【道成寺攷2】

【序論道成寺…地理的考察…】

【第一章 熊野考】

日本列島の南北へ伸び上った龍体の四肢の一つのように、しっかりと南へ張り出されているのが、『紀伊半島』である。

伊勢平野と大阪平野を「ヘタ」とすれば、まるで『熟し柿』のように広がった半島を、
和歌山・三重・奈良の三県が分割している。
紀伊半島唯一の鉄道『紀勢本線』は、もと熊野街道の大辺路を辿って、
紀伊半島の周辺部をぐるりとまとわりつくように走り、半島中心部への交通は、バス路線のみの現状である。
 その昔、和歌山線五条駅から紀伊半島中心部を直下南進して新宮に達する鉄道が企画されたと聞く。
がしかしそれは、現在予定線として猿谷あたりで止まっている。
そのため、日本全国網の目のように走っている鉄道は、紀伊半島の中心部のみ大きな白地として残していることになる。
また紀伊半島北緯34度線以南には、和歌山平野のような規模の大きい沖積層平野部がほとんど見られない。
河川の運ぶ土砂が堆積し形成されて行く沖積平野は、数多い河川にもかかわらず、紀伊山地の海にまで迫る山塊によって、
生成拡大をはばまれているのだ。
しかし、この北緯34度線以南には、これといって目立つ巨峰は存在しない。
ところが、1000メートル前後の山岳は30に近く、500メートル前後の山塊が海辺まで迫まっているのだ。
紀伊半島山岳部の中心となる紀伊山地は、果無山脈を東西の骨として、北に大峰山脈白馬山脈を伸ばし、
南に大塔山を中心として広がる大山塊を従えている。
このような広大な紀伊山地のために、大企業の進出も少なく、産業も発達していない。
田圃も、山際まで階段状に押しよせ、瀬戸内海に浮かぶ小島に見られるような段々畠に似て、
狭い平野部を最大限に活用している。

 ところで、大阪から半径40キロ以内には、京都・奈良・神戸など関西主要都市群全てが含まれている。
大阪から名古屋までの直線距離は、約130キロである。
鉄道距離に直しても、約186キロ程度にしかならない。
しかし、大阪から新宮までは、直線距離の約110キロに対し、鉄道距離約260キロという相対距離差が生じる。
直線距離において名古屋よりも格段に大阪に近い新宮は、実際には遥かに遠い田園都市であると云える。

大阪・京都・奈良・神戸などの関西都市群が形成する大文化圏の直下に有りながら、
紀伊半島北緯34度線以南は、瀬戸内海沿岸よりも、さらに文化的・経済的に立ち遅れる。
この現象は、今日に始まるわけではない。
古代、北九州を経て瀬戸内海沿岸を東進した農耕を伴う文化は、その稲作という特質によって、
移動性採集生活をしていたと思われる人々を定住農耕民に変身させ、
余剰生産物の蓄積から貧富の差を生み、より善い土地へ人々を集めることとなった。

紀伊半島
 結果的には、瀬戸内海の袋小路のような大阪平野に、巨大な勢力を持つ部族を誕生させることになった。
その文化と力は再び瀬戸内海沿岸へ逆流していったであろう。
しかし、大阪平野南部にそそり立つ和泉山脈(葛城山脈)・生駒山地・金剛山地は、その文化と力の南進を遅らせ、
何重にも連なる紀伊山地の山々がより南進を阻む事となる。
また、日本文化の東進発展は、近畿から山間の盆地をぬうようにして、琵琶湖をめぐって、濃尾平野へと到る。
ところが、紀伊半島北緯34度線以南には、全く別な異形の文化相を発展させて行ったような所が見られると言う。
紀伊半島の文化地域を黄泉の国であったと指摘し、「日南・南部」の地名は「忌部」から出たものではないか、から始まり、
『古事記』にある大国主神の国譲りにまつわる「僕は百足らず八十隈手(奥まったすみの所。物かげの暗い所。)に
隠りて侍ひなむ」の物語を中心として、
黄泉の国「出雲根のカタス国」と「木の国」の繋がり、
また黄泉の国の神「月読命」「イザナギ・イザナミ」などの木の国訪地のことなど種々の例証があげられている。
それらは、とり残された紀伊半島を、日本史の中で位置づけるための考証ではなかったろうかと思われる。
しかし、この紀伊半島が日本の歴史の中において果たして来た役割は、黄泉の国よりもっと深い意味を持っている。

神話時代における逸話によれば、天上を追われたスサノオノミコトが、出雲平定後、子イソタケルと伴にこの地を訪れて、
天上の木の種を植え、それよりこの地を「木の国」と呼ぶようになったと言う。
大国主命は、八十兄神達の迫害に耐えかねてこの木の国へ逃れて来た。
また、神武天皇の東征においては、神武天皇が熊野山中で道に迷った時、八咫烏(やたがらす)の助けを得て難を逃れたと言う。
歴史時代に入れば、近江廷への叛逆を企てた大海人皇子は、この紀伊の地へ三十数度も訪れて、ついにはこの地に兵を挙げたと云う。
熊野は、奈良時代において高野山よりも早く僧侶の修行場として発達し、熊野大峰信仰は密教と修験道によって次第に勢力を拡大し
朝廷との関係において、一種奇怪なかげの政治力を持ち出す。
後白河上皇、後鳥羽帝、後醍醐天皇など、平安から南北朝時代に至るまでの歴史の表裏において活躍した天皇達は、
何らかの形で熊野と結びついている。
熊野水軍もまた、瀬戸内海水軍など日本水軍の祖となり、熊野修験道は、遠く東北出羽・羽黒三山と連なって、
日本各地に熊野社なるものを残している。
熊野比丘尼は、恐山イタコ信仰にその面影を留めているという。
このような日本歴史勢力図の中で紀伊半島が果たしてきた役割はいったい何を根底の基盤として生まれて来たのだろうか。
取り残され続けて来た熊野は、支配者の稲作による定着性生活の強制に対して、それを受け入れるために必死の努力によって
海辺部のわずかばかりの土地を耕して来た。
しかし、そのことからさえもとり残された「海人・山人」達は、彼らの移動性生活を捨て得たのだろうか。
海人達の中でも、舟を捨て得なかった人々は熊野水軍という一大勢力を築いて行く。
山人達は、いったいどうしたのだろうか。
一説には、山人も海人も同じ海人族出身といわれているのだが……。
定住農耕生活者にとって、漂泊の山人達は神出鬼没の山神の化身のごとく写ったのではなかろうか。
それは、定住に同化して行った山神、水分神やおとずれの田神として変身した山神よりも、
荒々しく山野を暴れまわると思われていたであろう。
山人達は、その厳しい漂泊の間に宗教的性格を帯び、また独自の技術を修得するに至ったのではなかろうか。
修験山伏・山窩・木地師・タタラ師など、これらが彼らに被せられた名ではなかったろうか。
そして、それらは重なりあい秘そかな力、大きな組織となっていったのではないかと思う。
彼らを育てた、その紀伊半島北緯34度線以南の地の、最北西「乾」の方角にあたるのが、「道成寺」である。
正式には、「天音山千手院道成寺」と云う。



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