The Counterattack of Alpha-Ralpha Express

Lesson #8 "Pop! Pop!!"

両谷承


 ポップ、って云う言葉には、少し不思議な響きがある。

 英語の語彙としては、おおむねふたつぐらいの意味に捉えられるんだと思う。でも、この言葉の持つ語感にはそんな意味を大きく超えたニュアンスがある。太陽は夜でも感じ取ることができる、と云ったふうな、あっけらかんとした勁さが。

 ぼくたちはいつも多かれ少なかれ、うなだれて歩いている(そんなことはない、俺はいつだって胸を張って歩いてる、って云う矜持とともに生きてるひともいるかも知れないけれど、寡聞にしてあんまり直接会ったことはない)。ひとによって勿論違うのだろうけれども、大抵はなにかしらうまく行かないことを抱えていて、それらと折り合いをつけながら暮らしていくことを強いられている。

 出口はない。


 カーペンターズはいつも優しく、切なく響く。カレンの声はいつだって豊かで、素敵な潤いを帯びて聞こえる。メロディは耳当たりがいいだけのものに留まらないで、聞いているものの気持ちにちょっとした爪痕を残してから消えていく。アレンジは分かりやすくて(アレンジャーが誰なのかは知らないけれど)、安っぽさとのボーダーラインをけして踏み越えない節度を保ったままバックアップの責務を果たす。なんのエキュスキューズも通用しない、仕事。

 語るべき思想は、表面的には存在しない(WASP的保守性について言及しても、この場では意味がない)。歌われる言葉はどれも確信犯的平凡さを持った、日常的な、だけれどもどこにも存在しないまでに蒸留されたお伽話。――そう、ぼくたちの日常には殆ど登場しないもの。

 じゃあ、なぜそこに懐かしさに似た感情と心地よさを感じ取ることができるのか。


 ポップ、と感じさせるものたちは、すべて暴力的にぼくたちの身体の何処か核心に近いところにまで押し入ってくる。

 それがなにか目的意識に基づいたものなら、ぼくたちはいつだって排除することが出来る。世間にいくらでもいる耳の機能しない連中が、「聴く」ことを要求してくる種類の音楽を全く理解できなくてもまるっきり平気なのと同じことだ。彼らにとって(ぼくたちにとって)、それらは「特殊な」「一部の人間たちのための」「マイナーな」「好みに合わない」ものに過ぎないから。

 「ポップ」は、そこをとび越えてくる。ぼくたちが他者であることを許さない。


 どこか性急な、それでもそのまま流れ去っていくことのない落ち着きとグリップを持ったリズム。明るい蛍光灯に照らされたアルルカンの人形のような、乾いた感傷を伴ったメロディ。

 春先のアスファルトの歩道の、暖かさと埃っぽさ。そこには何もないことを知っているつもりで、だからこそなにかを待ち望むような気分。絶望を前提に置いた希望。坂本龍一のつくる音楽は見事にポップだ。安っぽい善意の欠片もなく、それはアクリルの中に封じ込められた「ある感傷」を受け入れることをぼくたちに強いる。武器に使うのはメロディラインとリズム、音の肌触りだけ。「聴く」ことを受け入れた瞬間に、僕らは同時にそれを受け入れている。最初から(それが留保付きである場合も含め)ぼくたちはそれに抵抗しない。暴力に内側から掻き乱され、そうしてその中から快楽を得る。

 その昔彼が自ら語った未来派への共感と接近。明解に表明され、それゆえに対象化された「権力意思」。幾つもの方法論を辿って、それらは一瞬の支配をぼくたちに施す。


 すべてを奪い去るような、洪笑。

 どんな計算の中で産み出された冗談も、ひらめきの中で生じてくる言葉の一瞬の響き程の笑いをぼくたちにもたらさない。その響きを、どれほど多くの人々が探してきたのだろう。ダダイストやシュルレアリストの、自らを退行に向けて押し込む−−不毛とは云わないまでも少なくとも効率の悪い、それ故にまさに「芸術的」な−−営為を思い起こせば容易にイメージできる。彼らは少なくとも、同じ言葉を繰り返すだけで笑う事のできる幼児の領域に辿り着くためにどれだけの時間とイマジネーションを費やしてきた事か。

 いかなる不用意な論理も、口上も、笑いの純度を下げる。云うまでもなく、本当の意味で力を持つのはたわい無い程単純なもの。それこそがぼくらを笑いに否応無しに導く力を持つ。

 十字架にかかって、舌を出すジョン・ライドン。

 セックス・ピストルズは、ありきたりの滑稽さを破壊する。節操なく歪んだギターが、笑い袋のようなリズムを刻む。そこには苦笑を産み出すようなしゃら臭い知性なぞ存在しない。あるのは、すべてを打ち砕くようなおお笑い。

 みえみえのステロタイプをなぞるようなその佇まいと、軽薄な力に溢れたビート。どうやっても意味を取り違える事なんか不可能に思える恐ろしく表面的な言葉と、そしてなによりもすべてを笑い飛ばす事が可能なのではないかと思わせるような−−それだけのものを神様か何かから与えられたのではないかと思わせるような−−ジョニーの、誰にも決して似ていないヴォーカル。

 なにひとつ、余計なものはない。なにひとつ、ぼくらを思い悩ませるようなものはない。そこにあるものは純度の高い、云うならば凄まじくポップな音楽。

 迷いを介在させる生ぬるい余裕さえ削りおとして、ひたすらに純粋なものだけを現出させる。まつわるいろいろなエピソードも、強烈な影響力を持つファッションも、すべては従属するだけの力しか持たない(真似をするぼくたちにとってはまあ便利だった)ただのファクター。

 白々しいほどに明晰な、完全な意思のコントロール下に置かれたユーモア感覚と、その元で発揮される唯一無比の、音楽としての力。


 彼が誰なのか、ぼくたちはみんな知っているはず。きっと彼に秘密なんてない。何かしらの魔法はそこにあるのかも知れないけれど。

 忌野清志郎は、いつだって彼自身だ。大事な彼女を歌おうが、原子力発電所を歌おうが、死んだ友人を歌おうが、先日国歌と決まった歌を口にしようが、間違いなくそこにいるのはいつでもぼくらの知っているキヨシロー。それがアコースティック・ギターの鳴るフォーク・ソングでも、ロック・アンド・ロールでも、MGズを従えたリズム・アンド・ブルースでも、彼の声は変わらない。

 挑発的なアプローチを行うときも、日溜まりのような暖かさを示してくれるときも、彼はいつも同じだ。そこに矛盾や二面性などはない。そこには無類の(恐らくは強烈な自身に裏打ちされた)安定感がある。

 ぼくたちはいつも、よく知っているキヨシローに逢える。−−彼が本当はけして同じ場所に踏み止まっていない事にさえ、うっかりすると気付かない。いつものように馴染んだ声を聴く事が、それ自体彼に降り廻される事である、と云う事にさえ。そう云う彼に時代が近付いてきたり、何かを得て離れていったりする風景を、ぼくたちは何度も繰り返し見てきた。彼を見続けてさえいれば、その時代との距離感によって逆に時代を把握しつづける事ができるかも知れない、と云う気になるほどに。評価軸としては、まるでローリング・ストーンズを連想させるほどに強固だ。そうして彼は遥かに身近に、今もぼくたちに歌いかける。


 ハードロックは、高度に様式化され、洗練されたジャンルだ。冗談としては、もう使い古されて誰にも笑って貰えないくらいの。勿論伝統芸としての価値はあるし、名人もいるが、いずれにせよ一部の好事家のもの。少なくとも表現として命脈を保っていた時代はぼくにとっても追憶の彼方にある。

 そんな中で、ぼくらがぼくらの時代にひとつだけ、本物を手に入れてしまったのは、ひょっとすると不幸なできごとだったのかも知れない。かつてぼくらが感じたものすべてを与える力を持ち、しかもどこまでもそれ自身でしかないもの。ガンズ・アンド・ロージズ。

 アクセルの声。スラッシュとイズィのギター。かつて得たヴォキャブラリーのすべてを使い、それで表現を行おうとする絶望的な、破綻が目に見えるような闘い方。どの武器も目新しいところのない見慣れたものばかりだったから、その闘いは同世代のぼくたちとの共闘に写った。同時に、ぼくは自分たちの得てきたものをすべて消費し尽くされてしまうような、正体不明の焦燥に似たものを感じた。とりわけ彼らが、僕らの知らない層にまで力を及ぼしはじめた頃に。ボン・ジョヴィみたいなあからさまな偽物ロック歌謡ではないものが、ぼくらの周りに染み出し始めた(ポップになりはじめた)事が見えたから。

 アルバム二枚同時発売、と云う奇妙なスタイルの発端となった「ユーズ・ユア・イリュージョン」で、ぼくたちはかつてない種類の興奮に捉えられた。そこにあったのはすべてぼくたちの知っている方法で綴られた、それでも彼ら自身にしかなしえない表現だった。しかもそれは(ハードロック好きの好事家ではなく)より多くのひとたちに向けられていた。

 それは余りにもあからさまで巨大な欲望に支配されていて、少しの潔さも感じられなかったけれど、それでももう一歩高みに踏み出す事が彼らに出来たなら、ロック・アンド・ロールそのものが彼らのものになってしまっていただろう。そうなればもはや、後に続くすべてのものは彼らのエピゴーネンとなってしまう。

 もちろん、そんな事はなされなかった。ロック・アンド・ロールは、ふたたびぼくらの手許に帰ってきた。これが幸福な結末なのかどうかは、ぼくには分からない。


 ばらばらの題材で、敢えて整合性を意図しない書き方をしてみました。そうじゃないと、それぞれに失礼だと思ったもので。  それではまた。


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