【道成寺攷10】

【本論道成寺…説話考…】

【第三章 説話の系譜】

【第三節 第二期について 十六世紀まで 】

第二期に入ると、道成寺説話はその後日譚といわれる第二伝説、「鐘供養譚」の登場に伴なって、
宗教的色彩を脱して物語としての面白さを求めて変化して行くように思う。
道成寺説話の第二伝説は、能における「鐘巻」によってはじめて歴史上に現われてくるのだが、
果して能の「鐘巻」以前に第二伝説は無かったであろうか。
能の「鐘巻」は、今日では廃曲にちかいものとなっており、現存の謡曲「道成寺」にその影響を与えまた、
黒川能・壬生大念仏などにもその面影を見ることが出来る。
黒川能や謡曲「道成寺」の詞章からは、幾つかの修験に関わる意味合を持つ部分をぬき出すことが出来る。
例えば、謡曲「道成寺」からは次のような部分をぬき出せる。

「行者の法力尽くべきかと……中略……東方に降三世明王…」から最後までは、修験に基ずく修法の詞章であると言える。
謡曲「道成寺」の詞章の中から道成寺説話に関連する言葉を取りのぞくと、
この作品は鐘供養にまつわる女人禁制と白拍子とその変身と修験の修法の霊験譚であると言えるだろう。
この霊験譚は、構想として東北地方に伝わる山伏神楽・番楽の「金巻」に非常によく類似している。
本田安次は、「その名を山伏神楽・獅子舞・権現舞・番楽・ひやま等と呼ばれている一群の古風な舞曲が、
北は下北半島から、南は最上郡に至る陸奥・陸中・羽後・羽前の奥地に広く分布している。
これらの舞曲は、詳しく調べてみると、純粋の御神楽ではなく、今ある猿楽の能でもなく、
舞楽・延年の類とも異り、また、幸若や人形浄瑠璃や歌舞伎等とも同一ではない。
しかも、それらの何れの要素をも、幾分かづつは備えているかに思われる不思議な様式を持った、
まだ世にはあまり知られていない楽舞である。」と注目する。
更に、「この芸能をとりわけ濃く特色づけているものは、奇しくもはげしい呪師・陰陽師の祈祷の様式と、
信仰の雰囲気を以って包まれた中世のあはれにも華やかな陶酔的な情趣とである。
明らかに辿り得る一つの歴史は、この一群の楽舞は、只今も羽後の保呂羽山を中心に、
その周囲の諸社に伝えられている神子・神主の湯立を主とする神道の御神楽に、
恐らくは、呪師・千秋万歳・田楽・猿楽者流が、
山伏修験の徒に古くから伝えたと思われる芸能と結びついて、複合的な、
独特の様式を成立させるに至っていることである。」
(『山伏神楽・番楽』)といっている。
この山伏神楽や番楽の「金巻」は、その幾つかの地方に伝わる詞章に多少の違いを見るが、
共通点として、「旅の女・女人禁制・破戒・変身・修験の霊力・折伏」の五点を上げることが出来る。
だが、その詞章から見て山伏神楽や番楽の「金巻」は、能の「鐘巻」のごとくに、
道成寺説話の第二伝説の芸能とは決していいきれないものである。
能の「道成寺」や「鐘巻」と、山伏神楽や番楽の「金巻」は、その構想に類似点を見い出しても
詞章が全く異なるものである。
そのために、能と山伏神楽などの間にある関連性を推測出来るとしても、
「道成寺」や「鐘巻」と、「金巻」との間では、作られた発想が全く別なものであると言い得る。
山伏神楽などによって「金巻」の中で強調されている点は、女が旅人である事・女人禁制の寺である事・
破戒すれば異形のもののけに変身する事、
そして、その異形のもののけに変身したものを調伏するのが熊野参詣途上の修験者であるという点である。
金まき寺の住僧には、その異形のもののけを調伏する力が無かったのであろうか。
「金巻」において、調伏すべき対象はその土地に定住している者ではなく、旅の女である。
旅の女によって女人結界の戒が破られて金まき寺はけがされるわけである。
そして、旅の女ということはもたらされたけがれであって、そのけがれは清められて持ち去られなければならない性質のものだ。
持ち去られるためには、必然的に熊野参詣途上の修験者かあるいは漂泊の修験者でなければならなかった。
たまたま立ち寄った客神によって、災い・穢れは祓い浄められ、持ち去られるのだ。
また、東北各村々を毎年のように訪れる山伏達は、彼ら自身の本来の姿と、その霊力の誇示の必要があったのかも知れない。
そのために、彼ら自身のもたらした芸能は彼らの信仰と彼ら自身の宣伝を兼ていたものと思われる。
したがって、ここにおいては山伏神楽などの「金巻」は、道成寺説話と全く無関係に
修験道の宗教的宣伝芸能の色を濃く持っていると言えるだろう。
道成寺説話が、修験者を中心とする熊野遊行者によって流布された点を思うと、
修験者達は女性の問題を扱う説教的な口説として「道成寺説話」を、
そして霊力誇示と護法として「金巻」という芸能を、別々に携さえて伝えて行ったのであろう。
能はその「鐘巻」において、山伏神楽などにおける「金巻」の構想と道成寺説話を混合し、
より複雑な筋の展開と凄絶さとによって劇的効果を高め、芸能として一大躍進させたのである。
これによって、山伏神楽の「金巻」は能に吸収され、道成寺説話の第二伝説として能の中に生きて行くこととなり、
後の道成寺芸能の基礎となった。
ここにおいて道成寺説話の伝承の主流は、はじめて熊野遊行者の手を離れて日本芸能史上に
華々しい足跡を残して行くこととなる。
第二期におけるもう一つの特徴として、道成寺における「道成寺縁起」の制作が上げられる。

高野辰之によれば、次のような推論が述べられている。
「現存道成寺縁起の原本は、応永三十四年(1427年)の作で、
延長六年(928年)はそれから五百年を遡らせたものである。
また逆にこう考えたい。
延長六年は此の寺にとって記念すべき事件たとえば改宗とか再建とかのことがあって、
それから五百年目に此の縁起が作成されたものである。
とこう考定したい。」(『日本演劇の研究』)。
この一文は、確実な論証に基ずくものではないが、道成寺縁起の制作年代といわれている応永年間と、
縁起における明確な年代「延長六年」とを結びつける仮説として、大変興味あるものである。
だが、道成寺緑起が生まれる背景には、能における「道成寺」の評判によって、
当の道成寺があわてて寺伝の縁起を作らなければならないような、社会的要求があったのではなかろうか。
「道成寺縁起」と謡曲「道成寺」の詞章の比較を行なうと、
「道成寺縁起」には目立って地理的名称・人名・女の変身の状態などが具体的であり、
謡曲「道成寺」の詞章における道成寺説話の素朴さを考えると、
「道成寺縁起」は能の「道成寺」あるいは「鐘巻」よりも後に作られたものであると仮定できる。
そしてその中には、能の大きな影響が見られる。例えば、「まなごの庄司」の名が「道成寺縁起」では「清次」とあるが、
謡曲「道成寺」にはその名は見えない。
そして、観阿弥の名は「清次」である。
その名と縁起の清次の名は偶然であろうか。
道成寺縁起は、従来の『今昔物語集』などにある道成寺説話と、能における詞章を混合してつくられたものであろう。
能における詞章の道成寺説話は、山城国相楽郡上狛村に伝わるという
「上狛踊歌・日高踊」という歌謡の筋立と全くよく似ている。
また、『日高草子』『賢学草子』などとよばれる、あきらかに道成寺説話を素材とした物語もこの時期につくられている。
だが、今日では安珍清姫の物語として知られている道成寺説話も、この時期には未だ清姫の名が現われていない。
清姫の名がはじめて現われてくるのは、成立年代が明らかではないが、『道成寺清姫和讃』からではないかと考える。
『清姫和讃』は、この第二期と第三期とを結ぶ時期に作られたものではなかろうか。
この『道成寺清姫和讃』については、その内容の簡明なことと、整った詞章によって、
年代がかなり新しいとも思えるため、後の考察によりたい。



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