしてたんだけど、時期的なものもあってか出てきませんでした。

 いずれにしても、青池保子の少女漫画における地位というのは、なかなか特殊なものがあると思います。あの戦車の緻密さには舌を巻くし(といっても、あの辺は御大が描き込むところじゃないかな。井熊氏は、「女に戦車は描けないから、男のアシさんがいるに違いない」といっていたけど)。

 最後にたこいさんにお願い。

 『バオー来訪者』関連の「お楽しみはこれからだッ!!」が掲載されている糸納豆を送ってもらえませんか?

 結構好きだったんですよね。あの作品は。前の会社では、『バオー』のそっくりさんもいたこともあって、結構その話題で盛り上がったこともありました。もちろん「バルバルー」とかいって変身する前の段階のですよ。

 それでは。次の糸納豆、そして、「お楽しみはこれからだッ!!」を楽しみにしています。


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