テレキャスター・ダンシング
Monkey Strut
両谷承

一へ戻る。三へ進む。



 昨日までの雨はやんだけれど空気はまだ湿っぽくて、尚美は羽織っているデニムの上着を何となく重苦しく感じながら歩いている。講義棟とサークル棟の間の砂利道をくたびれたデザート・ブーツで踏みながら、四日前に愛子と交わした会話の事を尚美はぼんやりと考えた。

 別に大学に入学してからの二か月がそんなに暇だった訳じゃない。新しい街で始めた初めてのひとり暮らしはそれなりに慌ただしかった。慣れない生活のせいもあったし、愛子というやたらと社交的な友人ができたせいもあった。

 それでもやっぱり、尚美はどこかで退屈を感じていた。どんな事にも、スリルが感じられない。愛子に引っ張り出されてコンパに出たり、男の子たちと朝まで遊んでいた事もあった。そんな時にも尚美は、妙に醒めていて楽しめない自分を感じた。

 なぜかは、よく分からない。思い当たるふしもない。クラスの連中は楽しげにやっている。自分だけが、他の大学生と違っているとは思えない。この街だって気に入っている。 尚美は曇り空を見上げた。きっと、こんな天気が続いているせいもあるに違いない。

 砂利道を抜けるとちょっとした広場になっていて、学生たちが停められた車の間で騒いでいる。土曜の午後だ。広場の隣のテニス・コートもだいぶ賑わっている。そのわきを通って、尚美は古びた長屋のような小汚ないサークル棟の前に出た。

「すいません。C=二八ってどこですか」

 通りすがりのテニス・ルックの男の子に訊ねる。男の子は少しけげんそうな顔をして、

「大音研? ええとね、そこのサークル棟の裏に回って三つめくらいにやたら派手な部室があるから、すぐ分かるよ」

 どうも、と軽く一礼して、尚美は昨日までの雨が作った水溜まりをよけながらサークル棟をひと回りした。C=二八は簡単に見付かった。

 木造のサークル棟はどこも白いペンキがところどころに残った灰色をしているのに、C=二八の壁だけは緑や黄色で雑に塗りつぶされている。ドアには刷毛の跡が残る赤い字で大きく『大音研』と書かれていた。タキシード少年が背中に立てていたのぼりと同じ配色だ。

「ワン、トゥー、せー、のっ」

 あまりのいかがわしさにドアを開けたものか尚美が迷っていると、向こうから掛け声とそれに続くエレクトリック・ピアノの音が聞こえて来た。ハイ・トーンの、それでもはっきり男だと分かる声が歌いはじめ、それをコーラスが追いかける。

 尚美も知っている曲だ。ジャクソン・ファイブの「アイル・ビー・ゼア」を、ピアノ一本の伴奏で四、五人の男の子が歌っている。それはとても楽しげで、尚美はドアノブに掛けた手を引っ込める。

 演奏が終わる。尚美がノックする暇もなくドアは大きくきしみながら開いて、中から黒いサングラスの男の子が三人、駆け出して来る。

「ぶはぁ、何てひでえ空気だよ」

「どこの馬鹿だ。プレイ中はドアも窓も開けるな、なんて決めやがったのは」

「あーあ、血管ん中が二酸化炭素であふれてやがんぜ。−−おや?」

 口々に悪態をまきちらかしていた男の子たちは、尚美に気付くとなぜか横一列にきちんと整列した。右から、背の高い順だ。

「何かご用ですか? お嬢さん」

 一九〇センチはありそうなのっぽが尚美に話しかける。尚美はすっかり動転してしまって、スムースに言葉が出て来ない。

「あの−−こちらで、ギター弾きを探してるって」

 おおっ、と声を上げながら三人組は互いの顔を見合わせる。左端の、身長一七〇センチの尚美よりだいぶ背の低い太った男の子が、部室の中に向って叫ぶ。

「それみろハルさん、効果は抜群だったろ?しかも女の子と来たぜ」

「ああ、認めるよ」部室から、ダンガリー・シャツを来た大柄な男の子が出てきた。「和もこれで浮かばれるだろ」

「あの」尚美はハルさんと呼ばれた男の子の顔を見る。「すいませんけど−−」

「ああ、ギター弾き欲しがってたのは俺たちちだよ。ま、入って」

 三人組の男の子はさっ、と尚美の通り道を開ける。

「どうぞ、お入りください」

 声まで三人ユニゾンだ。尚美はおそるおそる、部室の中を覗き込む。

 乱雑、なんて可愛らしいものではない。十二畳ほどの部室のまん中にはドラム・セットが居座っていて、左の壁際には新旧大小とりまぜて六つのアンプが並んでいる。その脇のエレクトリック・ピアノはとうてい鳴るとは思えないおんぼろだ。反対側の壁は汚いポスターで埋めつくされていて、残りの空間は古びたテーブルや椅子、いくつもあるラジカセやどこかからかっぱらって来たらしい看板、標識その他わけのわからないものに占領されている。

「何やってんだよ。早く入りなよ」

 その中にぽつんと座っているやせた男の子が、尚美にぶっきらぼうに声を掛けた。どこか神経質そうな削げた頬の線と、印象的な鋭い眼。ホーム・ルームで見掛けた例のぬれねずみ少年だ。

「おい和、女の子は優しく扱わなきゃいけねえぜ」

 三人組の真ん中の、ちょっとハンサムな男の子が分別臭い口調で云う。ぬれねずみ少年はちょっと肩をすくめた。

「いいから、座りなよ。大丈夫だからさ」

 ハルさんにせかされて、尚美は木のストゥールのひとつに腰を下ろした。ぬれねずみ少年が立ち上がる。

「じゃおいらたち、行くからよ。そのべっぴんさんに悪さすんじゃねえぜ」

 戸口から三人組の一番ちびの声が聞こえた。尚美は思わず、横に立っているハルさんの顔を見上げる。ハルさんは苦笑して、

「おい、何言ってんだよ」

「ハルさんじゃねえ、おいらは和に言ってんだよ」ちびはけけっ、と笑った。「そんじゃまた今度な」

「ああ」

 三人組が去って行くのを見届けて、ハルさんは尚美の向かいの椅子に座った。

「さて、と。きみ、ギター弾けるの」

 さっき言ったじゃないか。尚美は少し、むっとしながら答える。

「−−あ、気に障ったんならごめん」ダンガリー・シャツの顔がふわり、と笑う。

「女の子が来るなんて思いもしなかったもんでさ。俺は宮沢晴彦。あいつは、青沼和って言うんだ」

 少し離れて立っていたぬれねずみ少年を、ハルさんは示した。軍用コートに細いジーンズのぬれねずみ少年は尚美に近づいて来るとしゃがみ込んで尚美の顔をじろじろ眺め始めた。

「こら、和」

「ふうん」和はしゃがんだままだ。「あんた、美人じゃん。悪くない脚してるし」

「とっとと座れよ。失礼だろ」

 しぶしぶ立ち上がって、和は壁際のベンチに腰掛けた。ハルさんは、しょうがないな、と言うふうにちらっと和を見やって言う。

「ねえ、名前訊いていいかな」

「あ、平田尚美っていいます」

「平田さん、か。新入生?」

「そうです。文学部」

「じゃ、和と同じだ。おれは工学部の二年。今年で二回目だけどね」

「バンドばっかやってるから、留年すんだよ」和がからかうように言う。まだ尚美を見つめたままだ。

「そうかもしれないけどな。それよりも俺はお前がストレートで合格したのが不思議だよ」

「才能だよ」

「ばくちの才能か? ところで平田さん、バンドの経験はあるのかな」

「高校の時、やってました」尚美は昔のバンドの事を少し、思い出した。「あんまりギター、上手くならなかったですけど」

「かまやしないよ。俺−−あ、ハルって呼んでよ−−がタイコ叩いて、そいつがベース。おい、こっち来てちゃんとあいさつしろよ」

 言われて、和はゆっくりと立ち上がった。今度はしゃがまずに、尚美に向かってにこやかに右手を差しのべる。

「ひとの事苗字で呼ぶのも、呼ばれるのも嫌いなんだ。よろしく、尚美ちゃん」

 尚美も立って、和の手を握った。

「よろしく、和くん」

「ひとつ訊きたいんだけど」和は右手を握ったままだ。「尚美ちゃんさ、あんた、処女?」

 尚美は思わず手をふりはらって和のにやにや笑いをまじまじと見つめた。こいつは、どういう神経をしているんだろう。

「和、お前な−−」

「だってこんなべっぴんなんだしさ、気になるじゃん」和はにやついたまま呆れ顔のハルさんの方へ首を回した。「それに俺、聞いたことあんだよ。処女かどうかでギターの鳴りが変わるって」

「頼むから、ちょっと黙ってろ」

「バンドの面接だって。じゃ第二問、安全日はいつごろ?」

 尚美は和をまっすぐににらみつける。そのまま立ち去ろうとして、尚美は和の笑いが口元だけなのに気付いた。その目はまるで挑発してるみたいに鋭いままだ。

 −−試されているのだったら、ここで引っ込むのは性分じゃない。

「あたしはギターを弾きに来たんだ。あんたのベッドにもぐりこむつもりはないよ」

 和の視線をまともに受け止めたまま尚美が言うと、和は薄笑いをしまい込んだ。

「どうだいハルさん。言われちまったぜ」

「お前なあ」ハルさんは繰り返す。

「俺、この娘気に入ったよ」和の目が、いくらかひとなつっこくなった。「ジャグラーズの言う事もまんざら与太ばっかじゃねえんだな」

「ジャグラーズ?」

「さっきの三人組だよ」ハルさんが答える。「ソウル・ボーカル・トリオだって自称してる。きみはこいつのタキシード見て来たんだろ」

「そうですけど」

「おれにあんなちんどん屋やらせたのはあいつらなんだよ」和はどこか楽しげだ。

「どうなる事かと思ったけどさ、こんな綺麗なギター弾きが捕まったんだから一杯ずつでも奢ってやんなきゃよ」

 何て奴ら! 尚美は少し呆れながら、それでもさっきまでの重苦しい気分の湿気がゆっくりと消えてゆくのを感じる。

「で−−どんなの、やるんですか」

「ロック・アンド・ロールだよ」

 無愛想に言い切った和に続いて、ハルさんが言葉を足す。

「シンプルなやつをやろうと思ってたんだよね。三人きりのバンドだしさ。そういうの、すきかな」

「昔の単純なロックとか、よく聴きますけど」

「上等。問題なしだ」和は尚美の肩にひじを乗せて、目を覗き込む。「ね、あんた歌えるかい。かっこいいハスキーボイス、してるぜ」

「ジャニス・ジョプリンでもやろうっての」

「ジャニス? −−いいねえ。ハルさん、最初のジャムのネタは決まったみたいだよ」

「待ってよ。あたしまだバンドやるって決めた訳じゃ−−」

「入らないの?」

 和はまた、薄笑いと値踏みするような目を尚美に向ける。

「−−入るわよ」

 住所と電話番号をハルさんに教えて、尚美は大音研の部室を出ることにした。今日はギターを持って来ていなかったし、それでなくても一年以上弾いていないのにいきなりセッションできる自信もない。

「また会える日を楽しみにしてるよ。今度は処女かどうか教えてね」

 愉快そうに言う和にあかんべを残して、尚美は部室を出た−−何年ぶりかに感じる不思議な胸騒ぎに、少しとまどいながら。


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