The Counterattack of Alpha-Ralpha Express

Lesson #4 "How can survive?"

両谷承


 1月の17日に、渋谷でブランキー・ジェット・シティのライヴを見た。

 ブランキー・ジェット・シティ(以下BJC)を生で見たのはこれで2回目。前に見たのは8月に、富士急ハイランドのイヴェントだったんだけど(ちなみにBJCはこの日出た4つのバンドのとっぱなで、トリはブルー・ハーツだった。一番かっこよかったのは麗蘭)。まあこいつらはライヴ・アルバムも出してて、そいつも聞いた事はある。

 不思議なライヴだったんだ、これが。

 1時間半ほどの演奏時間の中でMCはたったひとこと。ベンジーの「アンコールありがとう」だけ。ぼくらの前で踊り狂ってた長髪ボーヤ3人とおっぱいの大きなおねえちゃんの4人組は途中で「MCやってくれえぇ」なんていう訳の分からない絶叫を上げてた。

 3人バンドだからプレイはタイトだったし、いろんな曲をやってくれたし(アンコールの2回めはなんと生のストリングス・オーケストラ入りの「悪いひとたち」!)、僕としては文句なしだったんだけど、印象的だったのは会場にただよっていた一体感のなさ。

 ステージの上のBJCと観客たち、そして観客同士にも、一体となって盛り上がる、なんてムードはまるでなかった。半分近くがバイカー連中だった観客たちはみんな夢中になってるし、ステージの上の3人だってハイ・テンションな音を吐き出してる。なのに、みんないっしょに関係の空気は生まれない。

 3階席のまん中辺りにいたぼくの感覚としては、こういった感じ。ベンジーの声、照ちゃんの熱意、達也の力強さがステージ中にさらされてる。それを見ているのはぼく。ひょっとしたら辺りで吼えてる奴らにも見えてるのかもしれないけど、そんな事関係ない。

 「 Soon Crazy 」、「ディズニーランドへ」、とてもクールに聴いていられないような痛い曲がプレイされる。「 Bang ! 」、「 Punky Bad Hip 」、切ないくらいに素敵なイマジネイションへつながる曲がプレイされる。ぼくは目が離せない。

 ぼくはBJCを見ている/BJCはぼくに見られている。ぼくとBJCは決して一体じゃないし、そんな事はぼくもBJCも拒んでいる。単車でつるんで走るみたいなもんだ。例えばぼくがうちのMCのメンバーと走る。ぼくらは同じ看板を背負っているけれど、道の上では絶対的に孤独だ。ぼくは自分の単車を走らせ、そうして他のメンバーが走ってゆくのを見ている。ぼくの Steed は他の奴らのFZR1000エリミネーターにはまるで敵わないけれど、誰もぼくに手を貸しちゃくれない(だいいち、そんな事は不可能だもの)。

 同行した女の子はそんな雰囲気がえらく不満だったみたいで、帰り道は文句たらたらだった。ぼくはと云えば充分に満足して、井ノ頭線に乗ったのだけど。

「街外れのビルの屋上からオレンヂジュースに透かして景色を見る 見渡せば/ガソリンスタンドのネオンがいつもよりずっと悲しく見えるのはどうしてなんだろう/赤い旅行かばんを おんぼろの車を手に入れて 手に入れて/行く先知れずのチューインガムを噛んで そよ風に誘われて」(僕の心を取り戻すために/BJC)

 ほこりっぽいアスファルト。湿気で汚れたコンクリートの壁。がさがさに乾いて排気ガスの臭いのする、昔の仙台みたいな空気。

「朝が来たら パンをかじり 黒いブーツで 灰色の 空の下へ 旅立つのさ 僕の心を取り戻すために」(同上)

 そんな空気の中で、タフに生きのびようとするイノセンス。

 照ちゃんのソリッドなベースに依りかかりながら、達也の性急なドラムに追いたてられるようにして、これだけの言葉がベンジーのナイーヴと云ってもいいような線の細いヴォーカルとギターに乗って吐き出される。

 傷つきやすくて、柔らかくて、どうって事ない筈なのに、どうしても守りたいもの。たいした意味もないのに、大事に思えて仕方のないもの。

 −−そういったものを、自分の中に抱え込む。純粋な、致命的な「弱さ」。分かっているからこそ、どんな暴力的な手段を使っても、守ろうとする。

「お前の心臓が破れるくらい スピードを上げて走る事が/心から好きなんだ 心から たぶんそれだけの事さ(中略)もうだめだと思うから 手伝ってくれるかい/お前の好きな12月が終わる前に」(十二月/BJC)

 単純なものは、かっこいい。ロックンロールの原則のひとつ。

 しかしこれを例証すんのは難しいな。ヴェンチャーズ辺りが一番ぴったり来るサンプルかも知れない。「パイプライン」なんかはハノイ・ロックスがライヴのオープニングでやってたな。チャーのBAHOもライヴでやってたような記憶がある。

 なんだか当たり前すぎてつまんないんだけど、単純な表現の方が伝わりやすいってのはやっぱり真実だと思う。かっこいいロックンロールが呼び起こす感動ってのはいつも単純なものなんじゃないかな(それがどれほどややこしいバックグラウンドから生じていて、どんなに注意深く積み上げられた複雑なアプローチで作られていたとしても。この辺のサンプルとしては「ホテル・カリフォルニア」や「レイラ」でも連想して下さい)。

 例えばベンジーの弾くギターは、そういった意味で本当に凄いと思う。照れながらも自分の内側を全部さらしてしまうみたいな。こっけいと紙一重の、ユーモアを備えた真剣さが、その力強い純粋さでもってすべてのけれん味を突き抜け、シニシズムを破壊してしまうみたいな。ベンジーのグレッチが吐き出すフレーズには、そんなかっこよさがあふれてる。

 今回のキー・ワードは、実は「イノセンス」。この辺りが、つながって来るんだけど。

「太陽とか 冒険とか クリスマスとか 黒いブーツが/子供の頃から ただ単純に ただ単純に好きなだけさ 好きなだけさ」(クリスマスと黒いブーツ/BJC)

 ところで「かっこよさ」ってのは、ロックンロールの美意識のひとつの(唯一の、かもしれない)基準だよね。だけど、こいつも難しい。

 50を過ぎてステージで観客を挑発するミック・ジャガーはかっこいいか? もう15年もおんなじ事をやっているラモーンズはかっこいいか? いい年こいたおっさんどもが雁首揃えて再結成バンドをやるのはかっこいいか?

 暴力的な表現衝動とショウビズのはざまで肥大化してゆくガンズ・アンド・ローゼズはかっこいいか? 過去の遺産を消化してそこからダンディズムを引っ張り出してみせるレニィ・クラヴィッツやブラック・クロウズは?

 メジャー・セヴンスやディミニッシュのコードに自己嫌悪ぎりぎりのプライドを押し込めるフリッパーズ・ギターは? かぎかっこ付きの「ポップなメロディライン」や「小粋な引用」でアイロニイを包み込むピチカート・ファイヴはかっこいいか?

 「かっこいいがかっこ悪い、そんな時代はきらいだ」。某大手バイクパーツメーカーの、ちょっと前の宣伝コピーなんだけど。

 照れてみせたり、開き直ったり、屈折したり。でもロック・ミュージックのひとつの要素は、「かっこよくいきたい」っていう単純な意志と、「かっこよくいくために何ができるか、そもそも、どんなことがかっこいいのか」って問いかけのような気がする。

 だから、ロック・ミュージシャンにまず第一に要求されるのはユーモアのセンス(=客観的視点からの批評能力)だと思う。そもそもポップ・ミュージックってのはロックに限らずおおむねユーモラスなものじゃないかな。それがどれほどシリアスな内容のものだったとしてもね(ちなみにここで嘉門達夫なんて連想されちゃ困るんだな。彼の作品は音楽的にはちっともユーモラスじゃない)。

 ともかくまず、何かを表現しようと思う。その際に、音楽、っていうある意味で一番ダイレクトで、論理性を欠いた手段を選んでしまう。これってけっこうひりひりした選択だと思うな。


 さあ、暴走するぞ。BGMはBJCの「 Punky Bad Hip 」だいっ。

 なんでぼくが見苦しさを百も承知でいろんな連中の悪口をこのコラムに書きつづけてるかと云うと、ミュージシャンとビジネスマンの区別が自分でついてない奴らや、その商品を購入して悦に入ってる奴らってのが気色悪いから。

 音楽なんて、そもそもこっけいで大笑いなもんなんだよ。ちょっと考えればわかるはず。そういうことを自覚できない連中のことをうちの国の言葉では「田舎者」って呼ぶんじゃなかったっけ。

 何年か前に流行った大事マンとかKANとか、凄みがあったよね。道徳の先生も云ってたし、判断停止しちゃおう、みたいな感じでみんな聴いてたのかな。ギャグにする余地さえなくて、血の気が引いちゃうよね。

 例えば、松任谷由実。「真夏の夜の夢」だっけか、あの無内容の極地みたいな曲。こういったもんに触れる時には、何年か前に自殺した某女性SF作家がグループ・サウンズを愛好してた、みたいな視点を要求されんだろうけど。あれって一種の変態性欲だと思うから、常識レヴェルで求められても困るんだな。

 そういや長淵剛の下手くそな演歌を好んで聞いてる人もいっぱいいるんだよね。どういった心理なのかな。あんな代物で人生考えたりしてんだったら、こいつぁ社会現象としての集団マゾヒズムってやつかな。

 織田哲郎と小室哲也がビーイングってレーベルから国辱的な名前のロックバンドもどきをいっぱいヒットさせてるけど(ざあどだのわんずだの、訳わかんないのは多いけど、一番楽しかったのはT=BORAN。だってさ、仮に台湾でキヨシロー・サクセションとか慶一ライダーズとかいったバンドがデヴューしてビッグ・セールスかましてごらんよ。腹抱えて笑っちまうと思いません?)あの辺になって来るともはや日本の誇る優秀な工業製品だよね。YMOの頃はまだ、アイロニイとして成立してたのにな。

 まあでも、こういったもんを聞いてるひとたちってのはきっとすぐれた生活人で、会社では良き部下で、家に帰りゃテレビかなんか見てんだろうな。こんな人たちがいっぱいいてくれないと、日本の経済的世界征服はおぼつかないかも知れない。

 はっはっはっ。


 かっこよさ、ってのは、本来は普遍のはず。でも、90年代にもなっちまうと人間の感覚より世界の方が迅いから、ややこしい事になってくる。つまるところ、かっこよかったはずのものには流行に追いたてられた中流乞食どもがすぐに群がって来て、あっという間に「流行遅れ」ってもんにされてしまう(という話をうちのMCのカタナ乗りにしたら、とってもクールな口調で「いいじゃん。追わせてやろうぜ」って云われちゃったけど。ぼくはそんなに枯れてない)。

 冗談じゃない。かっこいいものはかっこいい、はずなんだ。−−これって決して、ぼくひとりだけの個人的な美意識じゃない、と思うんだけど。

 だってみんな、何を信じて生きてるの?

「腐った奴を正しい奴が 引き裂いてやるのはいい事なんだろう/神様だってそうするはずさ」(★★★★★★★/BJC)

 誰だって抱いたことのある感情。もちろんとっても危険な感情だし、世界はこんなに反純なもんじゃないのは誰でも知ってる。だからって「仕方がないさ」の台詞を免罪符にして自分の中のこういったやっかいさとの闘いを放棄してしまう連中の事をぼくは「汚いおとな」と呼ぶ。

「『今度の火曜日がきたら 指先がなくなる/それまでは何度でも このピアノを弾く事ができる』/ヴァニラ oh ヴァニラ ピアノなんて何処にもありはしないよ」(ヴァニラ/BJC)

 みんな、追い詰められている。逃げ道なんてない。クレイジィな世界となれ合って愛想笑いで生きてくなんて嫌だ。じゃあ、どうする。−−その場で戦うか、それとも車やバイクを手に入れて走りつづけるか。古典的で、だからこそ普遍的なロックンロールのモティーフ。

「フライパン片手に未来を語りあう/味気ないスープ 果てしない大地/味気ない道路 限りない旅」(Punky Bad Hip/BJC)

 そうでもしなくちゃ、気が狂ってしまう。人死にを出すようなマネー・ゲーム、どこかで誰かが大もうけをしている情報化社会。ドラッグ、マリファナ。下着を売る女子高生とそれを買うサイレントマジョリティとしての変態性欲者たち。すべて、ただの現実。みんな特殊な一例じゃなくて、今のぼくたちの世界に根を降ろしたエレメントだ。

「君はもう知ってるかい? この宇宙はもうYesって/言うのをやめるらしいんだ 君はもう知ってるかい?」(Soon Crazy/BJC)

 だけど、絶対忘れちゃいけないと思う。そんな世界の中にも、素敵な事はきっと見つかるはず。自分にとってどんな事が大事なのか、どんな事が本当に素敵だって思えるのかを忘れちゃったら、生きてく意味なんてそんなにない。

 何がかっこよくて、何が素敵か。それが自分のコアとどんな関係にあるのか。

「見渡す限り小麦色の斜面の途中に止まってる トラックの荷台にわらを敷きつめて/その上に寝転んで息を吸うのさ 寒くもなく暑くもない秋の夕暮れ(中略)俺は 今 新宿で立ち止まってる/想像力のカプセルを一つ飲み込んで」(小麦色の斜面/BJC)

 なんだかいつもの如く逆上してしまった。今回は引用が多くて楽だったな。でもこれらの言葉がどんなふうに歌われてるかを聴いてもらえれば、どんなにこれが切迫した事なのかが分かってもらえるはず。

 いつも思うけど、ぼくの文章に嫌悪感をもつひとたち、ごめんなさいね。今回はこのへんで。


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