【道成寺攷12】

【結論】

【道成寺説話と道成寺芸能の伝承に見る、日本芸能の精神史的一面】

「道成寺もの」と言われる演目の系譜は、現代の日本伝統芸能の世界においても代表的な演目の一つである。
「道成寺もの」と言われる演目の出自とその系譜を明らかにし、その起源から今日に至る伝承を辿って、
一つの日本芸能の精神史的一面を探り出すことが、この論考の要旨である。
序論・本論によって、一つの怪異な物語である道成寺説話の出自と、さまざまな伝承者の手を経て日本各地を放浪する内に
歴史時間を越えて「道成寺芸能」と昇華することを論じてきた。
折口信夫の論考によって、再び概略的に伝承者の変遷を明らかにしてみたい。
「所属する主家のない流民は、皆、社寺の奴隷に数へられた。
此徒には、海の神人の後なるくぐつと、山人の流派から出たほかひびととが混り合うていた。
それが海人がほかひびとになり、山人がくぐつになりして、互に相交って了うた。
此等が唱門師の中心であった。
舞の本流は、此仲間に伝へられたのである。
……中略……、其等の仲間には、常に多くの亡命良民と若干の貴種の人々とを交へて居たのは事実である。
此等の団体を基礎として、徒党を組んだ流民が、王朝末、武家の初めから、戦国の末に到るまで、諸国を窺ひ歩いた。
さうして、土地或は勤王の主を得て、大名・小名或は家人などの郷士としておちついた。
其位置を得なかった者や戦国に職を失うた者は、或は町住して部下を家々に住み込ませる人入れ稼業となり、
或はかぶき者として、自由を誇示して廻った。併し、いづれも、呪力或は芸道を一方に持っていた。
……中略……、殊に、著しく漸層的に深まって行ったのは、歌舞伎芝居に於けるかぶき味であった。
時代を経て生活は変っても、淫靡残虐は、実生活以上に誇張せられて行った。
……中略……、又、都会に出なかった者は、呪を利用して博徒となり、或は芸人として門芸を演じる様になった。
更に若干の仲間を持った者になると、山伏しとして、山深い空閑を求めて、村を構へ、
修験法印或は陰陽師・神人として、免許を受けて、社寺を基とした村の本家となった。
或は、山人古来行うている方法に習うて、里の季節々々の神事・仏会に、 遥かな山路を下って、祝言・舞踊などを演じに出る芸人村となった。
我国の声楽・舞踊・演劇の為の文学は、皆かうした唱導の徒の間から生れた。
自ら生み出したものも、別の階級の作物を借りた者もあるが、広義の唱導の方便を出ないもの、
育てられない者は数へる程しかないのである。」
(『折口信夫全集』巻一、古代研究国文学篇、国文学の発生第四編、213頁より215頁まで)。
と論じられているさまざまな芸能の伝承者を「遊行者」と総称する。
この「遊行者」という言葉を、ここでは非定住の「浮浪人」と同義的言葉として用いる。
道成寺説話の伝承を担った者達は、折口信夫の論じているごとく時代により土地によりさまざまであったろうが、
担った者達に共通する点は、彼らが定住者ではなく非定住の「遊行者」であったということだ。
能や歌舞伎は、都市に寄りそうことで発展し得たとしても、結局は「遊行者」の末裔であると言えよう。
また「遊行者」こそ、定住農耕文化から切り離された移動技術者文化の担い手であり、
彼らこそ、『古事記』の「国譲り」の逸話に見られる所の「八十隈手に隠れ」住まわされた「日本のもう一つの民」の末裔なのである。
確かに定住稲作文化から脱落して来た人々が、遊行者となることも多かったであろう。
彼らは「日本のもう一つの民」の末裔ではない。
しかし、彼らは遊行することによって「日本のもう一つの民」と同じ生活様式、同じ宗教的基盤を持たねばならなくなるのであろう。
彼ら自身の本来の守護神や戒律も、「日本のもう一つの民」の中に同化されて行くのだとも考えられる。
道成寺説話は、その内包する精神によって、「日本のもう一つの民」の末裔にとって彼ら自身の祖先の怨念の叙事詩であり、
彼らの日々の秘めたる怨念さえも包み込んでいる物語であるとも言えるだろう。
谷川徹三の「日本の美の系譜について」における論考に、次のような一文がある。
「私は、その仏教と仏教芸術の受容以前に、日本がまだ歴史時代にはいらぬ遠い昔からすでに日本にあった原始土器を取り上げ、
そこに示されている美の形が、後の日本の造形芸術の発展の諸相の中にも見てとれることに私の視点を定めたい。
私が縄文的原型と弥生的原型という言葉を使うのはそのゆえで、この二つを私は日本の美の原型と考えるからであります。
……中略……縄文土器は、その多様な形と自由な装飾性とともに、どこか暗い不安を秘めた怪奇な力強さを特色としています。
そこには火焔土器と呼ばれている炎のように渦巻いている幻想や、情念の焔をあげているのが見られるようなものもあり、
その性質は同時代の土偶において一層際立っています。
それに反して弥生土器は強烈なものや怪奇なものをいささかも持っていません。
それは器物の機能を素直に生かした安定した形の中に、明るく、優しく、親しみ深い美しさを感じさせます。
この時代にすぐ続く古墳時代の人物や動物の埴輪を、縄文の土偶に比べれば、この両者の対照は一層はっきりするでしょう。
そこには明らかに断絶があります。
しかし、そこには明らかに断絶がありながら持続の姿も見られるので、その断絶と持続との二重性に、私は第四の理由を見出すものです。
……中略……、断絶と持続という二重性は、もともと縄文文化から弥生文化への推移の過程で形作られたことですから
当然と言えば当然と言っていいでしょう。
……中略…私が縄文的美の系譜を重んずるのは、すでに述べて来たような時代様式や天才の表現の中にそれが示されているのみでなく、
あらゆる時代に民衆の生活と直接結びついたものの中にそれが示されているからであります。
神楽の面・踊りの衣裳・絵馬・凧の絵……中略……、それを一つ一つあげればきりのないほど至るところにそれは見い出される。
……中略……つまり縄文的美の系譜は、民衆の生活の底辺に脈々として存在し続けたので、
それが時あって一時代の様式の中に、また幾多の天才の中に爆発的にあらわれることを、
十分理由のあることと考えさせるのであります。」
しかし、彼は論考の中程に次のような但し書を置いている。
「ただしかし、これらのことは日本の美の系譜を縄文的と弥生的という二つの原型のみに
帰することはできないこと、
日本の美の諸相はその時代と社会によって、なおさまざまな原理の導入を必要とすることを語っています。
縄文的原型と弥生的原型とは、日本の美の系譜に対する一視点を与える作業仮説として機能するというまでであります。
この二つの原型の中で日本の美の正系は、弥生的系譜の中にあることも、ここで改めて言って置いた方がいいでしょう。」
(『縄文的原型と弥生的原型』より)。

彼の述べる縄文的原型と弥生的原型に、上述した「日本のもう一つの民」という仮説を重ねるならば、
「日本のもう一つの民」こそ縄文的美の系譜を受けつぎつづけてきた人々であると言うことが出来る。
谷川徹三の場合には、日本の美の系譜に対する一視点を与える
作業仮説でしかないのかもしれないが、
芸能者の伝承の上では、それが一つの精神的基盤となり
今日、太鼓の響の中にその心を見、聞くことが出来るのである。

谷川徹三の論じているごとくに、西方から日本に入って来た弥生人の血が、
東進するにしたがって土着の縄文人の血と混り、
東北地方に至っては縄文人の血が濃く残って行ったとしても、
その民衆の中に縄文的美の系譜の流れが強く残っている理由の一つには
民衆と直接結びついていた遊行者の存在と、その宗教とその芸能が考えられるだろう。
そして、仮りに原始・古代・中世・近世と大別する日本史(児玉幸多の分類に拠る)の中に、
縄文型文化系の人々と弥生型文化系の人々という二通りの日本人を見るならば、次のような事が言えると思う。

原始においては、定住農耕生活者(弥生型人とする)と移動技術生活者(縄文型人とする)は
対等な関係において生活し、その間の交流も多く、移動から定住へと変化する者も多かったであろう。
古代においては、弥生型人の中において、貴族や天皇となる支配者階層と被支配者階層の分化が見られ、
彼らの富に支えられた先進文化人としての仏教の僧が生まれる。
そして縄文型人の中においても、宗教者、遊行者、技術者、商人などの分化が見られよう。
そして縄文型人が弥生型に変身するかのような現象も少なくなっていったのではなかろうか。

古代中世からその末期にかけて、古代における分化がより細分化され
武器を持つことになれた縄文型人の集団の一部は、
定住化していた者もしていなかった者も、武士団と言う新らしい階層を生み出した。
そして、中世から近世にかけて支配者として台頭してくるのである。

近世においては、江戸幕府という武士団の支配により、周知の江戸文化を築き上げる。
古代における文化の急進を支えていた人々は、朝鮮や中国から来朝した技術をもった人々であり、
彼らは手人として、弥生型の定住農耕者の生活に割入出来ず
結局移動技術者の中に包まれていったのではなかろうか。
そして、王朝美学の衰退と支配者としての武士団の台頭とが、
遊行者などの縄文的美の系譜を受けつぐ人々の
芸能を歴史上に浮上させたのだと思われる。
遊行者の芸能の隆盛を支えたのは定住農耕者の経済の安定と都市の発達であったと思われる。
歌舞伎にもつらなる底辺の芸能的素材は、原始から今日に至る
縄文的文化系譜を担って来た人々の伝承によって、
積み重ねられてきたものである。
芸能の伝承に関わりを持つ者は、何らかの形で縄文的文化継承者であって、
その凄まじき精神の伝承が、
日本文化の観念的雄大さと特異さを支えてきたものと考える。
道成寺説話という日本芸能の代表的演目の一つを生んだ素材を、
その起源から芸能化への進展まで追い探る内に出現して来たのは、
熊野遊行者を筆頭とする歴史にはその片鱗しか見せない
縄文的文化系譜を受けつぐ「日本のもう一つの民」の姿である。
そしてそれらの人々の手によって、道成寺説話は、
日本芸能史の上に一つのとうとうと流れる大河のごとく
芸能の素材となりつづけて来たのである。
その大河は今日もたお流れつづけているのだろうか。
そして、今日の芸能者に縄文的美の系譜を受けついでいるものがいるだろうか。
世界の中の日本を自覚した時、よりすぐれた舞台芸術を生み育てるために、
日本芸能の伝承の中に埋もれる精神を、
再び甦らしてしっかりと把握し、それに溺れることなく染まることなく未来に向って
新たな力として用いる必要がある。
怨念の精神史とでも言うべき日本芸能の精神の流れの中で立ちつくすよりも、
その流れの力をこれからの舞台芸術に生かすべきなのである。
その力を、より人間らしい人間であるための人間の人間に対する
問いかけにしなければならないのが、我々である。



参考文献資料
「さすらい人の芸能史」 三隅治雄 日本放送出版
「猿楽伝記」 燕石十種第三所収 第四輯 古事類苑
「歌舞伎以前 」 林屋辰三郎 岩波
「歌舞伎狂言往来」 渥美清太郎
「歌舞伎細見」 飯塚友一郎
「歌舞伎年代記・続・続々 」
「歌舞伎年表1〜8巻 」
「絵本風俗往来」 菊地貴一郎 青蛙
「観阿弥と世阿弥 」 戸井田道三 岩波
「古事記 巻1」 [国史大系・巻7] 経済雑誌社
「江戸近世舞踊史」 九重左近 万里閣書房
「江戸芝居邦楽年代記 」 山本桂一郎
「今昔物語集」 佐藤謙三 校注  角川文庫
「山伏神楽・番楽 」 本田安次 井場書店
「十二支考 」 南方熊楠 平凡社
「鐘巻・道成寺 謡曲集」  下巻   [日本古典文学大系41] 岩波書店
「神皇正統記 」 北畠親房 鈴木種次郎 三教書院
「世阿弥と能の探究」 松田 存 新読書社
「折口信夫全集」 折口信夫 中央公論社
「全国寺院名鑑」 全日本仏教会刊
「大日本国法華経験記」 鎮源 [日本思想大系・巻7] 国書逸文(抄 和田英次) 
「大日本地名辞書 」 吉田東伍
「天皇の系譜と神話2 」 吉井巌
「伝統演劇と現代」 堂本正樹 三一書房
「道成寺縁起 」 長坂金雄 編   [日本絵巻物集成巻二] 雄山閣
「道成寺考」 屋代 弘賢 1758-1841       燕石十種第三所収 第四輯
「縄文的原型と弥生的原型」 谷川徹三 岩波
「日本の美と心と 」 保田輿重郎 読売選書
「日本演劇の研究」 高野辰之 改造社
「日本歌謡集成 」 高野辰之 東京堂
「日本芸能の源流」 青江舜二郎
「日本芸能の世界」 林屋辰三郎 日本放送出版
「日本史年表 」 児玉幸多編
「日本書紀・続日本紀 」 [日本古典文学大系67.68] 岩波書店
「日本舞踊史の研究」 三隅治雄 東京堂
「日本舞踊総覧」 日本舞踊協会編 日本週報社
「日本霊異記」 景戒 板橋倫行 校注 角川文庫
「能から歌舞伎へ」 松本亀松
「変化論 」 服部幸雄 平凡社
「邦楽舞踊辞典 」 渥美清太郎 冨山房
「蜀山人『一話一言』補遺」 風来山人集 [日本古典文学大系55] 岩波書店

【道成寺攷 参考資料一覧】

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