細田守のこと
たこいきおし


 唐突ではあるが(笑)、久しく紙のファンジン用の文章を書いていなかったので(笑)、ちょっと文章の書き方を忘れつつあるかもしれない(笑)。そんな訳で、今回はちょっとリハビリ的に、ちゃんとテーマを決めた文章を最後まで書ききることを目標としてみたい(笑)。

 ということで、自分に課してみた今回のお題は「細田守」。もともとは、『時をかける少女』を観てすぐに草案を練り始めたものなんだけど、劇場公開もDVD発売もひととおり終わって一息ついた今くらいの方が、タイミングとしてはちょうどよかったかもしれない。

 前置きはこのくらいにして、ともあれ、まずは細田守版『時をかける少女』の感想から……


 観ている間はいうまでもなく、観終わった後に、じわじわと目頭が熱くなってくる映画ではあった。

 この映画に関するしごくまっとうな、正当な批評はネットにいくらでもあがっていると思うので、感想としては、ごく個人的なことだけを書いてみる。

 一度だけタイムリープできる機会が与えられたら、自分はなにをするか?

 当然ながら、その機会が人生のいつのタイミングで与えられるかで、回答は変わってくると思う。

 43歳の今の自分は、ここまでにいろいろ紆余曲折して今の形に出来上がった自分というものが、それなりに気に入っいてるし、ここまでの人生は、よかったことも悪かったことも含めて今の自分の一部になっている(と、思っている)。

 なので、その自分というものが全く別のものになってしまうような歴史改変には正直興味はない。

 それに、この映画のヒロインもそうだったが、過去の何かを自分に一時的に良い方向に向けたとしても、大勢には影響がないか、かえって悪い方向に向かうか、なんにしてもろくなことにはなりそうにない(笑)。

 大体、自分の人生のネガティブな側面というものは、振り返ってみても何かひとつの選択肢をひっくり返すことで、ゲームのようにフラグ(笑)を立て直して流れを変えられるような単純なものだとも思ってはいない。

 といって、自分以外の人の人生の一大事にかかわるようなことも、自分の人生についてすら何をしていいかわからない人間の手にはあまる。

 それでは、と、いうことで、自分の今の人生に大きな影響は与えそうになく、なおかつ、今でも心残りに思っていることをひとつだけ思いついた。

 『カリオストロの城』を劇場公開でちゃんと観る。

 『カリオストロの城』の劇場公開当時、アニメージュその他の影響で宮崎駿に既に着目していた、早熟なアニメファンだった中学生が、バスで小一時間かかる仙台まで一人で映画を観にいくにはいささか行動力が足りず、一緒に行く約束をしていた友人の都合が悪くなって延期をしたところ、ほどなく上映期間が終わってしまって、結局観れずじまいに終わってしまった。

 その後、TVの短縮版を何度も観て、大学になって全長版のビデオも友人宅で何度も観て、今では自分の手元にLDソフトも持ってはいるが、リアルタイムで劇場で観る体験を逸したことだけは、いまだに痛恨事と思っていた。

 もし中学生に戻れるなら、一人でも『カリオストロの城』を観にいく。

 と、書いていて気がついたが、この動機って、今回の映画の未来人少年が「未来ではもうなくなってしまっている絵を観に来た」というのと、同質のものかも(笑)。  まあ、タイムリープなんていう能力は、そんなささやかなことにだけ、こっそり使うのが相応かもしれない(笑)。そういえば、カジシンの『クロノスジョウンター』シリーズにも、そういうエピソード(解体されてしまった建築物を一目見るために過去へ飛ぶ)があったっけ(笑)。

 因みに、宮崎駿に関しては、実は『となりのトトロ』もリアルタイムで劇場で観れてはいなかったりする(笑)。修士時代の研究室生活がハードだったのが直接の理由なのだが、とはいえ、こちらの場合は、公開から半年程度でソフト化されており、知人の好意(笑)でビデオを入手できたので、毎夜のように繰り返し観ることができたし、同じ年の暮れにはキネ旬の凱旋上映で劇場で観ることもできたので、そんなにトラウマになってはいない(笑)。

 ともあれ、今回は、この細田守版『時をかける少女』を劇場公開でリアルタイムに観ることができたので、自分の人生における心残りを増やさずにすんだのは幸いであった、と、映画を観た後しみじみと思った。


 ……と、ここまでは、新宿テアトルでリアルタイム観賞後にすぐに頭に浮かんだ感想だったりするんだけど、既にお気づきの方もいるかもしれないが(笑)、このたこいの願望は実はタイムリープ願望ではなくて、『リプレイ』願望ですね(笑)。43歳のたこいが『カリオストロの城』の公開当時にタイムリープして劇場に行ってもあまり意味はなくて(笑)、中学生のたこいが『カリオストロの城』を劇場に観に行かないと遺恨(笑)は解消されない訳で(笑)。

 それはわかっていて、実は確信犯的にここまでの文章を書いているんだけど、それはつまり、「事件性」という点で、細田守におけるこの『時をかける少女』と宮崎駿における『カリオストロの城』がアニメ作家としてのキャリアの上で近い位置づけにあるように感じられたから、なのではあるが……

 こう書いていてちょっと微妙かな、と思うのは、『ルパン3世』というシリーズの枠組み中で宮崎駿が個性を発揮した『カリオストロの城』に対して、細田版『時をかける少女』は、一連の『時かけ』映像化作品の流れに属するとはいえ、作品としての独立性が高いように思われる点。

 細田守の『時かけ』前の劇場作品には『ONE PIECEオマツリ男爵と秘密の島』があって、シリーズの枠組みを尊重しつつ自己主張をしたという点では、むしろ内容的にはこちらの方が『カリオストロの城』に対応している、といえなくもない。で、その後の事実上の出世作として『ナウシカ』と『時かけ』を対応させる、というアナロジーも十分に説得力はあるように思える。

 それでもなお、細田版『時かけ』と『カリオストロの城』を対応させたくなる理由としては、いずれもコアなアニメファンの間では作家的な評価が確立し、公開前からの期待度は高かったにもかかわらず、一般的な知名度の低さから、公開時点での注目度が低かった、という点にあるように思う。

 細田版『時かけ』が低予算のためフィルム本数、上映館数を確保できなかったのは有名な話で、ブロガーによるネット上での評価の盛り上がりがなければ、当初予定の数館でひっそりと上映を終え、その後、ソフト化やTV放映後にじわじわと評価をあげていく、というような歴史も、もしかしたらあり得たかもしれない(笑)。

 アルファブロガーといわれるオピニオンリーダーの言説は、一つ一つは昔でいえばファンジン、ファングループ活動とおおよそ同格のものだと思うのだが、ブログという媒体の即時性と読者数の相乗による圧倒的な伝播スピードが、かつては草の根のファン活動で数年かかっていたことを数日〜数週間単位で実現してしまったんではないか、と、そんな印象を受けている。

 そういうブログ時代のネット社会の特性を的確に把握した上で、広報戦略として有効に活用してみせた担当者の慧眼には、広報下手でいろいろと涙を飲んだ経験のある某業界4位ビールメーカーの元商品開発担当者としては羨望あるのみ、だったりして(笑)。

 閑話休題(笑)。

 細田守と宮崎駿をどうしても対応させたくなるのは、もちろん、かの有名な『ハウルの動く城』をめぐる因縁もあることはあるものの(つい先日、細田守の描いた『ハウル』絵コンテがネットオークションに出品されていて、ひとしきり話題になっていたけど……)、アニメーターから出発して演出、監督にまで到ったそのオールマイティなアニメ作家としてのキャリアの共通点が一番の要因であると思う。

 それと、自己満足的観点(笑)では、世評が確立する前から追いかけていた(と、いってもたこいの場合『デジモンアドベンチャー』あたりは後追いで、リアルタイムの追っかけは『おジャ魔女どれみ』「どれみと魔女をやめた魔女」以来なんだけど……)対象がブレイクする瞬間に立ち会う、という経験を久しぶりに味あわせてもらった、ということ、そして、そのファン経験としてのスケール感が宮崎駿の時と近いように思う次第。


 最後の最後にどうでもいい話を一席(笑)。

 みなさんは「急な坂道で自転車のブレーキワイヤーが切れる」という恐怖を味わったことはあるだろうか? たこいは中学生時代に2回くらいやったけど、いや、あれはすごい怖いですよ。今でも鮮明に覚えているんだけど、通学路の途中に階段があって、階段の脇の本来自転車をおして登り降りするためのレーンを、中学生がみんな自転車に乗ったまんますいすい降りていくんだけど、そこの中途でワイヤーが切れたときは、前をやはり自転車で走っていた友人一人巻き添えにして盛大にひっくり返ったもんでした。なので断言してもいいけど、映画の中の「あの坂」くらいの斜度でワイヤーが切れたら、自分の足とかでは絶対に止まれません。ああ怖い。

 ただ、前に乗っていたぼろぼろのママチャリなんか、チェーンが切れるまで10年くらい乗って、それでもブレーキワイヤーは一度も切れなかったなあ。ワイヤーの強度って、昔より上がっていたりするんだろうか? それとも、坂道が少ないから長持ちしただけか(笑)?


 ううむ(笑)。紙面が尽きたので今回はこのくらいで。紙面を文章で埋めていく感覚はちょっと思い出してきたように思うので、リハビリという意味では、こんなものか(笑)。それではまた(笑)。


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