テレキャスター・ダンシング Monkey Strut 両谷承
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講義が終わるとまっすぐ大音研の部室に向かうのが、このところの尚美にはすっかり習慣になってしまった。おかげで愛子やクラスの友人たちとはすっかりごぶさたしている。 そんなもんだから、四講めが休講になった事を知ると、尚美の足はすぐに部室に向かっていた。
部室に行けばいつでもセッションができる、という訳ではない。誰もいない部室でひとりでギターを弾いている事もあるし、ジャグラーズが伴奏なしでコーラスの練習をしているところにもたまにでくわす。和がひとりで寝ていたり、酒を飲んでいたりする事もしょっちゅうだ。
三講めがおわったばかりの部室のまわりは、それでも結構学生たちがうろついていた。長屋のふたつ隣にある美術部の連中が総出になって部室の前で得体の知れないオブジェを作っているのを横目で見ながら、尚美は通り過ぎる。
部室のドアを開こうとして、中から話し声が聞こえて来るのに気付いた。尚美はノブから手を離す。
「じゃあさ、和。あたしの存在ってあなたにとってなんなの」
女の声。押し殺された低い声だ。
「−−さあね。それじゃ、あんたにとって俺って何なんだい」
いつもと同じ調子の、和の軽薄な声。
「そんな事、訊くの」
「先に訊いたのはあんたじゃねえか。−−俺ぁ頭悪いからさ、難しい事は分かんねえんだよ。あんたは昔の男とより戻すんだろ。めでたしめでたしじゃねえのか」
「−−平気なのね」
「俺にどうして欲しいんだ? 泣きながら引き止めりゃ満足してくれんのか。生憎と俺、とびきりのいい女見付けたんだ」
女は一瞬口ごもり、それから涙声になる。「分かったわよ。もう、来ないから」
「部室に来ていいなんて、いっぺんも言ったことねえぜ」
和の皮肉な言葉に続いて、ドアが開く。二十をちょっと過ぎたくらいの落ち着いた雰囲気の女が早足で去ってゆくのを、尚美は目で追った。和が立ち上がって、尚美に近づいて来る。
「−−あんた、いたのかよ」
振り向くと、ドアの柱にもたれて立っている和と目が合った。
「追わないの?」
「追わないさ」
和はストゥールのひとつに座った。尚美も部室の中に入っていって、ベンチに腰をおろす。妙な場面にでくわした、という気がして、どうにも居心地が悪い。
「あのひと、涙ぐんでたよ」
「声出して泣き出さなかったのが、せめてもの救いだよな」
うんざりしたように言って、和はラジカセのスイッチを入れる。ざらざらの音でモダンジャズが流れはじめた。
「ほんとに、追いかけなくてもよかったの」
「俺が? どうして」和の声が、どもるように鳴るピアノの音と重なる。「あの女は他の男んとこいったんだぜ。そこで楽しくやりゃいい」
「冷たい台詞だね」
「なんでさ。−−やけにからむな」和は立ち上がって、尚美の隣に座る。「それとも、なにかい。そんなに俺の事が気になんの」
「冗談じゃないわよ」尚美は通学用の革のリュックサックを開けて、楽譜の束を取り出す。
「ほら、借りてた楽譜」
「どうも。ところでさ、今夜空いてる?」
「予定はないけど。何かあるの」
「ちょっとした趣向がね。今、何時だっけ」
「時計くらい持ってなさいよ。三講めがおわってすぐだから、三時ちょっと前くらいかな」
「なるほど。セッションは四時半からだったよな」
「そうよ」
「じゃ、まだ随分あるな」和はするっ、と尚美に身を寄せ、尚美が思わずどぎまぎしてしまうような色っぽい目を向ける。「俺さ、空いた時間の有意義な使い方、知ってるぜ」
和の顔が少し斜めになって、尚美に近づく。手にした楽譜の束で、尚美はその唇を受け止めた。ばちっ、と大きな音がする。
「あいてっ。−−ひでえ」
「悪いけど、こういう安直な展開って好みじゃないんだ。さっきの今でよくやるわね」
「ちぇ」顔をしかめて左手で唇を押さえながら、それでも和は愉快そうな顔を尚美に向ける。「堅え女だな。やっぱりあんた処女だろ」
いつものように軽く受けながそうとするけれど、尚美の声は少し硬くなってしまう。
「今度そんな話題持ち出したら、あんたのバンドはギター抜きになるわよ。ほら」
尚美の差し出した楽譜を、和は片手で受け取る。
「もう、楽譜作んなくていいから」
「何でさ。−−そんなに、怒ったのか」
「そんな事じゃないよ」いつか和がしたみたいに、尚美は挑戦的な目で和を見据える。「あたしは、あたしのプレイをする」
部室の扉は閉じられたままだ。酸素は不足しているけれど、かわりに音が充満している。気温と湿度がとんでもなく高い。頬を汗がつたうのを感じながら、尚美は“サマータイムブルース”のリフを刻む。
ハルさんのドラムは手加減なしのワイルドなビートを打っている。固い音を出す和のベースも好き放題に、それでいてきっちりとハルさんのドラムととけあいながら走り回る。
ザ・フーが“サマータイム・ブルース”を演奏している姿を高校生の頃にビデオで見た事があるのを思い出しながら、尚美はテレキャスターを鳴らす。ギブソンSGをぶらさげたピート・タウンジェンドの信じられないほど高いジャンプ。彼らに負けないくらいに、尚美たちのつくるビートも荒々しい。
派手に、いかれた感じで、ちょっとブルージィに−−尚美の奔放で少し危なっかしいソロを、和とハルさんが支える。三人ともが勝手にやっているようでいて、一番深いところでひとつにまとまったアンサンブル。
“There ain't no cure for the Summertime blues!"
目を見交わしながら頬をくっつけるようにして、和と尚美は一本のマイクに叫ぶ。
「さて、今日はこんなとこにしとこうか」
ハルさんの言葉。和が大きく息を吐くのが聞こえる。
「尚美。ドアと窓、開けとくれよ」
「自分でやりゃいいでしょ」
いつの間にか呼びすてになっている和に言い返しながら、尚美はギターをおいてドアに歩み寄る。ノブに触れる前に、ドアは勝手にゆっくりと開いた。−−なぜか、このドアは尚美が開けようとする時に限って勝手に開く。開いたドアの向こうには、サングラス三人組が立っていた。
「こんばんは、お嬢さん」
中背のサングラスが言った。どう返事したものか尚美が迷っていると、ちびのサングラスが後ろから顔を出した。
「時間通り、ジャグラーズ参上だぜ。セッションはおわったのかい」
「終わったところだよ」ハルさんがドラム・セットの向こうから歩いて来る。
「そんじゃ早く行こうや。車は準備できてる」
「ビールの方は?」和がベースを置く。
「まかせとけって」ちびのジャグラーは胸を張った。「二ダースもありゃいいだろ」
「まあいいや」言って和は尚美の背中を軽く押す。「ほら、行くぞ」
「行くって?」
「今夜は空いてるってさっき言ってたろ」
「だから、どこへよ」
「決まってんだろ」アンプからシールドを抜きながら、和がウインクした。「海、だよ」
「どうして、海なのよ。梅雨もまだ明けてないってのにさ」
夕日に照らされた学内の停車場。なんだか分からないまま連れて来られた尚美はとがめるように和に尋ねる。停まっている軽トラックの荷台の上からちびのジャグラーが投げてよこしたビールの缶を受け取って、和が答える。
「まだシーズンじゃないから、行くのさ」和はプルトップを開けて、ひとくち飲む。「一番乗りってやつ」
「飲酒運転の車には、乗りたくないな」
「ご心配なく」中背のジャグラーが歩いて来て、尚美にビールを手渡す。「うちの末っ子は下戸だし、おたくのハルさんもあんまり飲まないからさ」
尚美が軽トラックを見やると、運転席から身を乗り出したのっぽのジャグラーが尚美に向けて右手の親指を立ててみせた。
不意に、クラクション。振り向いた尚美に大きなヘッド・ライトがパッシングした。青い、角ばった巨大なおんぼろ車。左の窓からハルさんが顔を出す。思わず尚美は和を見る。
「あれ、何よ」
「キャディラック」和は肩をすくめた。「あんたのために用意したんだぜ」
外から見ても大きいと感じたけれど、後部座席に座ってみて尚美は改めてそのばかでかさに唖然とした。カー・ステレオからはジョン・レノンのロックン・ロール・アルバムが流れていて、運転しているハルさんはジョンの声に合わせながらハミングしている。
「気分いいだろ」
尚美の隣には和が座っている。
「あたし、助手席がよかったな」
「文句言うなって」ビール缶を握った手を和は尚美の肩に回す。「恋人たちはバックシートって昔から相場が決まってんだから」
「どこに恋人たちがいるのよ」尚美は和の腕を押しのける。
「もめるなよ」ハルさんの呑気な声。
「もめてなんか−−そうだ。ねえハルさん、どうして演奏中は部室のドアとか窓とか開けちゃいけないんですか?」
「ああ、あれかい」キャディラックを信号で止めて、ハルさんは後部座席に顔を向ける。「昔、過激派のメガホンと音量で勝負した馬鹿がいたんだ。それ以来、大学当局から禁じられてるってのが事の真相」
「大音研って何の略か知ってるかい」和はビールを口にする。「そもそもは大衆音楽研究会だったらしいけど、一九六九年以来大音量研究会って事になっちまったんだ」
信号が変わって、キャディラックは発進する。フロント・ウィンドウ越しに、先行する軽トラックの荷台からちびのジャグラーが尚美に手を振るのが見えた。
軽トラックとキャディラックは、松林の横に止まった。すっかり日が落ちてしまっている。軽トラックから何やら荷降ろししているジャグラーズを残して、尚美はハルさん、和と一緒に松林を抜けた。
少し荒れた波の音と潮の匂い。夏を待っている人気のない浜辺にはひとつの照明もなくて、うすぐもりの空からのくすんだ月の光だけが尚美たちを照らしている。
無言で砂の上を歩くハルさんと和の後を追って波打ち際までたどり着いたところで、ジャグラーズが尚美たちを呼んだ。尚美は振り向いて、それから笑い出した。
ビーチパラソル、ビーチマット、大きなラジオカセットに積み上げられた缶ビール。ジャグラーズのセッティングした光景は淋しい浜辺にはあまりに季節外れで、場違いで、ばかばかしくて、小粋だった。
「わざわざこのために、マットとかパラソルとか調達して来たの?」
ビーチマットに腰を下ろしてヒット・チャートを聴きながら、尚美は隣でビールを飲んでいる和に話しかけた。
「もちろん。キャディラックもね。ジャグラーズはこうした仕掛けが好きでさ。でも、今夜は俺とあんたのためだって言ってるぜ」
そう言うと、和は尚美に肩を寄せて来た。尚美は缶ビールの山からひとつ、手に取る。「あのさ。あたし、あんたからまともに口説かれた事もないんだよ」
言いながら尚美はビールの缶を振って、それから和の顔めがけて開けた。炭酸の泡を顔中に浴びて、和は尚美がはじめて見掛けた日みたいにびしょ濡れになった。
「ぶはぁ。やってくれんじゃん」
「そうしてんのが一番素敵よ、和くん」
「ありがと」前髪からビールを垂らしながら和は満足そうに目を閉じ、それから尚美にこれまで見せたことのない複雑なまなざしを向ける。すれっからしたタフさの向こうに、どこかもろそうな繊細さが透けて見えるような視線。「ほんとに、まともに口説いてほしいのかい」
「早く来いよ、和。雰囲気だしてないでさ」
中背のジャグラーが和に呼びかける。
「この有様のどこに雰囲気があるってんだ」
和は立ち上がる。浜辺のあちこちにちらばっていたハルさんやジャグラーズが集まってきて、尚美の前で横一列に並んだ。
「大音研の姫さんのために、ひとステージやらせてもらうよ」ちびのジャグラーが、指を鳴らしはじめる。「いち、に、せー、のっ」 フィンガー・スナップに合わせて、五人の男の子はアカペラで歌いはじめる。キャロル・キングの『ユーヴ・ガット・ア・フレンド』。和のしゃがれ声とハルさんの澄んだハイ・トーンはジャグラーズの柔らかいハーモニーに溶けて、透けた雲におおわれた空に吸い込まれてゆく。
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