投函された一通の手紙
連載第7回 (秩父市 三木久幸)


 たこいさんへ。

 糸納豆有り難うございました。面白かったです。

 レイアウトが今回はちょっとおとなし目かな、と思いました。前のがすごく凝ってたから、その反動でしょうか。

 そんな中でも、思いっきりレイアウトが派手だった宮沢さんの文章が、期待通りにすごく面白かった。青山通りのツタの絡まるアパートというのは、友だちの結婚式に行く途中に通りかかったことがあります。文章にある通り、ものすごく雰囲気のいい一角で、何かいわれのあるアパートかな、と思わせるものがありました。同潤会アパートっていうんですか、どういういわれのものなんでしょう。

 それにしても、また僕の手紙が載ってましたね。「さすがに今回は載らないかも」と思ってたのに。できの良くない時は載せなくても良いですよ。ほんとに。(中略)ってやっても良いし。

 でもあの編集後記はひどい。「や〜めた」なんでどこで言ってるよお。ちゃんと読んで下さい。俺は「SFの感動じゃなかったから、SF引退は保留にする」って言ってるはずです。やっぱり編集後記のようにしか受けとれなかったら、それは私の文章力の低さですが。まあでも、結局『アルジャーノン』はわたしにとっては「面白くなかった」ということでしょう。「SFとしての〜」とか何とか考えてしまうようでは、冷静さが残ってるわけですからね。

 でも、面白そうな本を教えてもらいました。『ハイペリオン』とイアン・ワトスン(「〜の書」っていう三部作でしょうか)。最近、小説を読んでみようと思っているので、ちょうど良かったです。

 というのも、実は北村薫の『スキップ』を読んだんです。これは面白かった。文句無し。先を読みたい、とページをめくるような読書を久しぶりに味わいました。

 実は、女子大生「わたし」のシリーズの後に出た本は、『冬のオペラ』も『水に眠る』も、今一つピンと来なかったんです。『冬のオペラ』は、女子大生シリーズとあまりに仕掛けが近すぎて、女子大生シリーズ用のアイデアを使い回してるような印象だったし、『水に眠る』は、良い話が多すぎて、この人はこういう方向へ行ってしまうのか、と心配してしまった。「こんなもので北村薫の筆力を無駄使いしてはいかん」という感じでした。

 しかしこの『スキップ』は良い。女子大生のシリーズでは、日常の中に「ミステリー」が、するりと入り込んで来たのに対して、今回は「SF」が入り込んでくる。で、どうなるのかといえば、この日常は、北村薫のまな板の上に載っている、という感じ。あとは北村薫の筆力が冴える。

 そう、この本で北村薫は自分の世界にSFという「ジャンル」の方を引っぱり込んでる。「北村薫がSFを書いた」という図式とは正反対で、北村薫は自分の場所から動かずに、手を伸ばして「SF」をわし掴みにし、そのエッセンスを味わった上で自分の料理の素材にしてる。その証拠に、ジュブナイル的なSFではストーリーが「日常からSF」へと展開するのに対して、『スキップ』では、「SFから日常へ」という展開をする。着地点は「日常」(=北村薫の世界)なんです。これはSFをミステリーと置き換えれば、女子大生シリーズにも通用すると思うのですが。

 そんな荒技が可能なのも、やはりこの人の筆力のなせるワザですね。特に、心情描写の精密なこと。だから、『水に眠る』みたいなのを読むと、「器用貧乏」という言葉が浮かんできて、心配してしまうんです。こんな事やってる場合じゃない、こんなのなら他の人でも出来るぞ、と。

 「筆力の冴え+枠組みを越えるアイデア」。そんな荒技ばかり要求されるとすると、北村薫という作家は随分しんどい作家かもしれない。しかし、自分の「場」に外のものを引っぱり込んで勝負を掛けるタイプの表現には、常に受け手の要求をクリアするためのプラス・アルファを要求されるのです。そうでないと、あっという間に飽きられてしまう。「場」の居心地の良さと、外から導入するもののセンスの良さ、それがサンプリング世代の価値観でしょう。

 北村薫をサンプリング世代などというと、え? と思うかもしれない。自分だって書いてて違和感がありますもの。でもこの人のやり方、理屈だけで考えると、サンプリング音楽のやり方に似てる気がして、つい書いてしまった。書いた後で「なるほど」と思う部分もあるんですが、どうでしょう。 サンプリングと聞いたときに起こる違和感。それは、「サンプリング」というキーワードに対する警戒感でしょう。「サンプリング」と聞いて、まず初めに思い出すのはテクノのそれですものね。テクノ音楽に詳しくなければ、アンディ・ウォーホールを思い出せばいい(ウォーホールがやったのは、イメージのサンプリング)。あるフレーズの切り出し→エフェクトを懸けることによる差異化→繰り返しによる無意味化。そう、この手の「サンプリング」とは、無意味化を目的とした批評、パロディと紙一重の手法です。残るのは、つらっとした表面的なものだけ。

 でも最近のサンプリング音楽はちょっと事情が違うらしい。「批評、パロディ」の代わりに、「リスペクト」という言葉を使う。好きだからこそ、引用する。それはごく自然なことで、サンプリングという言葉が生まれる前から行なわれてきたことでしょう。でも、そこに発生する「場」は、自然と「同じものを好きな人同志のサークル」になる。スチャダラパー、ピチカート・ファイブなんかを聴いたときに感じる「閉じてる感じ」の正体は、こういう感じでしょうか。これらに比べたら、サンプリングの本家・テクノの雄、電気グルーヴの方がずっと「開いてる」。こっち側に働きかけようとする意志が感じられる。

 北村薫に感じるサンプリング世代、とはやはり後者の感じです。「閉じてる感じ」は、確かにある。この小説が一部の「通」に評判を呼んでけっこう売れて、星雲賞(いやSF大賞か)なんかを取って、オオバヤシカントクの新尾道三部作の三作目として映画化なんかされて、なんてなったらと想像すると、「閉じてる感じ」を実感できるんじゃないでしょうか。これはいやですよね。

 ところで突然ですが、サンプリングのバックトラックによるラップ音楽では、トーキョー・ナンバーワン・ソウルセットが良いです。「歌は歌詞だ。でもラップの言葉遊びみたいなのは苦手だ。ラップといえば、やっぱり「ヴィジターズ」だよね」そんなことをおっしゃる、ちょっと佐野元春ファンの人には、特にお薦めです。

 例えば、

 根本的な新しさはなく、大胆なバリエーションに過ぎない。
 長ったらしいカタログは、何の役にも立ちはしない。
 何の役にも立ちはしない。

なんて歌詞をつぶやく。サンプリングされたバックトラックの前で。

 この構造は、自嘲をちょっと含んだ「閉塞感」の告発です。イラダチが、「閉塞感」をちょっとだけ打ち破ってる。でも、このイラダチもどっかから引用したものなのかも知れない。なにしろ、この人の文体は昭和初期の文学のもので、歌詞だってサンプリングの匂いたっぷり。でも、オリジナルかコピーかなんて、考えてもそんなに意味のあることじゃない。イラダチがあることだけが事実。だって、オリジナルかコピーかを問題にするなら、僕らが日頃感じてる感情だって、どうかわからない。ディックファンの人なら、それを楽しんで遊んじゃう事も出来るのかもしれないけど。

 小沢健二とコーネリアスでは、小沢の方により「閉塞感」を感じる。でも、これは単にスチャダラパーとの交友から来る連想かも知れない。「どうしたんだよコーネリアス」とは、僕も思う。カヒミ・カリィで遊んでる場合じゃないよねえ、まして宅八郎とカラオケなんてトホホすぎる。

 でも、僕は最後にはコーネリアスが勝つような気がしてます。小沢は信者を増やすばかりでCDは大して売れないんじゃないか、何年かしたらコーネリアスの方がコンスタントに「売れる曲」を作ってるんじゃないか、と。

 ああ、でもそれこそビートルズ解散後のジョン・レノンとポール・マッカートニーから来る陳腐な連想かもしれない。小沢が早死に、歳とってもアイドルの小山田、なんて似合いすぎてホントに陳腐だわ。う〜ん。だめだめ。

 そういえば、小沢健二もこう歌ってます。

 ありとあらゆる種類の言葉を知って、
 何も言えなくなるなんて、
 そんな馬鹿な過ちはしないのさ。

 いろんな事に先行例があるってのはやっかいなことで、サンプリングは、そういう時代を生きるための道具なんでしょうか。でも、黙ってしまわずに、逞しくやり続けることが重要のはず。

 で、どんな手を使ってても良い作品は良い。それだけですね。


 話はがらりと変わって。

 私は、このたびプリンターを購入しました。秋葉原のソフマップ中古マック専門店で買った、スタイルライターIIです。また一歩電脳化が進んだ訳です。これで会社でこそこそプリントアウトしなくても手紙が書けます。

 でもパソ通までの道はまだまだ遠い。この間も会社の先輩が「パソ通をしている」という話をしていた時、「カプラーって、いくらぐらいですか」と聞いてしまい、失笑を買ってしまいました。「いつの人間だ」とか言って。モデムって、カプラーの別名だと思ってた。

 会社にもマック・ユーザーが増えてきて、機種をよく聞かれるのですが、「往年の名機、SE/30だよ」と答えたら、「え、あの白黒の? クラシックみたいな形の?」と言われたので、「いや、今でも使ってる人多いよ、名機だモン」とむくれたら、「太平洋戦争の「勝ち組」みたいな事いいますね」と言われてしまいました。はは、「マック・横井さん」と呼んでください。


 書きながら考え、考えながら書いたら、結局また取り留めのない展開の手紙になってしまいました。そろそろ終わりにします。

 坂中の手紙に話し言葉は読みにくい、とあったので少し控えめにしてみました。いかがでしょうか。「話し言葉は読みにくい」というより、俺の文章が読みにくいんでしょう。だって自分の文章、糸納豆誌上で読むと自分でも読みにくいもの。

 たこいさんの文体の読み易さは、(笑)の多用にあると思うな。(笑)で、随分たくさんのニュアンスを使い分けてて、(笑)の発明(発見?)は、偉大だなあ、と思います。

 ではまた。

                          1995.8.25.


音楽関係エッセイ集に戻る。
「糸納豆EXPRESS・電脳版」に戻る。
「糸納豆ホームページ」に戻る。