The Counterattack of Alpha-Ralpha Express

Lesson #7 "I Slide"

両谷承


 “ヴードゥー・ラウンジ”ツアーの最終日に、東京ドームでローリング・ストーンズを見た。余ったチケットを人から廻してもらって行ってみたら最前列(ロニー側)だった、っていうファンに殺されそうな展開。じじいになったときにうるさく孫に自慢するねたが出来た、ってとこですね。踊るスペースはたっぷりあった。

 ロック・アンド・ロール・ショー。それが本当はどんな意味なのか、ひとつの回答を見たような気がする。4人の英国人はロック・アンド・ロール・アリストクラシイといった風情で演奏していたけれど、それは確かにぼくたちの知っているローリング・ストーンズ(どうでもいいけど猫も杓子もストーンズ、って略して呼ぶのはなんかおかしい)だった。実は一番驚くべきだったのはそのことだったかもしれない。

 まあ、でも今回はローリング・ストーンズに関する文章じゃない。今回書くのは、かつて福生のUZUで「リトル・ストーンズ」って呼ばれたバンドの事だ。


 ローリング・ストーンズは「アメリカの黒人音楽を演奏するイギリスの白人のバンド」だ。これは実は、重要なことだと思う。ロック・アンド・ロールを発明したのはチャック・ベリー。発明のもとになったのは、もちろんブルース。それらのヴォキャブラリーを使って独自の表現を行なったのがローリング・ストーンズって次第。このヴォキャブラリーって書き方は少し誤解を招きそうだけど。

 云いたいのは、何故ザ・ストリート・スライダーズがローリング・ストーンズ(そもそもこのバンド名もマディ・ウォータースの曲から貰ったものだ)のエピゴーネンではないのか、という事だ。大体、何処が似てる? ハリーが弾く五弦オープンDのテレキャスター?

 なんでこんな話から始めなきゃなんないかって云うと、スライダーズ(ってふうに略しても、許されるつもりはある)に関してその種の誤解をしていて聴かない友人がいるから。けして誤解してはいけないのは、ローリング・ストーンズに代表されるロックンロールのヴォキャブラリーはすでに強固に確立された、山川健一のおっさんの言葉を借りるなら「匿名性を獲得した」ものであるという事。表現されるものは、もちろん違う。

 こんな議論を聞いても、きっとハリーは静かに微笑むだけだろう。まあ機嫌が良ければ「どうだっていいことだよ」くらいは云ってくれるかもしれない。

「いつもとびきりロックンロール/おれたちゃそれだけ」(Easy Action/The Street Sliders)

 男の子がふたり。このシチュエイションはいろんな可能性をイメージさせてくれる。ここから始めてしまえばなんでもできる、そんな気がするような。

 ミックとキース。ジョンとポール。ピートとロジャー。スティーヴンとジョー。ジミーとパーシー。ドンとグレン。男の子たちはギターを持って唄い始める。

 ジョニィとシド。ジョーとミック。何かを、造り上げることが出来るかもしれない。

 清志郎とチャボ。小澤と小山田。ともかく、ひとつのユニットを形づくる。何かを、始めるための。

 そしてもちろん、ハリーと蘭丸だ。

 ギターを一本ずつ持たせてロックンロールをプレイさせれば、このふたり以上の取り合せなんていないかもしれない。天才キースと職人ロニーだって、スラッシュとイズィの(旧)ローゼズだって、かなわない。

 ハリー本人のキャラクターそのものにストイックに鳴り、無駄口を叩かないテレキャスターと、かつて「吉祥寺最高のブルーズ・ギタリスト」と呼ばれた蘭丸の、ベル・カントなギブソンSG。音色もフレーズも、まるっきり対照的だ。ふたつのリズムの間で、ビートが生まれる。スライダーズがスライダーズであるためには、何よりこの二本のギターが必要だ。

 もちろんジェームズのためを効かせたベースもズズの小気味いいドラムも、ロックンロールに欠かせないもの。だけど、二本のギターが無ければそこいらのロック・バンドとこれほど違ったものにはならない、と思う。


 ぼくは、西東京に住んでいる。

 個人的な話になるかもしれない。僕は二三区の西に住んでいる。環八の外側だ。吉祥寺が隣街だ。蘭丸ご用達の「はるばる屋」だってすぐそばにある。

 神戸、広島、そしてもちろん仙台。こういった地方都市で育ってきた人間にとって、この辺りはとても住みやすい。というか、例えば僕が仙台で暮らしていた頃と同じようなやり方を、東京のこの辺りは許容してくれる。例えば、仙台で云えばこんなふうな。

 まず、街に出る。僕が大学にいた頃は片平のキャンパスもまだ駐車場として使えたから、まずはその辺りが起点。そこから先はどんなものが欲しくたって、二本の脚が届く範囲で手に入れることが出来る。本が欲しければ駅の方に向かって歩いていけばいい。音楽が欲しければ広瀬通りを越える。腹が減ったら南町通りでパンでも買って、一番町のベンチで通り掛かる素敵な女の子を眺めながら齧れば済む。着るものが欲しかったり、この街が何処に向かって動いてるのか知りたかったりしたときは、その頃は東六番町に向かえば良かった。コーヒーが欲しいときは定禅寺通りか一番町の裏辺り。酒が呑みたくなれば三越の裏辺りでタトゥーのにいちゃんにバーボンでも出してもらうか、ちょっと気取ったときは大町に向かう。

 ――とまあ、こんな調子。僕は平気で街のの中をひとりで何時間も歩いてしまうから、何日かあればその街がどう云ったふうに出来ているのか把握する自信がある。何年も住めば、その街の背骨や肋骨が何処を通っているのか、どんなふうに動いているのかが見えてくる(もちろんその街が固有の色やムーヴメントを持っているほど、こうした行動は面白い。そういった意味では、知ってる限り仙台と博多が面白かった。川崎みたいに好きになれない街もあるけど)。こういうふうに街の中をうろついていると、レトリックでなくアスファルトやコンクリートと会話している気分になる。山や海に妖精がいるんだったら、街の中にはもっとたくさん居てもいい筈だって、思う。

 もちろん街はその中の一部であるぼくなんかに比べればはるかに巨大なシステムの集積だ。けれども自分自身をその街のなかの変数のひとつとして考えることが出来れば、それはそう悪いことではない。救いのない孤独感と仲良くなる必要はあるけれども。

 こういった暮らし方を、僕の住んでいる辺りは許容してくれる。動きのない、腐ったみみっちい文化の巣食ってる山手線の内側なんかよりはずっと(爛熟? 爛熟するのは貴族文化と大衆文化だけで、中流文化は腐るだけさ)、僕をわくわくさせてくれる。

 街を歩いていると、いろんな音楽が聞こえてくる(流れてくる、じゃなく)。それはセロニアス・モンクだったり、マウリッツィオ・ポリーニだったり、それこそガンズ・アンド・ローゼズだったり、ブランキー・ジェット・シティのこともある。

 でも、東京のこの辺りのアスファルトやコンクリートが一番愛してるのは、間違いなくストリート・スライダーズだ。

「風の街に生まれ 雨の夜を過ごし/今夜もまた奇跡待つだけ」(風の街に生まれ/The Street Sliders)

 その名前の中に《Street》を持つバンド。街の中で、そこにしかない希望や絶望と一緒にいるバンドだ。

 欲しくもない情報や聴きたくもない音楽、見たくもない風景や口も利きたくない人々。街のなかはそんなものがうじゃうじゃ転がっていて、ぼくたちはいつもうんざりさせられている。口当たりがよくて毒気のない刺激なんて、結局は退屈なだけだ。もちろん、そんなことに気付かない奴ら――本当に退屈な奴らも街には溢れてる。

「やってられないぜ もっとよわせてくれ/こんなことばかりじゃ いつかオシャカさ」(いいことないかな/The Street Sliders)

 そこにいるだけじゃ、そのうちに風化してしまう。いつだって人間は腐ってしまうことが出来るし、慣れてしまえば退屈なんていつでも忘れてしまえる。スリルにはコストが掛かるし、そんなものがなくたって生きていく事は出来る。ロックンロールだって、もちろん必要ない。麻薬みたいに、日常はぼくたちを麻痺させる。

 それでも、意識のどこかはまだ醒めている。自分がどこにいるのかを、捉えようともがいている。

「時はいつだって――Ah,wait for no one/ヒザを抱えた天使/いつのまにか老いぼれてくのさ/Angel Duster/おまえだけを連れて逃げたいぜ/Angel Duster/この街の風は乾いてる」(Angel Duster/The Street Sliders)

 街は、いつだって動いている。意識していなければ動いていること自体を忘れてしまいそうになるくらい、それが日常の姿だ。街がどちらに動いているのか見ようとしていなければ、いつだってぼくたちの足下は掬われて流され始めてしまう。

 そこにいるものに、街は決して優しくない。自分がどこに立っているのかを忘れてしまえば、いつでも街は巨大な力でぼくたちをあまやかに押し流してしまう。そう、街のなかに集積されている重なりあったいくつものシステムは、いつだってぼくたちをその繭のなかにくるみこんでしまおうと待ち受けている。

「バカバカしいほどさわがしい街じゃ/天使の唄なんて聞こえちゃこないよ/Oh! 神様 この街角で微笑んでくれ/Oh! 神様 どうせならもっといい夢見せてくれ」(Oh! 神様/The Street Sliders)

 もちろん、そんなことは耐えられない。誰だって自分自身でありたいと思ってる(自分自身がいったい誰なのかを覚えているかぎりは)。でも、そんなことを考えてしまった瞬間に、はじめて自分が八方塞がりのなかにいるのに気付く。いつもは忘れてしまっている(鈴木いづみ云うところの)「あかるい絶望」。

 それは、頭から離れなくなる。

 街のなかにいるのは、実は危険な事。人を呑み込む山や海とおんなじくらいには。

「このままじゃ オレたち ただの行きづまり/ガラクタばかりがあふれてる/街に埋もれそう」(ダイヤモンドをおくれよ/The Street Sliders)

 諦めてしまうか、わずかな間でも忘れさせてくれるなにかを探すか、それともいっそ街から逃げ出してしまうか。酒、女、ダンス。スライダーズには、クレイジーにはしゃぎ回る一夜を歌った曲が幾つもある。街からおさらばしてしまう唄も。

 ダンスに明け暮れて女たちに色目を使う夜は煌めいて見えるし、いつもの街から出てしまえばすべての問題は解決するようにも思える。けれどパーティーの朝は虚しさを残すだけだし、結局街から離れることは出来ない。そうして、日々は続く。

「最後のダンスは 誰と踊ろうか/最後のダンスは 誰を誘おうか/浮かれすぎた夜はいつも 背中にのしかかる/Baby,のら犬にさえなれないぜ」(のら犬にさえなれない/The Street Sliders)

 退屈な日常を、頭を低くしてやり過ごす。狂騒的な夜を過ごすことで、その瞬間だけでも退屈から逃げ出そうとする。この場所からおさらばして、どこかに他の日常を探そうとする。――そんなことの虚しさは、もちろん最初から承知している。もし、そこから救い出してくれるものがあるとすれば――それは、きっと同じように退屈して、疲れ切ってしまっているのかもしれないけれど、それでも誰とも替わりのきかないただひとりの「あんた」であり「おまえ」なのかもしれない。

「賭け事なら 夢中になれる/安酒場で いつでも酔える/形だけのLonely Play/ひとり芝居Lonely Days/Baby No! あんたがいないよる」(あんたがいないよる/The Street Sliders)

 スライダーズの新しいアルバムが出たのは、今年のこと。なんと5年ぶりになる。でもその長い長い沈黙の間、ファンは彼らのことを忘れたりはしなかった。メンバーたちはそれぞれがいろんなところに顔を出していたけれど(その中でもやっぱり一番よかったのは、蘭丸とチャボの麗蘭だろうな)、ハリーだけはほとんど完全に沈黙を守っていた。それでもファンたちは(そしてたぶんメンバーたちも)、ハリーの新しい言葉とメロディーを待っていた。

 ピンク・フロイドじゃないんだし、こんなことはこの移り気な国じゃそうそう起こらない。あなたの知っているトップ10ミュージシャンの中で、5年間の沈黙がリタイアをイメージさせないものがどれだけいるだろうか。

 沈黙の直前に出されたアルバムはどこか軽い、饒舌さだけが目立つようなものだった。誰もが、こんなことでスライダーズがフェイド・アウトしてしまうはずがないことを確信していた、筈。

 そのアルバム、「Wreckage」。ズズのタイトなドラムを追いかける蘭丸のいかすギターで幕を開けるこのアルバムに落胆した奴なんて、きっといない。

 孤独、絶望。何年過ぎようと、街は何も変わっちゃいない。でも、ポジティヴな意志は失われてはいない。その、力強さ。

「なにか始めよう 新しいこと/おまえが来なければ 余りにさみしすぎる/おまえが来なければ 全ては消えてしまう/一緒にやろうぜ Yeah/腰をあげろよ Yeah」(Wave'95/The Street Sliders)

 ロック・アンド・ロールのダイナミズム。いくつもの矛盾にあからさまに係わりあいながら、それでも失われない表現への意志。――そんな小難しげなことを云っても始まらない。

 地に足を着けて、自分の回りを見回して、見えてくるもの。そのことに、飽くまでも忠実であること。おのずと、方向なら見えて来る。

「あれこれ迷って 落ちて行きそうな夜/いかしたGunさばきで 何とかくぐり抜けろ/D.D.DANCEで明かそう おまえとShakin'/待ってたところさ おまえとWalkin'」(D.D.DANCE/The Street Sliders)

 なんだか今回はハリーにばかり喋らせて、自分の言葉はあんまりなかったかも。でも、(たとえばベンジーみたいに)あんまり素敵な言葉は話してくれないけど、ぼくにとってスライダースはこんなふうにリアルです。

 それでは。


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