投函された一通の手紙
連載第15回 (千葉市 三木久幸)


 たこいさんへ。

 こんにちは。「糸納豆」届きました。有難うございます。

 「お楽しみは〜」の3本立てが豪華でしたね。私には、「吾妻ひでお」の話が面白かったです。なんというか、やはりあの辺りが分岐点ですよね、いろいろと。と、詳細はごまかしてお茶を濁しましょう。「あずまきよひこ」の漫画は読んだことがないのですが、引用されている会話で笑ってしまいました(笑)。

 しかし、たこいさん以外の原稿が「手紙」だけとは...。他の原稿の「濃さ」あっての、この「薄さ」。でなければこんな大した事ない世間話、限度があるよなあ。などと一応考える訳ですよ。特に紙版になったのを読むと、ホントに恥ずかしくなりますね。つまり、書いている最中に客観的な読み方ができていないってことですね。(いつかもこんなことを書いたような気がします。)まあ、とりあえず「もうやめろ」と言われるまでは書いてみようと思います。基本的には手紙ですからね。やめて欲しければそれとなくお伝えくださいね。

 編集後記で、森博嗣を読む気になったかも、とのこと。ぜひぜひ手にとって見てください。「スカイ・クロラ」は続編の「ナ・バ・テア」が出ましたよ。一貫して沈んだムードのSFです。

 そうそう、いつだったかたこいさんの書いてた、エヴァゲリオン=デビルマン説は、庵野監督が「キューティハニー」を作ったわけで、裏付けられましたね。うーん、さすが。


 私の、この一年の近況ですが、またまた引越しをしました。そのせいでご迷惑をかけてしまいました。どうもすいませんでした。たぶん、もうしないと思いますので(笑)、ご容赦を。しかし、郵便局には転宅届けを出してたんですが...。宅急便にも転送サービスってあるのかなぁ。

 でも生活面では、引越しをして変わった事はあまりないんです。ちょっと長くなっただけで車通勤のままですし、職場も同じで相変わらずの忙しさです。引っ越した先が難視聴地域だったことが引越し後に判りまして(近くのマンションのせいです)、仕方がないのでケーブルTVを入れました。アニメ専用チャンネルもあって、夜中に帰ってきて「未来少年コナン」とか「イデオン」なんかやってると嬉しくなっちゃいますね。あれって、きっと30代のおっさん向けなんだろうな。

 あと、なんと言っても、音楽チャンネルですね。普通は試しに聞きたい曲があると、レンタルで聞くしかない訳ですが、借りてきてMDに落としたりCDに焼いたりするのは面倒くさいんですよね。音楽チャンネルをだらだら見てると、結構「一度聞きたかった」という曲をやってるので、気に入ったのをチェックするのに良いです。

 この間、その音楽チャンネルで中村一義のバンド、100sのデビュー曲、「A」を聞きました。中村一義のアッパーな曲の、ラストに向かって徐々にキーが上がっていく感じ。「A」は、その「上がってゆく」部分だけを切り取って編集したような、いかにも中村一義でありながら、今までの中村一義ではない感じ。相変わらず歌詞はまったく聞き取れないけど、「永遠にどこにもたどり着かない」ことを称えるような高揚感を感じました。まさにバンド100sとしてのデビューを飾るに相応しい曲でしょう。

 と、いうことで。今回は中村一義についてにしようと思います。彼に学ぶ、「負け方とは?」という話。


 そもそも、初めてラジオで彼のデビュー曲、「犬と猫」を聞いた時には全然ピンとこなかった。曲調は普通にポップだし、歌詞は何を言ってるか、判らないし。でもデビューアルバム「金字塔」の歌詞カードを手にして愕然とするわけです。「『デードーゥ、オウ』って聞こえるところは『で、どう?』なのか!」「『ガヨクナシターンダー』って『我欲成したんだ』なのかぁ」などなど、実は聞こえてた通りの歌詞だったんですね。

 彼のデビューは、96年か、97年か。個人的には「オザケンが一人で勝手に終わらせようとした世紀末を、ジャンプなしに、もう一度きちんとやってみる」という意味合いに思えました。その意味で、私にとってはエヴァンゲリオンと重なって思えたのです。「やがて離婚してしまう両親から充分な愛情をもらえず、祖父母に育てられ、自室に引きこもって宅録に耽り、何百曲ものストックを持つ」というプロフィールも、それに相応しいものに思えました。

「のんびりと僕は行く。痛みの雨ん中で。」(犬と猫)
「ああ、全てが人並みに、上手くいきますように」(永遠なるもの)

 そう、デビュー前の彼は負けていて、負けた地点からのデビューだった。でも、彼には負けることができるだけの才能があった。いや、それでは言葉が不適切。才能の価値は、勝ち負けとは無関係なのだから。

「全ての人達に足りないのは、ほんの少しの博愛なる気持ちなんじゃないかなあ。」(永遠なるもの)

 アルバムラストで呟かれるそんな一言も、拡散してしまう直前の「祈り」というレベルのリアルさを獲得していた。そして、祝福の拍手。彼は、アルバムラストで、負けた状態から開放される。

 しかし、次のアルバム「太陽」で、彼は自分の立っている地面を見失ってしまう。

「ただ僕等は絶望の“望”を信じる。」(魂の本)
「ほら、笑顔。泣き顔も笑顔。」(笑顔)

 そこには、自分の才能を制御できずに、翻弄される彼の姿が見える。絶望の望?泣き顔も笑顔? 言葉の上っ面にしか思えなかった。ただ、

「「終わりだ」と言って、健康に生きてる、殺風景よ、さよなら...。また今度ね。」(再会)

という呟きだけが、誠実さを感じさせてはくれた。でも、誠実さなんて、才能とは関係ない。彼でなくでも良いじゃないか。

 ここでの彼は、自分の部屋から外へ飛び出しはしたが、その世界の眩しさに立ちくらんでいる。これは、そういうアルバムだ。「太陽」というタイトルは、皮肉にも本質を言い当てていた。

 その後、彼は苦難の時期を迎えることになる。レコード会社との契約切れ、インディーズからのシングルリリース、などなど。

 しかし、インディーズリリースしたシングル曲の別アレンジを含んで製作されたサード「ERA」は、まさに起死回生のロックアルバム。「太陽」で大幅に採用した外部ミュージシャンの起用を減らし、もう一度宅録の比率を高めたこのアルバムに満ち満ちているのは、「怒り」の感情。「ERA」は、怒りをバネにして外へ出る、というレベルではなく、怒りそのものを作品化したようなアルバムになった。

「あんただって、いたろ? 腐りきって、臭ったルールの中に」(メロウ)
「合わせてばっかいんな...。いっつも息を殺して...。一人でも行くんだ。あんたに言ってんだ。」(威風堂々)
「死んだ振り...?(振り...? なら死ねよ。)」(ゲルニカ) <()内は歌詞カードにはなく、聞き取り>
「どうせ、あれだろう? 言い飽きないの? 死んだ夢だろう? もう、いいんじゃない?」(ロックンロール)
「クロだったものも、シロに化かす、ホント、素晴らしき世界だね。忌まわしき世界だね。」(素晴らしき世界)

 このアルバムの発売は2000年。彼は、世紀末にけりを付ける。

「今、この黒い世紀の橋を威風堂々と渡るよ。」(威風堂々)
「新世紀だろうがさ、根本はなんも変わりゃしない。」(ゲルニカ)

 そう、新世紀になろうがどうなろうが、根本は何も変わらない。世紀末なんて、結局気分の問題なんじゃないのか? オザケンが一気にジャンプした結論へ、彼はこうしてきちんと足跡を残す形でたどり着いたのです。

 このアルバムが前の2枚と大きく異なるのは、アレンジ。このアレンジの鋭さ。どの音もエッヂが立っていて、メリハリが利いている。これを聞いた後では、もう「金字塔」のアレンジは生ぬるく思えてしまった。なかでも「ゲルニカ」はストリングスが大胆に起用された大傑作。世界の美しさをたたえるアレンジと、その美しい世界をも焼こうとする歌詞。この歌には、振幅の大きな感情の渦が詰め込まれている。

「真っ白と黒のゲルニカに、たくさん色を塗れたら」
「あの人は今、捨てられた犬を焼いてる」
「何枚ゲルニカのレプリカを、描いては焼いたのさ?」(ゲルニカ)

 具体的な意味も、メタファー的な意味も読みようがない。それでも、この高揚感と苛立ちの同居は、他に類を見ない。その両方に同時に立っている、そんな「天才の境地」を垣間見せてくれる一曲だ。

 そして、彼は再び世界との接触を試みる。当時はまだ「100式」と表記していたように思うバンドを従えての4枚目、「100s」。ここで、彼はバンドのメンバーを通じてついに世界との繋がりを確保することができている。そのバンドアレンジ、その歌詞は、これまでになくストレートだ。

「僕は死ぬように生きていたくはない。」(キャノンボール)

 そのことが彼に変化をもたらしたのだろうか? ラスト近く、「メキシコ」。初めてこの曲を聴いたときは、驚いた。彼からこんな言葉を聞くことになるとは。

「初めは「2人」の愛が産んだんだもの。」(メキシコ)

 彼のプロフィールを知るものにとって、これは落涙せずにはいられないフレーズだ。なんせ、「2人」の愛が産んだ、だ。これは両親のことだろう。彼は両親を許す方法を手に入れたのだ。「初めは」に込められた少しのブラックさがリアルで、却って彼の「許し」が本物だと伝えている気がした。そして、

「たった一つの、あのドーナッツを...、あのドーナッツを。僕にくれたさあ、このドーナッツを食べようと思う。僕等は「2人」の愛が産んだんだもの。」(メキシコ)

 彼の両親は、子供の彼に一つしかないドーナッツをくれたのだ。たった一つのドーナッツを子供にあげる親の心。それをもらった子は、ようやく今、そのドーナッツを食べようと決意したのだ。これが涙せずにいられるだろうか? 続く曲には、こんなフレーズがある。

「予想以上に、予想以上に、夢は夢で過ぎてく? でも、どうだろう? 残るだろう? そこ、ひとつ。君さ。君の灯り」(新世界)

 このフレーズこそ、「負けることができる天才」中村一義のメッセージだ。このフレーズを背にすれば、人は冒険に臨むことができる。そう、

「見たい、見たい、見たい、見たい。無茶な言い分だって? もう、いい。本当の冒険を見たい、見たい、見たい。」(セブンスター)

 負ける可能性は、もちろん、ある。それでこそ冒険。でも、負けてもそこに灯りが残るなら、そう信じることができれば、僕らも冒険に挑めるというもの。最後の引用はサード「ERA」から。

「僕らがさあ、雨にも負けて、風にも負ける、けど、晴れた日には進める生き物ならば、そう、ねえ、新しい地へ、そう、ねえ、歩けるから」(威風堂々)

 彼は新しい地へたどり着ける、とは歌わない。冒険の価値は、歩くことそのものにあるのだ。

 中村一義は、負けている状態から出発し、負けることを経験し、そこからの前進を示し、ついに負けること込みで全てを肯定しようとする意志に到達した。今後、バンド100sとしての彼がどのような道を示すのだろうか? おそらく今後も彼は負けるだろう。でも、彼の才能は、勝つこと負けること、ポジティブネガティブ、前進後退、そういうこととは、無関係だろうという気がする。そもそも、才能とはそういうものだろう? もっと言えば、人間の価値も同じだ。ふう、以上。


 最近、「負け方」について考えることがあったので、引きずってしまいましたね。ところで、蛇足ですが、彼のバンド「100s」は、「ひゃくしき」と発音します。もちろん、元ネタはZガンダム。金色の機体の肩口に漢字で「百」の、あのモビルスーツです。かっこいいのか悪いのか微妙ですよね...。なんか、シャアよりも天童よしみが似合いそうな。

 で、「Zガンダム」、映画化だそうですね。富野監督が「ラストを変える」と言ってるのを読んで、ちょっと心配です。あのラストが良いんじゃないすか。いつだったか、時間があったので、レンタルでアニメを何本か見たことがあって、「カウボーイビバップ」面白かったです。なんていうか、昔「ガンダムはSFじゃない。なぜなら巨大ロボットが出てくるから。以上!」っていうような論調があった時代に「ロボットじゃなくてさ、こいうのアニメにならないかねえ」って言ってたのそのまま、って感じですよね。フィーリングは古いんですが、アニメのマーケットってたぶん30代でしょうから、そこにはジャストミートしてるんだろうな。でもまあ、「クラッシャージョウ」ですよね、これ。

 その他には「WXIIIパトレイバームービー3」見ました。こちらは、渾身の怪獣映画ですね。怪獣映画は、悲しくあるべき、という哲学が一貫しています。

 それでは、ここらへんで失礼します。今年は暑い夏ですね。たこいさんも、本業の方も忙しいことと思います。どうかご自愛ください。

2004.8.16. MIKI


音楽関係エッセイ集に戻る。
「糸納豆EXPRESS・電脳版」に戻る。
「糸納豆ホームページ」に戻る。