【道成寺攷6】

【本論道成寺…説話考…】

【第一章 説話起源考】

道成寺説話の起源を考察するためには、過去の様々な論考について、
その論述者の観点による問題点の相違を整理選別し、
主題となる点に的をしぼらなければならないだろう。
この章における主幹は、道成寺説話のオリジンを求めると言うことであるが、
そのオリジンを、説話の話型の類似から探り出すことはせずに、
出来得る限りにおいて、その思想的な背景に基づいて求めて行きたい。

それには、序論における建立者によって、論考した道成寺の思想的な問題も、
当然関係してくる。
先ず、道成寺説話のオリジンを考察している先人の足跡として、
青江舜二郎の論考を上げ、それをこの章の第一段として、
論を展開して行くこととする。

青江舜二郎の道成寺説話に関する論考は、彼の著書「日本芸能の源流」の中で、
「道成寺と白蛇伝」と題して行なわれている。
これによれば、マニカンタ・プフーリタッタの二つのジャータカを頂点として、
阿難の女難にまつわる経典をへて、
中国の白蛇伝系の説話を生みだしながら、日本に伝播したものが
道成寺説話を形成したとしている。
しかし、この論考は道成寺説話の話型の類似からその典拠を求めている要素が濃く、
そのために、話の内容的意味合が通じない点を無視している点が見えている。
したがって、説話の思想的な背景を探り、その起源を求めることにはならないようである。

彼の考察によれば、次のごとく結論されている。
「道成寺説話は高野博士がいう、羅刹女系のものではない。
南方博士の阿那律説に対し私はむしろ『摩登女経』の阿難を原形と見る。
そのオリジンは前にあげた二つのジャータカとどこかでつながっているのではないか。
中国でこの説話が今日に残っている形に結晶したのは、もちろん仏教が渡来し、
民間にひろまってからのことである。
中国説話は、蛇が人間に化けたということを骨子としているので、不気味なにおいが強く、
日本の道成寺は、人間が執念によって蛇になるというので哀切の色が濃い。
なお、男が仏教経典と日本においては僧侶、ジャータカと中国では俗人であることも
さらによく吟味されなければなるまい。」
(前掲書、百七頁)。

ここにおいて疑問を生ずるのは、話型の類似は認められるにせよ、
中国の白蛇伝と日本の道成寺説話が、
同一母体によって生み出されたとする根拠が、いったいどこにあるのかという点である。
道成寺と白蛇伝の全く異なった趣きを理解しながらも、
まるで仏典などによって生み出された説話が、
世界を放浪して中国では白蛇伝となり、日本では道成寺となったごとくに
論述されている点について、
少なくとも論理の飛躍があることを指摘したい。

説話のオリジンは、その説話の広まっている地域に有る思想的背景に求められると考える。
或る地域と、それとは別な地域に広まった、
類似の話型でありながらも異なった内容を持つ説話が存在する理由として、
話型の基となる物語を共有しながらも、
それぞれの地域の思想的背景に育った物語と交わって、
全く内容の異なる説話を生むのだと考える。
道成寺という寺と、説話が結びついて、道成寺説話として登場したのは、
文字に残されている点では法華験記
(『大日本国法華経験記』)をはじめとするが、
『古事記』にも、その道成寺説話的な物語を見ることが出来る。

南方熊楠は、
「谷本博士は『古事記』に品地別命、肥長比売と婚し…中略……
とあるを、この話の遠祖と言われた。
…中略…この肥長比売は大物主神の子か孫で、この一件すなわち品地別命が彼の神の告げにより、
出雲にかの神を斎いだ宮へ詣でた時のことたり、この神の一族は蛇をトーテムとしたから、
この時も品地別命が肥長比売の肌に彫りつけた蛇のトーテムの標か何かを見つけて、
その部族を忌み逃げ出したことと思う。」
(南方熊楠著『十一二支考』「蛇に関する民俗と伝説」の内、〈十・蛇の変化〉所収)。
この異種である部族は、印度におけるドラヴィダ人のナーガ族のように賤民や不可触階層になったものとは、
全く違う存在であると考える。

この一文より推察されることは、『古事記』に仏典からの影響があったかどうかは別にしても、
日本に蛇をトーテムとした部族が存在し、その女との婚姻も行なわれることがあったということである。
従って、大和朝廷によって征服(融合?)された部族国家も、その自治権や信仰まではうばわれずに、
それぞれが独立して存在し、
大和朝廷は、それら部族国家群を、少しづつ思想的にも自治権においても、
侵して行ったということを考えることが出来る。

この話は、大和朝廷の一族に属する若者が、成人のための修行に出て、異部族の女と目交い、
その信仰を恐れて逃げ出した話ともとれよう。
『古事記』に載せられた話は、ホムチワケノ王の物語として、
「一皇子の奇蹟の回生譚という性格だけではなしに、神秘的な出生を持つ皇子の
変身と聖婚への過程が語られている。」と
記紀研究者の吉井巌は論じる(「天皇の系譜と神話 ニ」)。
更に吉井巌は、ホムチワケノ王とホムタワケノ王(応神)、ホムツワケノ王が同一で、
始祖伝説にちかいものと論述する(「天皇の系譜と神話 ニ」)。
そうであるならば、挿話としての『肥長比売譚 』も始祖伝説につながる、
すなわち大国主の国譲りに結びつく伝承とみなす事が出来ないだろうか。
品地別命ホムチワケノ王の奇蹟の回生譚には、『肥長比売譚 』が必要だとは思えない。
話のつながり方が唐突で、出雲が出てきたから、ココにでも入れておくかという感じで挿入されている。
そこでの展開は、ホムチワケノ王がヒナガ比売から逃げ出し、ヒナガ比売は悲しんで、
海上を光で照らしてホムチワケを追い掛ける。
ホムチワケノ王はヒナガ比売を恐れて、舟もろとも山越して大和へ逃げ帰った。
出雲からどうやって舟を引き上げて、大和へ帰れたのだろう。
それまでのホムチワケノ王の唖を直すために旅たった国巡りなど丁寧な記述から、ここでは全てが省かれている。

道成寺の建立譚にカミナガ比売が登場し、ホムチワケノ王の流離譚にヒナガ比売が登場する。
また、カミナガ比売の名は応神・仁徳の逸話に登場する。
ニニギノミコトに嫌われた醜女が、大山津見神の長女のイワナガ比売
此の相似形には、なにかつながりが深く考えられる。

また、『古事記』の大国主命の逸話に拠れば、出雲と紀伊は木と根に表わされるような
同盟国、同族国家であったと思われる。
そのために、出雲における品地別命の逸話が、紀伊にも同様な形で伝わっていることが推測出来る。
また、道成寺説話を分析した結果、この話の中心を蛇の物語であるとすることには、同意出来ない。
蛇の物語とすることは、道成寺説話の内容的な要旨からあまりにも離れて行くことと思われるのだ。
道成寺説話が蛇の話であるという偏見を取りのぞいて、道成寺説話を読む時、
青江舜二郎の云う阿難の女難にまつわる経典よりも、阿那律尊者の逸話の経典に
多くの類似があることに気が付くのである。

道成寺説話の中で、大蛇の現われてくる部分を見れば『法華験記』には次のごとくある。
「女聞比事打手大瞋還家人隔舎篭居無音即成五尋大毒蛇身追此僧行」女は家に帰って人から離れ、
舎にこもって音も無くたちまちに五尋の大毒蛇となって現われてくるのである。
青江舜二郎の論考している阿難の女難のごとく、はじめから蛇を象徴とする賤民や不可触階層であるのではなく、
明らかに、「手を打って大いに瞋り家に還って」その心情が、五尋の大毒蛇に変身するエネルギーとされるのである。
青江舜二郎の論考のごとく、道成寺説話のオリジンを印度にまで求めるには、あまりに根拠が薄弱だと言わざるを得ない。

もし、はじめから蛇を象徴とする賤民や不可触階層であるとするならば、
此の説話を伝承した人々が「五尋」(ごひろ)という長さの単位を使っている事に注目したい。
尋とは〔広の意〕、両手を左右に広げたときの、一方の指先から他方の指先までの距離とされ、
長さの単位として用い、縄・釣り糸・水深をはかるのに用いる。
江戸時代には一尋は五尺(約1.5メートル)または六尺(約1.8メートル)であった。
平家物語に出てくる船戦の御座船(唐船)も此の倍程度の大きさではなかったろうか?
五尋と言えば五間の長さ、当時の櫓櫂の戦船に相当する。
平家物語では、舟人を射ることが禁じ手で、それを破った義経が大勝した。
これは、水夫が特別な扱いを受けていたためだ。
海士族・海族・海賊として、海外貿易や水運交易の担い手であったためだろう。
海士族・海族・海賊が語り伝えたとするならば、「五尋」も即ち生活感溢れる長さだろう。
アマ族は、本来海女というごとく女系が強かったのではないか?
また、アマ族は黥身文面とし、入れ墨を全身に施す風俗ではなかった?

道成寺の本尊は、漁師が、海士が網ですくい上げた1寸8分の閻浮檀金の観音様ではなかったか?
道成寺説話の中心となる登場人物は、寡婦であり女であって、阿難や阿部律尊者や王子のようなすぐれた男子ではない。
むしろ登場する男は、戒律厳しい当時の僧でありながら、容姿は端正でも虚言の約をなして女を欺き、
その女に追いかけられるや否や道成寺に逃げこんで助けを求めるような軟弱な男である。

道成寺説話は、古代女性の「炎」に表わされるような愛情の表現が、その激しさゆえに女性に対する美の価値観の変化とともに、
恐怖の対象となり、仏典などの説話と結びついて成立したのではないかと考える。
序論における二つの仮説は、あくまでも仮説でしかないが、しかし、道成寺建立にまつわる謎は、
その仮説を設けることを許しているように思う。
大伴道足建立説も道照開基説も、いずれも平行線上にあるが、道成寺説話の成立する背景を考える時、
道照開基説によってある推論を組立てることが出来る。

道成寺が、仏教に帰依する以前に、道教的色合の濃い建物であったとする道照開基説には、
その地域に政治的な仏教と古い神道や道教等の宗教闘争を見ることが出来る。
道教的な色合の濃い日本古神道、あるいは日本山岳神道を信ずる一部族が、熊野地方、
特に牟婁郡と呼ばれる聖域に存在した事が考えられる。
そして、その部族と仏教を信ずることとなった大和朝廷の支配地域との融合と闘争の一現象として、
あるいはその裏面史として道成寺説話が誕生したと推測しうる。
またそれが支配者側によって伝承されるようになった時に『法華験記』や『今昔物語集』に見られるように、
仏教経典の話との結合を強いられて、今日見る形へと変化したのだと考えたい。
熊野地方に居住していた巫術・呪術を中心とする部族は、やはり女性中心の母系組織であったと考える事が出来るだろう。
一方、大和朝廷の一族は、遠祖母系でありながらも、当時はすでに男の王を持つようになっており、
その「女と男の争い」さえも、道成寺説話の中に反映しているのではなかろうか。
『今昔物語集』を読むと、若僧の軟弱さが目にあまるであろうしまた、女の怒りが、男の裏切りに根ざしている事も理解出来る。
特に、「竜頭を叩いた後、目より血の涙を流し首を挙げ、もときた方を指して走り去っていった」有様は、
読む人に、不気味さと伴にあわれさ、無常の寂しさを感じさせる。
それは、蛇を族神とした被征服民族の怒りであり怨念であり、寂しさでもあったと思う。
また、古代女性の持っていた「炎」に象徴される豊かな華やかなそして激しくもえあがる感性の、
文献に表わされる最后の抵抗のようにも感じられる。
万葉集より
        狭野弟上娘子
君が行く道の長路をくりたたね
      焼き亡ぼさむ天の火もがも

看板 [次へ]

【道成寺攷 参考資料一覧】

TOPへもどる
隠居部屋あれこれ
伝統芸能