タイトルのない夏
Trinity
両谷承

八へ戻る。十へ進む。



 目を覚ますと、自分のベッドの上だった。記憶をなくすほど呑んだわけではないが、身体は少し脱水気味だ。シンジは床に置かれたステレオのオーディオ・タイマーを見る。もう昼の二時だ。

 夜中に電話が掛かってきて、キョウの家に辿り着いたのが十五時間前だった。一晩中ビールの買えるコンビニエンス・ストアでサッポロを二リットル買い込んで、それを呑み切ってからキョウの呑み残しのフォア・ローゼズを空にした。何となく足りなかったので、キョウの部屋のキッチンから発見された安焼酎とひねた日本酒も夜が明けるまでに全部呑んでしまった。いつもと比べても、そう大した量じゃない。大体酒を必要としていたのはキョウの方で、シンジは付き合っただけに近い。それでもまあ、帰り道で白バイに捕まれば酒気帯びでは済まないくらいに酔ってはいたけれど。

 ベッドの中から右足を伸ばして、シンジは足の親指でコンポの電源を入れた。プレイヤーが反応して、中に入っていたCDが鳴りはじめた。スティーヴィ・レイ・ヴォーンのライヴ・アルバムだ。気に入っているのと入れ替えるのが面倒なのとで、このコンポはもう二週間も同じCDを再生しつづけている。

 キョウはシンジを相手に、饒舌に話し続けた。保土ケ谷で会ったトシコたちの事や、大黒パーキング・エリアにたむろしているあまり品のよくない連中のことについて。その言葉を聞きながらシンジは、こいつはミキのことがけっこう本気で好きなんだな、と漠然と思った。そのことで、キョウはシンジを変に意識している。

 下らない、と思う。けれど、そう思うことがキョウのキョウなりの真剣さにけちを付けることになるようで、そのこと自体が何となく不愉快だ。

 上半身を起こして、ベッドの回りを手探りする。ジーンズを探り当ててトランクスの上に穿き、上半身裸のまま体を起こす。

 家のなかに人の気配はない。昨夜――と今朝の間くらいに――戻ってきたときには玄関にユカリさんの靴を見付けたのだが、いるのだろうとは思いながらも部屋に直行してそのまま眠りこけてしまった。

 部屋を出て、便所に寄り道してからダイニング・ルームに入る。真ん中に置かれた大きなテーブル――かつてはシンジたち家族四人の食事に使われていたものだ――の上にフライドチキンとマッシュポテトが山盛りになった皿とボトル四分の一ほどのイタリアワイン、二枚の水色の便箋が置かれていた。一枚にはユカリさんの、どことなく似付かわしくない大人っぽい端正な文字。

『起きてこないから、未紀ちゃんとふたりでお誕生日パーティーをやっちゃいました。シンジくんのぶんも残しておいてあげたから、かわいそうだけどひとりで食べてね。
 これから未紀ちゃんとふたりで町の中にでかけてきます。夕方にはかえるので、なにかプレゼントを用意しておいたほうが身のためだぞ。            由佳里』

 なるほど。シンジは事情を呑み込んで、もう一枚の便箋に目を落とした。筆圧の低い、あっさりした字体。ミキだ。

『おはよう。
 みんなより一足先に二十歳になりました。おばさん扱いだけはやめてね。
 由佳里さんはああ言う風に書いてたけど、気にしなくていいからね。恭司君にデートに誘われてるから、戻ってこないかもしれないので。             未紀』

 ともかくもシンジは、いまこの家でひとりきりだ。コルクが突っ込まれていてご丁寧にワイングラスまで添えられているソアーヴェはなかなか魅力的だったが、いまはどうしても呑もうという気にはなれない。冷蔵庫からミラーを出して、それでチキンとポテトを詰め込む。

 ユカリさんとミキは、一体どの辺りで気が合っているのだろう。どちらも微妙に違った意味で、同性の友人には恵まれなさそうに見える。逆に、どちらも根っ子のところで性別以前の力強さを持っている。その辺りだろうか。

 女たちのことは、よく分からない。シンジには、その自覚がある。だからといって、何が困るという気もしない。ミキもユカリさんも、それは確かに魅力的だ。でもそのことが自分にとってどんな意味があるのかシンジにはよく分からないし、それほどの興味もないようだ。だからキョウのミキに対する感情は、理解できるようでいておそらくほんとうには分かっていないだろう。――そう知ってはいても、シンジには自分になにかできるとも、なにかしなければいけないとも思えなかった。

 考えるほどに、面倒になる。

 シンジには、たとえばキョウのような激しさで誰かを手に入れたいと思ったことはおそらく、ない。キョウやカズのことはどことなく大事な存在だという気がするけれど、たとえばそれ以上に誰か女の子が大事だったことはない。寝たことのある女の子は何人かいる。でもその顔立ちがちゃんと思い出せるのは、しょっちゅう顔をあわせているユカリさんだけだ。ミキと寝たいか、と訊かれれば否定は出来ないが、多分キョウにしたところで単純にミキをベッドに引き込みたい、というだけではないのだろう。

 意外に腹は減っていなかったようで、皿の上のチキンとポテトを全部片付けることは出来なかった。ミラーを飲み干して、シンジは何となくガレージに向かった。


 ガレージにはシャッターがない。日陰から見ると表の通りは強い光に照らされていて、眺めがそのまま残像として目に焼き付いてしまうような感じがした。

 ハーレイはいくらか薄汚れた姿で停まっている。シンジはガレージの外からホースをひっぱってきてハーレイに水をぶっかけてから、ブラシにワックス入りシャンプーをつけて洗いはじめた。

 洗車のたびに、シンジは自分がとても滑稽なことをしているような気分になる。綺麗になったところでハーレイが喜ぶ訳でもないし、いつもぴかぴかにしておいてやりたいと思うほどの愛情をこの鉄の固まりに抱いている訳でもない。とすれば、シンジは単純な作業にともなう満足感を得るためだけに洗車をする、ということになるのだろう。

 車体を磨き、可動部分に潤滑剤を吹き付け、チェーンに給油する。エンジンを掛けてみた。排気音とガスの臭いがガレージに充満する。昔、このガレージに納まっていた父親のセドリックを思い出した。

 アイドリングをさせたまま家のなかにとって返して自分の部屋の壁に掛けてあったデニムのジャケットを羽織り、冷蔵庫からミラーを一本出してガレージに戻る。シートの上でビールを呑んでいると、少しづつ回転が安定してくるのが分かった。サンダルを脱いで、ガレージの隅に脱ぎ捨てられたエンジニア・ブーツを履く。空になったミラーの缶をブーツの踵で踏み潰すと、工具を並べた棚からヘルメットとサングラスを取った。

 ジャケットのポケットを探る。財布が入っていた。シンジはロードスターにまたがり、慎重にクラッチをつないで強い光のなかに出てゆく。


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