タイトルのない夏
Trinity
両谷承

二へ進む。



 「スラム・ティルト」を特徴づけているのは、片隅に置かれたピンボール・マシーンだ。

 四十坪足らずの店内には長いカウンターだけ。昼間は喫茶店、夜はショット・バーをやっていて、食事も出す。ピンボール・マシーンだけが、店内でどこか浮いている。ひょっとするとこれさえなければバー・タイムにももっと客が入るのではないか、なんて、ちょっとカズは考えたこともある。

 音量を下げても、ピンボールの出す音は人によっては相当耳障りに感じるものだ。それに、プレイヤーによってはマシーン以上に騒々しい奴もいる。

「このっ。入れ、入れこのやろお」

 キョウの吼え声を耳にしながら、カズはすっかり氷の融けたジンのグラスを口へ運ぶ。キョウはやたらと興奮しやすい。そこが可愛らしいところでもあるのだが、常連客以外には相当に傍迷惑なのも間違いない。

 銀のボールがスリング・ショットに弾かれ、バンパーに当たり、キックアウト・ホールに転がり込む。電子音の合間に、あまり上品とは云えないキョウの叫び声が混じる。どうも戦況は思わしくないらしい。カズは水割りになってしまったジンを飲み干して、グラスをテーブルに置いた。

「このっこのっこのっ」

 キョウの声がマシーンの電子音を圧倒してゆく。と、唐突に物音が止んだ。さっきからずっと流れていたはずのボブ・マーリーを背に、肩を落としたキョウが戻ってくる。

「ちくしょ」

 カズの隣にどっかりと腰を下ろした。

「またティルト? 学ばない奴だねぇ」

「うるせえ。あと、ちょっとだったんだ」

 こういう時の、キョウの浮かべる本当に悔しそうな表情がカズは大好きだ。

「じゃ、何点だったのさ」

「――六十二万点」

 カズは思わず吹き出した。リプレイ・ポイントの半分にも届いていない。

「笑うんじゃねえ」

「だってさ、リプレイは百四十万だよ」

「だからよ、あそこでエクストラ・ボールさえ取れてりゃ――あれ、俺の酒は」

「あぁ、悪い。呑んじゃった」

 カズはあっけらかんと云ってみせた。整った太い眉を吊り上げて、キョウはカズを睨み付ける。

「おまえな」

「だってキョウ、いつも云ってるじゃんよ。水っぽい酒は呑んじゃいけない、ってのが家訓だって」

「ったってよ。ねえ、マスター」

 マスターはカウンターの中でにやにや笑っている。「安易に盗作の台詞なんか吐いてるからだよ」

 キョウは天を仰いで、両手を大きく広げた。

「なんてこった。従業員が従業員なら、マスターもマスターだ。――分かったよ。マスター、ビーフィーターをもう一杯おくれ。ストレートで」

「じゃぼくも同じものを。ロックがいいな」

 カズがにやにやしながら付け加える。キョウはまた、カズを睨み付けた。

「今年の夏はろくな事がねえよ。くそ女にゃひどい目に遭うし、車は車検から戻ってこないし、バーの従業員は根性が腐ってるときやがる。やんなっちまうよ。――ところでシンジはどうした」

「今日はまだ顔を見せないね。ハーレイがどっか壊れた、とかさ」

「ショベルヘッドがふっとんだ、とかな。ったくあのぼけなす、あんなぽんこつにいつまで乗ってやがんだ」

 ドアが開いた。

「キョウ、来たよ。ぽんこつに乗ったぼけなすが」

 含み笑いでカズが振り向く。

「なんだそりゃ、俺の事かぁ」

 呑気に云いながら、シンジはカズの隣に座る。

「排気音が聞こえなかったぜ」

「ああ」シンジは少し、哀しげな顔をキョウに向ける。「プッシュ・ロッドがいかれちまってよ。どうやっても直んねえから、修理に出しちまった。――ったく、あのぽんこつが」

 自分で云ってれば世話はない。カズは思わずくすっ、と笑ってしまった。

「何か、おかしいか。俺はショップまで押してったんだぜ」

「さぞ筋肉が付いたろうよ」

 キョウがちゃかす。

「腕相撲でもしてみるか、キョウ」

「また今度な。それより、あれ」

 キョウが親指で示した方に、シンジは目をやる。

「ニュー・マシーンか」
「ウィリアムズの『エイリアン・スター』って奴だ。十年も前の代物だけど、コンディションは悪くない」

「でもリプレイは取れなかったんだよね」

「うるせえな、俺はリプレイ取るためにピンボールやってるわけじゃねえんだよ。そもそもだな――」

「オーケイ。俺が、取ってきてやる」

 ストゥールから立ち上がって、シンジはピンボール・マシーンへ向かって歩き始める。「シンちゃん、オーダーはどうすんの」

「ラム・トニック。こっちまで持ってきてくれ」

 ポケットを探りながら、振り向きもせずにカズに云い返す。カズはマスターと目を合わせた。マスターは楽しげな表情で、ラムのボトルを手に取る。

 シンジがマシーンにコインを入れ、スタート・ボタンを押す音がカウンターまで届く。カズはキョウに目配せした。キョウは不愉快そうに目を外らすと、マルボロを銜える。

 ピンボール・マシーンが騒ぎはじめた。誰がプレイしても同じはずなのに、シンジのゲームに限ってどのマシーンもリズミカルに歌いだすようにカズには思える。

「ピンボールってのは、女みたいなもんなんだよ」

 云って、キョウがグラスを傾ける。

「なんだよそりゃ」

「いつだって、こっちを楽しませてくれるたあ限んねえだろ。だけど結局、百円玉を放りこんじまう」

「つまんない台詞だね、キョウ」

「そうか? 俺にとっちゃ結構リアルなんだけどな」

 そういって不貞腐れる横顔は、まるで子供のようだ。もしカズがそんな言葉を口にすれば、グラスに残ったジンをぶっかけられるに決まっているけれど。

 カズの前に、マスターがタンブラーを置いた。カズとマスターの間だけで密かにシンジ・スペシャルと呼んでいる、ラムが半分入ったラム・トニックだ。マスターにウィンクして、カズはタンブラーを手に立ち上がる。

 シンジはピンボールを楽しんでいる。タンブラーを左手にぶら下げたまま、カズは黙ってしばらくその姿を眺めていた。

 シンジのプレイは不思議だ。修業中の坊さんみたいに生真面目で難しい表情をして手持ちのテクニックを並べ立てるキョウと違って、シンジはいかにも楽しそうにボールを弾く。ボールは何事もなかったようにターゲットに向かい、再びフリッパーに引き寄せられてゆく。

 二ボール目が外側のレーンを通り、マシーンに呑み込まれた。八十二万点と少し。リプレイは充分狙えるポイントだ。トップ・レーンのひとつにエクストラ・ボールのランプが灯っている。タンブラーが冷たい汗をかいて、カズの手を濡らしている。

 三ボール目。シンジは何の気負いもなくプランジャーを弾く。いくつかのバンパーとぶつかりながらボールが降りてくる。シンジがフリップし、ボールはフィールドを駆け上がる。エクストラ・ボールの表示を外れたボールは、再びフィールドを降りてくる。

 シンジはかろやかに、それでいて正確にフリッパーを操ってエクストラ・ボールを狙い続ける。四つあるトップ・レーンのうちエクストラ・ボールが取れるのはひとつだけで、シンジが何度狙ってもボールは残りのみっつを通過してしまう。

 結局スリングショットのイレギュラーで、ゲームは終わった。ポイントは百二十万点に幾らか、足りない。シンジは大きく息を吐くと、カズに微笑みかけながら手を伸ばした。シンジの右手は空を切る。

 シンジをにらみ付けながら、カズは一息でタンブラーの中身を半分にした。

「シンちゃんさ。さっき、なんて云ったよ」

 残り半分のラム・トニックを手渡して、カズはシンジに背を向けた。シンジは苦笑いしながら、カズの後を追う。

 カウンターでは、キョウがにやにやしながら待ち受けている。

「随分お早いお戻りだねぇ、親分」

「そうかね」カウンターにぽつんと置かれたコースターに、シンジはグラスを乗せる。「二十ほど、足りなかった」

「リプレイ取れなきゃ、おんなじだぜ」

「おまえとおんなじってのは、ちょっと嫌だな」

 間にカズをはさんで、キョウとシンジがののしり合う。ことピンボールがからむと、キョウは妙に興奮しはじめる。どうやっても結局シンジにはかなわないのを自覚しているからなおさらなのだろう、とカズは見ている。

 シンジはラム・トニックの残りを上手そうに呑み干した。シンジの上下するのどぼとけをしばらく眺めてから、カズは黙ってしまったキョウに視線を移す。

 視線が、ドアで止まった。見慣れない客だ。カズがアルバイトをしている昼間にも、見掛けた事がない。気付くと、キョウの目がその女の子に貼りついていた。

 ショート・ヘアにウエスタン・シャツ、白いジーンズの涼しげな女の子は、キョウとの間にストゥールをふたつはさんでカウンターに座った。二杯目のシンジ・スペシャルに取り掛かっているマスターが、カズに目で合図する。

 バイトは六時までの筈なのに、ひどい店だ。カズは渋々立ち上がると、カウンターの端からメニューを取り上げて女の子の席まで運ぶ。女の子は少し戸惑ったふうだったが、

「すいません」

 小さいがはっきりした声で云って、カズに笑いかけた。カズも笑い返して、自分の席に戻る。

「おまえ、あの人知ってんの」

 ショットグラスを右手に持ったまま、キョウが訊ねる。思わず吹き出してしまいそうになるくらいの真顔だ。

「知らないよ。どうかしたの」

「どうかしたの、って――」

 キョウはその先の言葉を呑み込んで、救いを求めるようにシンジを見やった。シンジは興味無さそうにウィンクを返す。その鼻先にマスターがタンブラーを置いた。

「あの、すいません」

 女の子の声。メニューを閉じた女の子は、カズに向かって言葉を続ける。

「シンガポール・スリング」

 無邪気な、それなのにどことなくひんやりした微笑だ。カズも仕方なく笑顔で受けとめる。

「マスター、シンガポール・スリング、ワンです。――夜の分も、バイト代くれる?」

「考えとくよ」マスターは相変わらず楽しそうだ。「ついでにカズ、そこのチェリー・ヒーリング取ってくれ」

「はいな」

 少ししゃくに触る思いで、カズはカウンターの上のボトルをマスターに手渡した。きっとこんなふうだから、この店は流行らないのだ。ふと振り向くと、シンジがなだめるようにカズを見ていた。

 ことっ、とストゥールが鳴った。女の子が立ち上がって、店の奥へと向かってゆく。まるでピアノ線でつながってでもいるみたいに、そちらに向けてキョウの首が回った。

「どうしたのさ」

「――いい、女だな」

 キョウがさっき呑み込んだ言葉は、これだったらしい。

「そうかい」

 やれやれ、とカズは息を吐く。

 女の子はハンドバッグを探って、『エイリアン・スター』にコインを投げ込んだ。

「ピンボール、やるみたいだよ」

「ますますいいじゃねえか。どうだい、シンジ」

「ま、やんねえ女よりかはいいかもな」

 カズから見ると実にシンジらしい、関心の無さそうな返事が戻ってきた。

「そういやキョウ、エリコちゃんはどうしたんだよ」

「ひと月も前の話してんじゃねえよ」

「たった、ひと月前じゃねえかよ」

「そりゃ認識の違いってもんだろうが」

 カズの頭越しに、またジャブの応酬が始まる。十数年かけて出来上がったに違いないこのふたりのこういった関係を、カズは結構気に入っている。

「だから、そんなことを云ってんじゃなくてだな――」

 キョウの言葉を遮るように、拍子木を打つような音がピンボール・マシーンから店内に響く。カウンターの三人が三人とも、息を呑んだ。

 リプレイ・ポイント。


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